第5話 夢のような時間

 そうして、カヤとフエンは、身も心も打ち砕かれて、オクリ浜に戻ってきたのだ。ここまでの道中は、まるで夢の中を歩いているみたいだった。

 カヤは、ヒラ婆の最後の姿が、まだ目に焼き付いていた。特別に親しいわけではなかったのに、見知った人物が砂つぶのように消えてしまうのは、すぐには受け入れられなかったのだ。

 フエンは、さらに動揺していた。脳裏にかすみがかかったように呆然とし、流れる雲でさえ、うまく目で追えないほどだった。

 二人は、ヒイラの墓を作ってやりたかったが、その気力が湧いてこなかった。


「実は、まだ信じられんのだ。全ては仕組まれていて、わたしが、カヤとヒイラに謀られてるのではと、勘ぐるほどに」


 フエンは弱々しい声で言うと、膝を立てた間に、深く頭を突っ伏した。それを見たカヤは、ハッとした。自分があれこれ考えを巡らせる以上に、フエンはもっと竦んでしまっているのだ。だけど、そんな彼にかける言葉が、見つからない。

 カヤが黙ったままでいると、フエンがまた声を出した。


「あるいは、今までのことは全て夢で、わたしは今にも、屋敷の布団の中で目を覚ますのでは……と、妄想を巡らせている。情けないだろう」


「あたしも時々、夢だったらいいな、って考えることあるよ」


 カヤがやっと答えると、フエンは顔を上げた。とても寂しそうな笑顔だった。


「カヤは、本当に夢だったことはあったか?」


「嬉しくて楽しい時は、だいたい夢だったよ」


 すると、フエンは声を上げて笑いだした。夢のオチとは、たしかにそんなものだと思ったのだ。

 だが、カヤは笑うどころか、真面目な顔をして、急に立ち上がった。フエンが怪訝な顔で見上げると、カヤは着物を脱ぎだした。カヤの日焼けした背中が露わになった途端に、フエンは、火傷したように飛び跳ねた。


「かっ、カヤ! 一体何をっ」


 カヤは、戸惑うフエンなど御構い無しに、ペラリとした胸当てとふんどしだけになって、一目散に海に駆け出していった。

 ギュッと目を閉じたフエンの耳に、ザブンと波飛沫の音だけが届いた。フエンが片方ずつ目を開けてみると、すでに、カヤの姿は海の中に見えなくなっていた。


 フエンは、そのままなし崩しに、待ちぼうけを食らった。することもなく、ぼんやりと海を見ていると、海と空が溶け合っていき、やがて一つの大きな海原のように見えてきた。

 その青い中に、ひょっこりとカヤが現れた。波間の間から顔を出し、空に向かって腕を突き上げている。


「フエン、見て! 」


 カヤが大声をあげた。その手には、大きなサザエが握られているではないか。カヤは、もう片方の腕も突き上げた。その手は、見事なヒラメの尾を掴んでいた。


「今日は、尾頭付きもあるよ! 楽しみでしょう!」


 カヤは満面の笑みだった。白波の煌めきも相まって、その笑顔は真珠のように光っていた。

 フエンはしばらく呆然としていたが、ふいに、息を吹き出し、ゲラゲラと笑い出した。カヤの意図することを察したのだ。それは、「楽しいことは、だいたい夢だった」と、語るカヤからの、「夢だったらいいな」と願った自分への、優しさだった。


「でも、これが夢になったら、悲しいなあ」


 フエンは、まだ口の中で笑いながら呟いた。浜に上がって着物を着たカヤは、フエンの言葉を聞き、にこりと微笑んだ。


「よかった、笑ってくれて」


「カヤはすごいな、まさか冗談を本当にしてしまうとは」


「あたしって、海に潜ることしかできないから。だから、辛いことがあったら、海に行けって父やが言ってたの。そうしたら、海が助けてくれるって」


「わたしは、カヤがいてくれて良かった」


 フエンは、心の底からそう思っていた。500年後の世界でたった一人、絶望的な孤独を感じていたのに、今はそれが薄らいでいたのだ。

 だから、フエンも軽はずみなことを言ってしまった。


「カヤの楽しい夢とは、海に潜っていることなのか?」


「ううん、あたしの楽しい夢は、かかやが生きてた頃の思い出だよ」


 カヤは昨日の話でもするように答えた。だが、フエンはすぐに息を飲み、せっかく明るくなった気持ちを、再び暗くさせてしまったと反省した。

 しかし、カヤは気を悪くするそぶりも見せず、髪の水気を絞りながら微笑んだ。


「と言っても、母やのことはほとんど覚えてないの。小さい頃に病気で死んじゃったから」


「すまない、そうとは知らず……」


 フエンは目を伏せて、肩を落として小さくなっていた。

 まったく、表情がコロコロ変わる男の子だ。カヤは、フエンのよく動く目元を見て、柔らかく微笑んだ。そして、だらんと投げ出されていたフエンの手を、ぎゅっと握った。


「ちょっと早いけど夕飯にしよう。そのあと、ヒラ婆のお墓も作ろうね」


 すると、フエンの目元がまた快活に動いた。



 次の日から、カヤとフエンは、ほとんどの時間をオクリ浜で過ごした。

 オクリ浜に、村の人々は滅多に来ない。ただっ広い砂浜には、いつもカヤとフエンしかいなかった。


「オクリ浜は昔、死んだ人を海に送り出していた浜なんだって。だから、みんな気味悪がって近寄らないの」


 カヤは、天気の話をするように、フエンに教えた。しかし、フエンは思わず眉を寄せた。そんな場所に住み着いているカヤとカヤの父親は、ずいぶんな変わり者だと思ったのだ。

 フエンは、本心がバレないように笑顔を取り繕った。だが、カヤはフエンに白い目を向けた。


「今、あたしのこと、変なやつって思ったでしょ」


「違う、肝が座ってると感心しただけだ」


 物は言いようである。フエンが胸を張って答えると、二人は同時に大笑いした。


「カヤには、怖いものはないのか?」


 フエンは、心の底から感心して尋ねた。なにしろカヤは、息ができない水の中を、しかもいろんな生き物がいる海の中を、自由にすいすい泳ぎ回るのだ。

 カヤは少し考えてから、ポツリと答えた。


「蛇……は、苦手かな。というより、漁師はみんな蛇が苦手なの。蛇は水神様の使者って言われているし、網に引っかかった蛇にうっかり噛まれると、死んじゃうこともあるから」


「なんと、海にはそのような恐ろしい生き物がいるのか」


「全然いないよ。海っていいよ、フエンにも教えてあげるよ」


 カヤは、フエンを連れて波打ち際を散歩したり、小舟を浮かべて釣りをしたりした。フエンも、初めて見るものや体験することが多すぎて、五百年の月日さえ、感じる暇もなかった。


 この日は、早朝から二人で海に出ていた。オクリ浜から桟橋のように伸びた岩場を伝い、二人は釣竿を垂らしていた。

 フエンはまだ一匹の魚も釣れていない。一方、カヤの籠の中には、キラキラした鱗の鯵が、三匹も入っていた。


「すごいな、まるで魚の方からカヤに釣られにきているみたいだ」


「そうかなあ、普通だよ」


 カヤはフエンのおだてに笑いながら答えた。その時、カヤの釣竿が大きくしなった。カヤは、釣り上げたものを見て黄色い声をあげた。


「フエン見て、大物が獲れた!」


 それは、たぬきほどありそうな大ダコだった。それを見たフエンは悲鳴をあげて足を滑らせ、潮溜まりにザブンと尻餅をついてしまった。たちまち、カヤが弾けるように笑い出した。


「笑うなんて酷いぞ、カヤ。わたしは、そのような気色悪いもの、初めて見たんだぞ!」


「これはタコっていうの。脚に吸盤がついてて、何にでもひっつくんだよ」


 カヤはタコを海に逃がしてやり、代わりにフエンの手を取って起こしてやった。二人が並んで立つと、フエンの背の高さが際立つ。だが、フエンはブスっとふくれっ面をしていた。


「カヤはずるい、わたしより海が得意だからって、わたしを驚かすとは」


 フエンが子どもみたいな文句を言うので、カヤは腹を抱えて笑ってしまった。すると、フエンも端正な顔をクシャッと丸めて、笑顔を見せた。


 それにしても、カヤは不思議だった。

 いつもなら、他人との雑談が苦痛で仕方がないのに、なぜかフエンとは普通に喋れるのだ。


「やっぱり、石像の頃から知ってるからかな?」


 と、カヤが分析すると、フエンは多少がっかりした様子で、苦笑いを浮かべた。



 次の日は、カヤが朝から仕事だった。

 カヤが朝食の片付けをしようとするのを、フエンがそっと制した。


「それはわたしがやろう」


「フエンって、お皿洗ったことあるの?」


 カヤに尋ねられると、フエンは苦虫を噛んだみたいな顔をした。だが、カヤはあえて何も言わずに、笑顔をフエンに向けた。


「助かるよ、ありがとう」


「任せておけ」


 フエンはパッと顔を輝かせ、胸を叩いた。

 カヤは、そんなフエンを満足げに見上げた。

 

 カヤは、フエンが五百年前の武士の子だと、未だに信じられないでいた。もしかしたら、それこそ夢の話なんじゃないかと、勘ぐるほどに。

 でも、フエンの様子は、明らかに身分の高い人間のそれだ。掃除もできなければ、洗濯も知らず、服の着方もやっと覚えたばかりである。

 だからカヤは、家事に不慣れなフエンに様々なことを教えた。昨日はやっと洗濯を覚えてくれたのだ。

 カヤはフエンに、今の生活に早く慣れて欲しかった。もしかしたらフエンは、この先何年も、この村で生きることになるかもしれないと、心配したからだった。


「あたし、今日の帰りに港に寄ってくるつもりなの。そろそろ父やが帰って来る頃だから」


「わかった、遅くならなぬように気をつけろよ」


「昼過ぎには帰ってくるよ。もし退屈だったら、父やの本棚を好きに漁っていいからね」


 カヤは、家の奥に積まれた本の束を指差した。

 

 行ってきます。と出て行ったカヤの背中を、フエンはにこやかに見送っていた。だが、カヤが丘の向こうに消えてしまうと、深々とため息をついた。


「何をやっているんだろうな、わたしは……」


 フエンの呟きが、砂浜に落ちた自分の影に、すうっと消えていった。



 カヤは村の沿道を歩いていた。心なしか、カヤの足取りは軽かった。自宅を出るときに「いってきます」を言うなんて、ものすごく久しぶりのことだったのだ。

 

 しばらく歩いていると、村の方から、誰かが走ってくるのが見えた。

 カヤが目を凝らして見ていると、その人影は、まっすぐカヤめがけて走ってきた。

 モロギ家の子どもたちだった。


「カヤ姉ぇ、大変だ! 父やたちの船が、海賊にやられた!」


 カヤの耳に届いた絶叫は、一瞬でカヤの頭の中をかっさらっていった。カヤの生活の土台が、粉々に砕けたのだ。

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