近江龍一郎、惑う

第1話:目代の起動

「文数差、二二文。近江龍一郎さんの勝利です」


 六月の初頭、龍一郎はこの日も代打ちとして二階奥の空き教室に出向き、依頼人の希望通り勝利を収めていた。


「やったー! これであんたは私の彼氏を誘惑したって事になったわよ!」


「ち、違うよ、私はただあの人と幼馴染みで……本当に何も……」


「言い訳なんて要らないわ、、ねぇ皆!」


 彼氏を誘惑した女に謝罪させたい――。


 痴話喧嘩じみた依頼を見事に遂行した龍一郎は、依頼人から対価として六〇個の花石を受け取った(こういう問題は六〇から七〇が適正――代打ちの相場に一番シビアな目代の教えであった)。


 廊下に出た龍一郎の後ろでは、「謝れ」「謝れ」と、観客として押し寄せていた依頼人の友人達が、口々に罵声を飛ばしていた。


 一年生の男子で、強い代打ちが現れたらしい……。


この噂は瞬く間に校内に広がり、物珍しさもあって五月の下旬頃から彼を頼る依頼人が増え出した。


 当初は余程の依頼でなければ断っていた龍一郎であったが、トセや宇良川の勧めもあり、「実績作り」として代打ちに出掛けるようになった。


 龍一郎はトセ達の待つ部室へ直行はせず、会計部へ寄り道をした。


 稼いだ花石をジャラジャラと持ち歩くのを嫌い、その殆どをしていたのである。


「こんにちは、近江君。いつものかな?」


 顔馴染みとなった三年生、沖永美津江おきながみつえが微笑み掛ける。


 少し待っていてね――沖永は花石を素早く計数し、彼の通帳に「六月四日、六〇個入」と記していく。


 最後に沖永の印と会計部の印を所定の欄に押し、の手順は終了となる。


「一杯貯まったわね、近江君。一年生でもう超えなんて、凄いわよ」


 額面に目を通し、驚きながら返却する沖永。


 一方の龍一郎は愛想笑いを浮かべるだけで、然程に喜びも興奮も無かった。他人の通帳を見るような非現実感だけが彼を支配していた。


「こんなに稼げるって事は、近江君やっぱり強いのね。今度お願いしようかしら」


 またおいで、と手を振る沖永に会釈し、龍一郎は三階の部室を目指した。


 歩きながら首を回す龍一郎、三日連続で代打ちを行った疲労が一気に押し寄せたらしかった。


 このまま帰って眠ろうか……彼は溜息を吐いた。


 しかしながら身体は部室の前にあり、右手は勝手にドアノブを捻っている。中では見知らぬ女子生徒と目代が対面していた。


「あっ、一年生の近江君……だよね? ちょっと代打ちをお願いしたくてさ」


「どうも……ちょっと拝見しますね」目礼しつつ龍一郎は椅子に座り、目代がメモ用紙に書き取っていた内容を確認した。


「……なるほど、『どちらが先にアルバイトへ申し込むか』、ですか」


「そうなんだよ! 私も友達もお金が欲しくてさ。でも……私達が希望しているお店、募集人数一人なんだよね。ジャンケンで決めるよりは……伝統で決めよっか、みたいな?」


 それぐらい、自分達で決めてくれ――とも言えず、龍一郎は努めて真剣な表情を崩さずに低次元の依頼内容を読み返す振りをした。


「どう? 受けてくれる? 対価はしっかり払うからさ、くらいで良いよね?」


「……せめて五〇は欲しいですね」


 えぇーと不満げな声を挙げる依頼人は、自身の巾着袋を開いて見せた。


「この前金花会で負けてさぁ、これしか無いんだもん。お願い! 私を助けてよ!」


 私を助けて――いたく明るい声色で唱えられた文言が、しかし龍一郎の頭上から大きい質量を以て降り掛かるようだった。


「……じゃあ、二〇個で――」


 龍一郎と依頼人の間に、目代は素早く手を伸ばした。契約に異議を唱える所作であった。


「どうしました目代さん?」


 かぶりを振った目代は、俄にペンを持ち、メモ用紙に何かを書き記した。


「『彼はそんなに安い男ではありません』……いやいや! だってこれしか花石無いんだもん、仕方ないじゃん!」


 ねぇ近江君! 依頼人は龍一郎に同意を求めたが、彼は頷くとも否定するとも出来ず苦笑いをするだけだった。


「今、その子は売り出し中なんでしょ? 私が一杯宣伝してあげるからさ!」


「……目代さん、別に俺は二〇個でも大丈夫ですから……」


 しかし目代は頑として譲らず、果たして依頼人は憤慨しながら部室を出て行った。


「意味無いじゃん代打ちなんて!」と捨て台詞すら吐かれ、勿論龍一郎は面白く無く――。


「何か事情があったんですか、あんなに頑なに断るなんて……」


 目代は黙したまま、胸ポケットから手鏡を取り出すと、龍一郎の顔をそこに映した。


 嬉しがるとも、怒るともない「苦笑い」をする龍一郎が、鏡の中で困惑していた。


「はは、何か着いていましたか……?」


 少しの食べカスやゴミの付着が認められず首を捻る龍一郎であったが、どうやら目代の着眼点はそこではない――という事だけは分かった。


「あの、何が……」


 いつもより乱暴な素早さで目代は短文を記し、龍一郎の前に突き出した。


「『そんな笑い方をする人じゃないでしょ』……いや、俺は別に何も……」


 小さな鏡の中で笑う自分に言い聞かせるように、龍一郎は「ははは」と楽しげに笑った。


 しかし納得のいかないらしい目代は目を尖らせるばかりで――果たしてその詰問じみた視線から逃げるべく、龍一郎は「用事がある」と嘯き部室を出ようとした。




 待ちなさい――。




 聞き憶えの無い、涼やかに響くような声が彼をその場に縫い付ける。


 声の主は「ツキを逃がさぬように」と、普段の発声を控えるであった……。

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