久遠の夜凪に

淡 湊世花

一章 海の巻

第1話 生贄にされる者

 新月の空が、息をするように色づき始めた。まもなく夜が明けるのだ。

 海の底は、このときも闇の世界を留めたまま、刃かと思うほどに凍てついていた。魚はなく、貝は隠れ、寄せては返す波だけが、雄々しく鼓動していた。


 そこに、1人の女が、唇を青くしながら漁をしている。しかし、泳ぎは粗末で、もりを握る手は、漁など似つかぬ細さだ。皮膚の下には脂肪もなく、薄い胸元を笑うように、ふんどしだけがユラユラと踊っている。女は陸の者だった。


 冷たすぎる海の水が、女の肌を突き刺してゆく。波が荒々しい音を轟かせた。女は逃げるように息を吸い、膨らんだ肺を海中に沈めた。

 女は骨の髄まで凍えている。

 それでも、最後に潜った海の底に、女は求めていた獲物を見つけた。女の心臓が一気に膨れ上がり、溶岩のような血がドッと全身に走る気がした。

 一匹の魚が、海底の岩場に張り付くように泳いでいる。奇怪なことに、その魚には肩があった。


 女は慎重に、だが急いで、銛を動かした。ところが、切っ先は虚しく水を掻いただけ。奇妙な姿の魚は、すでに真逆の方角へ動いていた。

 女は諦めなかった。何度も何度も、同じことを繰り返し続けた。

 やがて、女は肺に激痛を感じた。心臓が悲鳴をあげていた。女は、臓器など潰れてしまえばいいと鞭打つが、体は勝手に水の上へと這い上がって行く。

 女が海面に飛び出した。真っ青な口で目一杯息を吸い込む。

 女が何度か息を吸ううちに、波が女を陸に追いやろうとしてきた。女は、させるものかと、必死に海に食らいつき、もう一度凍てつく海の中に潜ろうとした。

 そのときである。突然、女の背後から声がかけられた。


「あんた、夜通し海に潜っていたね」


 女は驚いて、背後の海面を振り返った。

 そこには、赤ん坊ほどの大きさの、ぐちゃぐちゃに皺の寄った、一匹の魚がいた。

 話しかけてきたのは、この魚だった。


「このまま続けると、あんた、死ぬよ」


 ただの醜い魚ではない。その魚には、人間の顔が付いていた。両側のヒレの部分に、2本の腕がニョッキリと生えている。しかし、胸から下は鈍色の鱗を持った、魚の体をしているのだ。


「貴女様は、人魚でございますか」


 女は、震えながら魚に問い返した。寒さによるだけではない。女は、目の前の人語を話す魚が、ものたぐいだと知っていたからだ。

 すると魚は、怯える女を面白がるように、ニタニタと笑いながら答えた。


「いかにも、ワシは、あんたたちが人魚と蔑む、化け物さ」


 そこで人魚は言葉を区切り、女をジロリと見据えた。


「あんた、このワシに何か用かね」


「そ、その通りでございます、人魚様。人魚様の御身を口にすると、死を跳ね除ける絶大な妖力を授かれると聞きました。ですから−−」


 女が最後まで言い終える前に、人魚が笑い出した。貝殻をこすり合わせるような、不気味な声だった。


「あんたもワシを喰らいにきたんだね! たしかにその話は本当さ。だが、このワシが、そうやすやすと人間に食われてなるものかい!」


「どうかお待ちをっ、貴女様のお力を必要としているのは、私目ではございませぬっ! 無実の子どもが、斬り殺されようとしているのです!」


 人魚は海面の下に消えようとしていた。だが、女の必死の訴えに、少しばかり興味を惹かれたようだった。女はすかさず、陸上で起きている、ある事件のあらましを人魚に話して聞かせた。

 すると人魚は、今まで女を蔑むように睨んでいた眼差しを、少しだけ和らげた。


「それは気の毒な話だ。あんたは、その若者をむざむざ殺させまいと、死ぬ覚悟で海に潜ったんだね」


 人魚は、哀れな女を見つめ、物思いにふけった。しばらくすると、思い切ったように告げた。


「ワシはこの海に880年生き、体もだいぶ萎んでしまった。もう長くは生きない。最後に、善行を積むのも悪くはない。良いだろう、ワシの肉をその若者に食わせてやる」


「誠でございますかっ」


「ただし、いくつか条件がある。ワシの肉に刃を通すのは、あんたの仕事だ。ワシの肉が切り裂かれるのと同等の痛みが、アンタにも与えられる。アンタは死ぬ事も叶わず、永遠に死の痛みに苦しめられる。それでも、いいかい」


 女は力強く頷いた。


「そして、ワシの身を食らう際、決して火を使ってはならぬ。必ず、水を湛えたままの我を食らうのだ」


「約束いたします。我が身がどうなろうと構いませぬ。どうか、我が主人をお救いください」


 人魚は、女の答えを噛みしめるように頷いた。ゆっくりと尾びれをくゆらせ、女の腕の中に、そっと命を預けた。




 その頃、陸の上では、一人の若者が、眠れぬ夜を明かしたばかりだった。

 若者は、14歳になったばかりの、西国の有力武家タギ家の御曹司だった。開祖から数えて、6番目の直系の長男であることから、人々は彼を六代と呼んでいた。

 六代の屋敷は、海を見下ろす小高い山の上にあった。雅な作りの中を、女中の代わりに里の地侍たちが行き交っている。客人をもてなすはずの屋敷は、いつのまにか、罪人を閉じ込めるための、大きな牢屋となっていたのだ。

 六代は、布団の上にあぐらをかいて、じっと耳を澄ませていた。すると、目を瞑った闇の中に、色々な景色が見えてくる。部屋の隅の火鉢の中で、炭が割れた。見張りをする侍たちは、震えながら歩き回っている。そして、屋敷の外からは、穏やかな波の音。今夜の海も、夜凪よなぎだったのだろう。

 里に面するホトト浜は、風もなく波も穏やかで、満月の夜は、一層美しい。そんな海のことを、夜凪と呼ぶのだと、里の者が話してくれた。


 六代が、その里の者たちに、刃を突きつけられたのは昨日のことだ。

 六代は、戦火を逃れるために、母方の縁者にあたる、南のソゴ氏領に身を寄せていた。ところが、西国でタギ家が東北武家のノギ家との戦に破れ、事態は一変した。

 タギ家の滅亡を知ったソゴ氏は、六代を処刑し、次代の覇者となるノギ家への献上品にすることにしたのだ。

 ソゴ氏は、初めから戦の勝者に擦り寄るために、六代を匿っていた。タギ家が勝てば、次代頭首を匿った恩赦を主張し、ノギ家が勝てば、タギ家の御曹司を打ち取った戦果を立てられる。戦乱の世を渡り歩くための、実に効率の良い算段だった。


 六代は、ソゴ氏の出世のために利用される運命を、受け入れるほかなかった。すでに、西国の父母が腹を切ったと聞かされている。逃げ延びたところで、誰が自分を待っていてくれるか。


 六代が、そっと目を開いた、その時。部屋の外で物音がした。


「誰だ?」


 六代は、部屋の襖をそっと開き、そして驚いて勢いよく開ききった。


「ヒイラっ、如何したっ」


 六代は、霜が降りている地面に裸足で飛び降りた。縁側の下に、妙齢の女がうずくまっていたのだ。その女は、六代の乳母で、西国から付き従ってきた、たった一人の臣下だった。それが、今は酷い苦悶の表情をしている。

 六代は、乳母を抱きかかえると、火鉢で温まった部屋に運び入れようとした。ところが、乳母は主人の気遣いを、腕を払って辞めさせた。


「六代様、ヒイラの頼みをお聞きください。どうか、何も聞かずに、この白身を今すぐお食べください」


 乳母は、懐から竹の葉に包んだ、何らかの肉を取り出した。竹の葉に包まれていても、異臭が漂い、とても口に入れる気など起こらない。六代は、思わず目を剥いたが、冷静に乳母に言い聞かせた。


「だめだヒイラ、わたしは処刑を待つ身。物を口にする事は禁じられている」


「いいえ、いいえ! 六代様はこの肉を食べなければなりません! 必ず!」


 乳母の必死の訴えに、六代は仕方なく竹の葉の包みを受け取った。包みを開くと、薄透明の、美しい切り身が現れた。

 六代は、その一つを摘み上げ、少し躊躇ってから、口の中に放り込んだ。するとどうだろう。腐った海水を口に含んだような、今すぐ吐き出したい衝動に駆られた。


 しかし、自分が肉を食べた様を目にした乳母は、苦悶の表情の中に、喜びの笑みを浮かべている。六代は、この切り身を吐き出すわけにはいかなかった。


 そのときである。見張りの地侍たちが、物音を聞きつけて六代の部屋まで飛んできた。彼らは、六代にへばりついている、薄汚い女を見つけると、槍を突きつけて大声をあげた。


「貴様何やつかっ」


「この者はわたしの乳母だ! なんの企みもない、ただ、わたしに最後の挨拶をしにきただけなのだ!」


 六代が、乳母を見逃して欲しいと懇願しても、地侍たちは聞き入れようとはしなかった。乳母を六代から引き剥がすと、その場で剣を振るったのだ。

 乳母の悲鳴が上がり、彼女の鮮血が六代の頬にまで飛んできた。

 地侍たちは、動かなくなった乳母を蹴り倒すと、呆然と立ち尽くしている六代に、ちらりと目をやった。


「六代様、逃げようなどと、お考えなされませぬように」


「どこに逃げるというのだ、もうわたしは、この世に一人きりなのに」


 六代は、かつての扱いが嘘のように、乱暴に部屋の中へと押し戻された。ピシャリと閉められた襖の向こうで、乳母の亡骸が引きずられていく音がする。次第に、その音も遠ざかって行き、六代の部屋は再び静寂に覆われた。

 火鉢から、炭の弾ける音がした。

 六代は、呼ばれるように火鉢の前に腰を下ろした。火鉢は暖かく、炭は赤い。六代は、口に含んだままだった肉を、手のひらに吐き出した。それを、無造作に火鉢の中に、ぽとりと落とした。

 なんの意図もない、無意識の行動だった。

 それなのに、六代は、炭の中に落ちた肉を見て目を見張った。

 火に炙られた白い肉は、みるみる色づき始め、嗅いだことのないような、香ばしい匂いを漂わせ出したのだ。

 六代は、取り憑かれたみたいに、肉から目が離せなくなった。堪り兼ねて指を伸ばし、肉をつまみ上げた。今度は、肉が崩れないように、そっと口の中へ運び入れる。

 すると、六代は驚きのあまり頬を紅潮させた。肉は口の中でとろけるように柔らかく、故郷の菓子のように甘かったのだ。

 六代は、乳母から受け取った竹の包みを、急いで開けると、残りの切り身も全て火鉢の中へ落とした。たちまち、堪らなく良い香りが六代の鼻をくすぐり、六代は無我夢中で、全ての肉を頬張ってしまった。

 禁じられていると言われたのに、六代は全てを食べてしまったのだ。



 日が昇り切ると、六代は屋敷から連れ出された。首に縄をかけられ、晒し者として歩かされる有様は、まさしく罪人の扱いだった。沿道を埋める里の住民たちは、かつて人望を集めた御曹司の、落ちぶれた姿に呻きを漏らさずにはいられなかった。

 やがて六代は、ホトト浜を見下ろす、タゴノ岬に連れてこられた。白い垂れ幕で囲われた岬は、今や絶景の首切り場に様変わりしていた。

 六代は、海を前に座らされた。すると、ソゴ家の頭首が、自ら六代に短刀を差し出してきた。


「武士の情けだ。腹を切ることを許す」


 自害の名誉だけは与えられるらしい。六代は短刀を受け取ると、刃を抜き取り、切っ先を自分の腹に突きつけた。

 だが、短刀はそれ以上進むことはなかった。

 切腹に臨んだ六代は、四肢を動かせないほどに震えていたのだ。懐紙を含んだ口から、ダラダラと涎が垂れて死装束を濡らした。

 すると、ソゴ氏が、哀れな六代に告げた。


「もう良い、腹を切るのは辞めよ」


 彼の言葉に、六代は思わず詰めていた息を吐き出した。だが、すぐに六代は、首筋に当てられた冷たい感触に、身を硬くした。

 ソゴ氏の刀が、六代の首に触れていたのだ。


「ワシが、父母の元へ送ってやろう」


 ソゴ氏は冷たく言い放つと、刀を振りかざし、勢いよく下ろした。

 六代の首筋に、氷を刺したような衝撃が走った。

 六代は大きく目を見開いた。首が落ちる最後の瞬間まで、真っ青な海を見ようとしたのだ。

 だが、目の前が真っ暗になった。六代は、死んだと思った。



 ところが、ソゴ家の人間たちは信じられないものを目の当たりにして、どよめいていた。

 ソゴ氏の刀は、確かに六代の首を両断したはずだった。ところが、六代の首は切り落とされていなかったのだ。

 地侍たちが騒然としていると、さらに奇怪なことが起きた。六代の首から、灰色の何かが溢れ出し、あっという間に六代の全身に広がっていったのだ。ソゴ家の人間たちは飛び跳ねて驚き、六代から慌てて離れた。

 彼らの目の前で、六代は石像になってしまったのだ。

 地侍たちが、刃で切りつけても、岩石で打ち砕こうとしても、石になった六代はビクともしなかった。



 やがて、ソゴ家の人間達は、恐怖に震えながら、逃げるようにその場を引き上げていった。六代の石像は、どうやってもその場から動かせず、タゴノ岬に放置されていた。

 そこに、一人の女が、ふらふらとやってきた。女は酷い苦悶の表情を浮かべた上に、体は真っ二つに切られたかのように、いびつに歪んでいた。

 女は、タゴノ岬にたどり着くと、そこに放置されていた六代の石像を目の当たりにした。女はすぐに、それが六代自身であることに気がつき、大声で泣き叫んだ。


「そんな、六代様! わたしは、なんて事をっ」


 女は、死をも凌駕する痛みを感じながら、100年以上も泣き続けた。

 石像になった六代は、真っ直ぐすぎる目で、永遠に海を見続けていた。

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