第12話 すごく優しかったです

 いつもならばオフィスに到着するのは八時過ぎ。しかし今日は係長を連れていかねばならなかったし、なにより妹尾同半だ。ただでさえ、40過ぎて独身、彼女なしの立て看板を背負っている俺は、もしかしてそっちの人なのではと思われている。2人同時に出勤となれば、本当は隠れてつきあっているんじゃないのではなどという妙な噂を立てられかねない。それこそ、今後の仕事に差し障りが出る。それに加えて、俺の住むマンションは動物飼育は禁止となっている。一時的とはいえ、部屋に連れてきたということを、他の住人に悟られるわけにもいかない。それこそ死活問題に発展しかねない。となれば、絶対に出くわすわけにはいかなくて、人の少ない早めの時間帯に家を出るしかなかったのだがしかし。


 ――どうしてこうなるんだ。


 オフィスに入ると、すでに課の全員が出社していた。猫ケージの前には人だかりができている。空っぽのケージを見て、皆が神妙な空気につつまれていて、おはようなんて高らかに声をかける雰囲気ではない。しばらくどうしようかと思案していると、彼らのうちのひとりが俺に気づいた。すると次々に振り返って俺の姿を確認する。皆一斉に駆け寄ってきて「係長がいません」「会社中探しました」「出ていってしまったかもしれません」と堰を切ったようにまくし立てたのだった。


「ああ、それなんだが。みんな落ち着け。大丈夫だから」


 慌てふためく部下たちをなだめに入る。

 それにしても、オフィスに入る時間をずらしてよかった。妹尾には10分くらい後で来いと言ってあったのだ。しかし、よもやこんな展開が待っていようとは、俺の想定をはるかに超えている。本当に一緒に来なくてよかった。係長も含めて一緒に仲良く出勤したところを見たら、彼らは間違いなく、俺と妹尾の関係を疑うだろう。いや、むしろ喜ぶに違いない。期待通りだと、あらぬ妄想を膨らませるだろう。それだけは避けねばならない。ひとまず部下たちを安心させよう。ここは冷静に。あくまでも理路整然と。しかし、そうは思うものの選ぶ言葉に迷うのだ。なぜなら俺は今、係長を連れていない。抱えているダンボールにはトイレが入っているだけだ。

 なんとか言い訳しなければ!

 そうだ、ここはもう一度引き返して、妹尾から係長を預かってこよう。そう思って踵を返そうとしたときだった。


「あれ? みなさん、お早いですね?」


 能天気に妹尾がやってきた。俺はがっくりとうな垂れる。遅かった。いや、もう少し設定時間を長めにしておけばよかった。律儀なまでにきっちり10分遅れでやってきた妹尾の素直さには敬服する。が、まだ説明する前だ。心臓が激しく鼓動する。だいたいこういう場面でこいつは俺の望むベクトルとは真逆の方向から話を持ってくるからだ。とにかく祈る。お願いだから余分なことを言わないでくれよと。


「妹尾! 係長がいないんだよ! 心配になって今日は早く来たのに」


 俺を囲んでいたはずの部下たちが一斉に妹尾を取り囲んだ。俺のときと同様に皆、口々に係長がいないとまくしたてている。すると彼は「はて?」というように小首を傾げ、コートの第二ボタンを外した。ひょっこりと小さな顔が飛び出す。


「みぃ」


 と。安心して、ここにいるからとでも言いたげに係長が鳴いた。


「おまえが連れて帰ったのか、妹尾!」

「ぼくじゃないです。課長ですよ」

「でも、おまえが係長を連れているじゃないか?」

「ぼくも一緒にお供したんですよ。課長だけじゃ心配ですから」


 にっこりと白い歯を並べて妹尾が答えた。部下たちの視線が一斉に俺に向けられる。期待に満ちた目がいくつも確認できた。悪い予感しかしない。


「課長の家に……泊まったのか、妹尾?」

「はい。課長、すごく優しかったです」


 場の空気が一瞬にして凍りついた。部下たちの視線が固まる。その上突き刺さる。すごく痛い。厚みのある布を縫うときの太いミシン針で思いっきりブスブス何回も刺されるくらい痛い。ジーンズが縫えるんじゃないかというレベルだ。

 俺は目をそらした。悪いことは何もしていないが、妙に後ろめたい。

 それもそのはず。妹尾のこのセリフは誤解を招きすぎる。故意に言っているわけじゃない素直な言葉だから質が悪い。そんな言い方じゃ、俺がいかがわしいなにかをしたみたいに聞こえるじゃないか……


「そうか」

「課長、優しかったんだ」

「すごく優しかったんだ」


 俺と妹尾を交互に見た部下たちがにやにやと口元をゆるめて感想を述べる。


「ち、ちがうぞ、おまえら! お、俺はだな……!」


 優しくはした。先に風呂に入るように言ったり、布団を敷いてやったり、掛けなおしてやったり。


「大丈夫です、課長!」

「俺達はみんな、課長の味方です!」

「どんな趣味嗜好を持っていても、課長は課長です!」

「むしろ心から応援します!」


 もはや弁解の余地もない。アウェーで戦う侍ジャパンの心境だ。


「そう……か」


 乾いた笑いしか浮かばない。もう、これは天罰としか思えない。神様が俺に反省しろと言っているのだ。少しでも。そう、ほんの少しでも妹尾によからぬ思いを抱いた己を反省しろと神様の掲示だ。


 弁解することを諦めて俺はデスクに顔を向けた。始業準備に取り掛かろう。明日までには係長用のケージその他もマンションに持って帰ろう。これ以上、傷口を広げるわけにはいかないし、なにより部長に見つかるわけにもいかないのだ。

 だが、俺は足を進めることができなかった。ダンボールを抱えたまま、何度かまばたきを繰り返す。見慣れないものがデスクの上に乗っかっている。


「俺の……机の上のものはなにかな?」


 視線を部下たちに戻す。質問した途端、彼らの顔が華やぐように明るくなった。


「猫グッズです!」


 ものすごいシンクロ率で、ぴったりと声の合った答えが返ってきた。

 デスクに近づき、あらためて手に取ってみる。答えの通り、正真正銘の猫グッズだ。それも大量である。昨日のチョコレートの山と同じ、いやそれ以上の量の猫グッズがごっちゃりと置かれている。缶詰におやつ。派手な飾りのカシャカシャ音の鳴るねこじゃらし。滑り台のような形のしゃれた爪とぎ。小さい子供が潜ったら嬉しそうなビニール製の丸いトンネル、刺身の絵柄のクッション、エトセトラ。


「係長が心配で」

「家にあったものを持ってきたんです」

「ホームセンターで見て、思わず買っちゃいました」

「喜ぶかなあと思って」 


 部下たちがうれしそうな笑顔を浮かべている。そしてどこか誇らしげ。

 そこまで彼らが係長のことを気に掛けるとは思いもしなかった。猫好きがこんなにいたのかと感心してしまう。


「うわあ、すごいですね! 大人気ですね、課長!」


 妹尾がデスクに近づいてきて、グッズを手に取る。彼のコートから顔を出した係長が「みぃ」と鳴いて、顔の下から小さくて細い手をぐぐぐっと出す。ぶんぶんっとグッズを欲しがるように手を振る。

 その姿に、皆が一斉にほぅっとため息をついた。なんて、ほっこりする朝だろう。これも猫の癒しパワーのなせる技なのだろうか。


「小宮山君!」


 ほっこりムードも束の間、オフィスの扉が派手な音を立てて開いた。ピリッと辛口カレーを食べたときのように声を聞いた皆が一瞬で背筋を伸ばした。ドスの利いた野太い声にはものすごく聞き覚えがある。

 声の持ち主が床を激しく蹴るように近づいて来る。部下たちがさあっと蜘蛛の子を散らすようにそそくさと四方へ逃げていく。部下たちの壁が消えて視界に入ったのは、恰幅のいい頭の薄い男性の姿だった。


 心の中で「ひぃっ!」と悲鳴が上がる。

 想定外の人物の登場に胆が冷えた。ああ、終わった。俺の昇進はここで終わった――そう、思わずにはいられない、酒井部長の登場だったのだ。


「おはようございます、部長。出張じゃ……なかったんですか?」


 動揺しているのを悟られないように、ほほ笑みを浮かべる。ここはなんとか穏便に済ませたい。できるなら、今日の業務終了まで係長をここに留めて置けるように。


「そのつもりだった! 専務から連絡がなければな!」


 薄くなった髪の隙間から見える頭皮がうっすら赤く染まっている。眉は艶めいたおでこに向かって吊り上っていて、目も座っている。口なんて真一文字だ。怒りの頂点に達していることは一目瞭然だった。

 部長は怒りを隠そうともせずツカツカと俺に歩み寄って、激しく力任せに胸ぐらを掴んだ。締め上げられて息が苦しい。さすがに元ラグビー選手。年を重ねてはいても、パワーは衰え知らずだ。


「おまえというやつは! おまえというやつは! 専務の娘さんに一体なにをしたんだ!」


 胸ぐらを掴んだ手で大きくブンブンと俺を揺さぶって、部長は怒鳴った。言い訳はできない。萌香の誤解を招いたのは他でもなく俺だ。昨夜萌香の話を聞かずに追い返すような真似をしたのも俺だ。責められても仕方ない。

 釈明することもせずになされるがまま、俺は黙っていた。

 オフィスの空気がどんどん張りつめていく。部下たちは皆、息を殺して俺と部長のやり取りを見守っている。コホンッという咳払いひとつでも発した途端に部長は俺をなぐりそうな勢いだったからだ。だが、俺は知っている。こういう空気でさえも気に留めないヤツをひとりだけ知っている。願わくば、彼が多少なり空気を読むことができますように……という俺の願いはあっさり却下されることとなった。


「あのお、部長」


 間延びした声が空気を壊す。部長が声のしたほうへゆっくりと顔を向けた。俺も一緒になって声の持ち主を見る。心の中でもう一人の俺が「そうなるよねえ」と某オネエ芸能人のようにツッコミを入れた。

 妹尾だ。物怖じもせずに彼は親の仇を見るように険しい顔をしている部長に告げた。


「それならぼくがお答えしますよ」


 天真爛漫な笑顔まで添えて――



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