二章 船の巻

第10話 ウツボの船


 フエンは、滝が落ちるような音で目を覚ました。辺りは寒々しくて、体が冷え切っている。きっと、寝る前に乳母が火鉢を消してしまったのだろう。

 フエンは、奇妙な夢を見ていた気がした。きっと寒さのせいだと、自分に言い聞かせた。

 大きなため息を吐いて、何度か瞬きをすると、やっと視界がハッキリしてきた。だが、目の前に見慣れた木の天井はなく、大きな泡のような膜が、つるんと広がっている。

 フエンは驚いて、身を起こそうとした。その直後、フエンは支えを失って、大きく倒れてしまった。手をつこうとしたのに、その手の肘から下が、なかったのだ。


「うっ、腕がっ、腕がない!」


 フエンは叫びながら仰け反った。動揺のせいで、胃の中身を全部吐き出しそうになる。

 なのに、不思議と痛みはない。

 フエンは荒い息を吐きながら、助けを呼ぶために、周囲に目を配った。そして、度肝を抜かれた。

 フエンが居たのは、大きな船の上だった。しかし、船は透明な泡で作られていて、何もかもが透けていた。おまけに、泡の船よりもさらに大きな、一つの泡の中に閉じ込められているのだ。

 これは、ただ事ではないと、フエンもようやく気がついた。その時、フエンは自分の傍に、カヤが倒れているのを見つけて、我に返った。


「カヤっ!」


 フエンは上手く立ち上がれず、這いながらカヤに近寄った。カヤは、フエンの短刀を握り締めたまま気絶していた。全身びしょ濡れで、閉じた瞼の上にも、水滴が乗っている。日焼けしているはずのカヤが、なんだか白っぽく見えた。


「カヤっ、しっかりしろ! カヤっ!」


 フエンがカヤを揺すると、カヤの顔にシワが寄った。カヤは小さく呻いた後に、ゆっくりと目を開いた。


「……フエン?」


「良かった、無事か!」


 フエンは詰めていた息を吐くと、その場にへなへなと座り込んだ。

 カヤは、しばらくぼんやりしていたが、急に険しい顔をして跳ね起きた。フエンがギョッとする間も無く、カヤはフエンの着物を両手で掴むと、躊躇なくガバッと広げたのだ。

 フエンの胸元が、カヤの眼前にさらけ出された。たちまち、フエンは全身を真っ赤にして狼狽えた。


「カっ、カカカ、カヤっ!」


「……傷がない……」


 カヤは唖然として呟き、フエンの胸元から手を離した。

 フエンの肌は美しくて、激しい斬り合いで負った傷など、一つもなかった。だが、フエンの着物は未だ血まみれで、カヤ自身も、その目でフエンの無残な姿を見たはずだった。

 なのに傷が一つもないなんて。こんな不思議な事象に、カヤが納得できる理由は一つだけだった。


「……やっぱり、あたしたち、死んじゃったんだ」


「カヤ、一体何があったんだ、どうしてわたしは腕がないんだ……」


 苦しむフエンの言葉に、カヤは目を丸くしてしまった。


「覚えてないの? 」


「すまん、頭がぼんやりしているんだ……」


 フエンは、肩を落としてうなだれた。


 するとその時だ。突然、二人の座っている空間が、下から突き上げるように大きく揺れた。カヤは咄嗟に、片腕が使えないフエンを支えようとして、腕を伸ばした。

 抱き合った二人は、揺れが収まるのをじっと待った。


「大丈夫だ、カヤ。大した地震ではない」


 フエンは、泡の膜のような天井を見上げて言った。泡の天井というのは、崩れたり裂けたりするのだろうか。見たことがないので、わからなかった。

 フエンがそんな心配をしていると、カヤが緊張した声でフエンに呼びかけた。


「ねえ、何か来るよ!」


 カヤの視線は、足元に向けられていた。フエンも下を向き、飛び上がるほど驚いた。

 透明な船の底には、暗闇が広がっていた。しかも、見たこともない不思議な魚が泳いでいたのだ。

 だが、二人が釘付けになったのは、そのさらに下。大きな黒い影が蠢いた。まるで、カヤとフエンに衝突しようとするかのように、猛烈な勢いで昇ってきていたのだ。


「カヤっ!」


 フエンが咄嗟にカヤの体に腕を回して、飛び退いた。

 次の瞬間、再び泡の膜全体が激しい揺れに襲われた。なんと、黒い影が泡の膜を突き破って、船の真横に顔を覗かせたのだ。

 カヤが悲鳴をあげた。

 それは、巨大な鯨だった。

 鯨の髭から体から、おびただしい海水が流れ込んできた。船の上にまで、飛沫を立てて押し寄せてくる。フエンとカヤは支え合って、流されないように踏ん張るので精一杯だ。

 だが、次に飛び込んできたものには、仰け反るしかなかった。


「ありゃっ、やっぱりお前さんら、“あべっく”だったのかい!」


 鯨の上から声がした。

 耳に引っかかる独特の声色だが、棘は感じない。カヤとフエンは、聞こえてきた声の方へ、恐る恐る顔を上げた。その直後、二人は絶叫した。

 なんと、二匹のウツボが髑髏を巻いて、一人の老人を羽交い締めにしていたのだ。ウツボたちは黄色と赤の目玉を光らせ、次の獲物を探すように頭をうねらせている。老人はウツボにしっかりと巻きつかれていて、すぐにでも骨が砕けそうだ。

 しかし、老人は涼しい顔をして、鯨の頭から滑り降りてきた。


「なんじゃ、急に叫びおって」


 そこで、カヤは気がついた。二匹のウツボは、老人を羽交い締めにしているわけではない。老人の体から、二匹のウツボが“生えている”のだ。よく見れば、老人の体にはフジツボがつき、珊瑚が伸び、貝が巣を作っている。

 あまりにも人間離れした姿に、カヤはおののいて、ますますフエンの体にしがみついた。

 すると、奇怪な老人が笑った。


「ほう、この時代の “あべっく” にしちゃぁ、情熱的だな」


「そ、その “あべっく” とは、なんだ!」


 フエンがカヤを庇うように進み出た。いつでも立ち向かえるように、勇ましく胸を張っている。だが、肝心の声が震えていて、強がっているだけなのが、バレバレだ。

 老人は、そんなフエンを面白がるように答えた。


「そうよのう、“つがい” ってところだな」


 つがい、それならカヤにも意味がわかる。フエンはたちまち真っ赤になり、老人に言い返した。


「つ、つがいなど、我らは鳥獣ではないのだぞ!」


「似たようなものじゃねえか。……おっと、お前さんは、ちょっと毛色が違うのか」


 老人は二匹のウツボに引っ張られるように、スルスルと二人の前に近づいた。カヤは、思わずフエンの腕にギュッとしがみついた。すると、老人は優しく話しかけた。


「怖がる必要はないぞ、カヤちゃん。そうさ、ワシはお前を知っとる。こーんな小さい頃から、ずっと見てきたんじゃ」


「……え?」


 カヤが、少しだけ警戒を緩めて声をあげた。


「ワシの名はクウドウ。見ての通り、モノノ怪じゃ。だがな、時々海面に上がって、漁師と酒を飲むこともある。カヤちゃんのおとっちゃんのヨロギとは、飲み比べで競う仲なんじゃよ」


「そ、そんな話、聞いたことありません」


「そりゃそうじゃろ。カヤちゃんのおかっちゃんは、ワシをひどーく毛嫌いしててなぁ。絶対にカヤちゃんに会わせるなって、ヨロギにキツく言っとったさぁ」


 クウドウはゲラゲラ笑って間を取ると、カヤに尋ねた。


「だけど海に沈んでるお二人さんを見つけてのう、これはただ事じゃないと思って、ワシの船に乗せたんじゃ」


「船? この泡が、そなたの船なのか?」


 フエンが素っ頓狂な声を上げて、泡の中をキョロキョロ見渡した。


「海の中では、木の船よりもこの泡が便利でな」


 クウドウはフエンに答えてから、カヤに視線を戻した。しかし、その顔には影があった。


「……カヤちゃんが海に沈んでたってことは、海上で何かあったんだな? おとっちゃんはどうした?」


「……父やは、海賊に殺されました」




 カヤが、ハヤミの海での一件を話し終える頃には、クウドウもがっくりとうなだれて、ゴツゴツした目元から、蒼色の涙をボロボロと流していた。


「なんてこった、ヨロギがそんな死に方するなんて。人間ってのはぁ罪な生き物だね。大昔から、命の奪い合いばっかりやりおる」


 クウドウは大きく鼻を鳴らすと、寂しさを埋めるように、二匹のウツボを抱きしめた。


「あんな気持ちのでかい男なんて、ここ数百年で他にいなかったさ。ヨロギが人間じゃなかったら、とっくに海の主にでもなってただろうに。それぐらい、最高の友だった」


 クウドウの言葉に、カヤもグッと喉がつまり、涙を流してしまった。父親の笑顔がまぶたの裏に蘇り、もう二度と聞けないはずの声が、耳に届いたような気がしたのだ。

 静かに泣くカヤに、フエンがそっと寄り添った。

 クウドウは真っ赤に泣き腫らした目を拭いて、フエンを見つめた。


「お前さん、カヤちゃんを守ってくれてありがとうな」


 フエンは、顔に影を落として頷いた。

 フエンは、カヤを守れたなんて、これっぽっちも思っていない。それどころか、自分が非力なせいで、カヤを危険な目に合わせて、カヤの村の漁師まで死なせてしまったのだ。

 胸を張って、クウドウに答えられるはずもない。

 すると、クウドウは無言を貫くフエンに尋ねた。


「ところで、お前さんみたいなヤツが、どーしてカヤちゃんと一緒にいるんだ? その体はいったいどうした」


 フエンには、クウドウの言葉が“カヤに不釣り合い”という意味に聞こえ、思わず眉を寄せた。すると、フエンの横でカヤが声をあげた。


「フエンはあたしの大事な友達です」


「あれ、“あべっく”じゃあないの?」


 クウドウは目をパチクリさせて、カヤとフエンを見比べた。


「その坊っちゃんを悪く言ったわけじゃあない。その坊ちゃんからなあ、変な臭いがするんだよ……」


 クウドウは、ズイっとフエンの前に詰め寄ると、鼻を鳴らして、食い入るようにフエンの目を覗き込んだ。フエンは思わず後ずさり、固唾を飲んだ。


「な、何を言いたい?」


「お前さん、約束を破っちまったね。その体は人間でもねえし、モノノ怪でもねえ。なりそこないの、半端もんだ。しかも、死の匂いがプンプンしやがる」


 クウドウの言葉を受けた瞬間、カヤとフエンは、思わず視線を合わせた。すると、クウドウが勝ち誇ったように笑った。


「“びんご!” じゃな?」


「……いかにも。わたしは、火を通した人魚の肉を喰らい、500年もの間、この身が石像になっていたらしい。だが、それ以外何もわからぬ」


 フエンが正直に打ち明けると、クウドウは怪訝な顔をして、首を横に振った。


「そんなはずねえ、お前さんも覚えがあるだろう」


 クウドウは、フエンの心臓の上に、珊瑚のような手を押し付けた。


「ここの音をよく聞いてみなさい、思い出さんかね?」


 フエンは意図を掴みかねていた。だが、クウドウの手が置かれた奥、自分の心臓に意識を移した直後、フエンは真っ青になって膝から崩れ落ちた。


「フエン、どうしたの、大丈夫?」


 カヤがすかさずフエンの背中に手を回した。フエンは、左手で自分の喉元を触り、引きつった顔でカヤを振り返った。


「カヤ……、わたしは……」


 フエンはその場に坐り直すと、斬り落とされた腕を見た。そして、残った手で首の後ろを、そっと摩った。


「わたしは、この首を斬り落とされた。体に刃が突き刺さった。でも、なぜか死ななかったんだ」


 フエンは吐くように告げた。思い出したのだ、タゴノ岬の首切り場を。そして、胸を突き破った海賊の刀を。フエンは、クウドウに泣き叫ぶように尋ねた。


「わたしは、首を切られ心臓も潰された。なのに、なぜかまだ生きている。もし理由を知っているなら教えてくれ、わたしの体は、どうなってしまったのだ!」


 フエンの痛々しいくらいの叫びに、クウドウはニヤリと笑い返した。


「それだけじゃねえ、あんたは鬼の力まで手に入れちまったんだ。ハヤミの海に、死体がいっぱい浮いてたぞ」


 クウドウの言葉に、二人はゾッとした。


「カヤの村の漁師たちか?」


「違う、海賊どもだ。全部あんたが切ったんだよ」


 クウドウは答えると、哀れむようにフエンを見据えた。カヤとフエンは、驚きのあまり声が出なかった。


「あんたは今や、人魚の慰み者と呼ばれる、呪われた生き物だ。海に嫌われ、死にも見放された。どっちつかずの哀れな怪物を、そう呼ぶのさ」


 クウドウが、刺すような視線をフエンに向けた。フエンは肩を丸め、胸を押さえて乱れた呼吸を抑えようとしていた。

 その中に、人ならざる者の証を抱えて。

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