第7話 ご飯にしますか? それともお風呂?

 右頬負傷の犠牲を払っただけのことはあって、無事に部屋に入ることができた。

 真っ暗な部屋に明かりをともすと、後からついて来た妹尾が「おおっ」と感嘆の声を上げた。


「課長の部屋、かっこいいですね!」


 2LDKの間取りはひとり暮らしには広すぎるくらいかもしれない。元々、物を置くのが好きではないから、家具も必要最低限しか置いていない。


「床も台所もピカピカですね! 生活感がまったくないです!」

「まあ、独身だから。家事は週に一回、ハウスキーパーに頼んでるんだよ。今日はちょうど来てもらったからきれいだけど、いつもはもっとごちゃごちゃしてるよ」

「ハウスキーパー! ますますかっこいい! 憧れちゃいます!」


 妹尾が二重の目をキラキラと輝かせてる。熱い眼差しで俺を見上げる。


「そ、それより、係長をおろしてやれ」


 彼の視線から顔を背ける。彼は「そうでした」と言うと、コートの中にしまい込んでいた係長を、そっとフローリングの床の上に置いた。


 係長は立ったまま、しばらく動かない。そんな係長の傍に妹尾は屈みこむと頭を優しくなでた。


「大丈夫だよ。ここは課長のおうちだからね」


 係長が妹尾を見上げ「みぃ」とか弱く鳴いた。もう一度その頭をなでると、すくっと立ちあがり、つかつかと俺に歩み寄ってきた。じっと俺を見上げる彼の手が伸びてきて、右頬に触れる。途端にビビビッと昼間感じたものよりもっと強い電流が体を駆け抜けた。


「腫れてきてますね。冷やさないとダメですね」

「じ、自分でやれるから」


 体の芯がカアッと熱くなる。至近距離で妹尾の唇を見て、生唾を思いっきり飲みこんだ。いや、違う。腹が減っているだけだ。決していかがわしい衝動に駆られて出た唾ではない。


「あの、課長」

「な、なんだ?」


 返事をする声が上ずってしまう。今日の俺はどうかしている。なぜ、こんなにも動揺しているのだろう。自分でもわからない。


「ごはんにしますか? それともお風呂にしますか?」


 真剣な面持ちで彼は俺に問う。


「なっ!」


 給湯器が沸騰したかのように頭のてっぺんから湯気が出そうなほど顔が熱くなった。あまりのことに言葉が出てこない。まるで新婚夫婦みたいじゃないか! ダメだと思うのに俺の手が言うことを聞いてくれない。妹尾の肩に手を置く。見た目よりもガッチリしている。


「妹尾」


 ぐうきゅるるるる――


 俺の腹が盛大に返事をした。


「ごはんですね! 台所、お借りします!」

「悪いな」


 彼の肩からぱっと手を離して、自分の頭の後ろに回す。ハハハと薄く笑う。


 ――ありがとう、俺の胃袋。もう少しで越えてはいけない一線をまたいでしまうところだった。


 そんな俺の気も知らず、妹尾は部屋の端に置いたボストンバックからエプロンを取出してササッと手慣れたように身に着けた。


「なんで白のレースなんだ?」


 彼の身に着けたエプロンは白い生地の上にフリフリのレースが施されている。


「大家さんのお父さんがくれたんですよ」

「大家さんのお父さん?」

「ええ。たしか、今年で80歳になったとか。大家さん曰く、認知症が進んでいらっしゃるそうで、どうやらぼくを亡くなった奥さんと勘違いなさっているようで」

「そうか」


 80歳の認知症のお年寄りをも惑わすパワーを持っているとは、さすがとしか言いようがない。コイツはきっと人たらしの才能を持っているに違いない。


「じゃあ、ちょっと作ってきますね。課長は係長をみていてくださいね」

「わかった」


 妹尾が台所に向かう背中を見送りながら、俺はふぅっと呼吸を整えた。そのまま洗面所に向かう。鏡に映る自分の顔に驚愕する。

 妹尾の言うとおり腫れてきている。冷やさなければ、明日の出社に支障が出るレベルだ。


 ーーまあ。仕方ないか。


 自分の選択は正しかったのだ。むしろ、これくらいで済んでラッキーだった。もう一発顎にでも食らっていたら、それこそひっくり返っていたことだろう。萌香のパンチはそのくらい重たかったのだから。


 フェイスタオルを水で濡らして固く絞る。じんじんと熱くなって痛みを訴える頬に当てがうとリビングに引き返した。


 テレビの前に置かれた座椅子の上にどっかりと腰を下ろして胡坐をかく。すると、あたりを伺っていた係長がそろそろと近づいてきて俺の膝の上にぴょんっと飛び乗った。小さな体を丸くして寝る彼の頭を優しくなでると、係長はごろごろと喉を鳴らした。気持ちよさそうに目を細めている。


 そのまま頭をなで続けて、係長の喉から聞こえる「ゴロゴロ」という音に耳を澄ませた。ゆっくりと目を閉じる。一日の疲れがじわじわと指先からほどけていく。ほろほろと凝り固まっていた筋肉がゆるんでいくようだ。頬の痛みが冷たいタオルに吸い込まれるように消えていく。それは俺の今までの人生で一度も体験したことがない感覚だった。


「猫がゴロゴロいうときって、しあわせなときなんですよ。課長のことが好きな証拠です」


 目を開けると、小鍋と茶碗を持った妹尾が立っていた。彼は俺の斜め前に膝を折ると、テーブルの上に手にしていたものを置いた。


「あとですね。猫のゴロゴロ音は癒しの効果があるんですよ」


 茶碗に小鍋の粥を移しながら、妹尾は言った。


「そうか。なんか、緊張がとけたかんじはしたよ。痛みもおさまってるしな。猫ってすごいんだな」

「はい。お猫様はすごいんです!」

「お猫様?」

「はい。お猫様です」

「そうか」


 俺に茶碗を差し出す彼は満面の笑みで答えた。猫が大好きだという思いがほとばしっているくらい、彼の笑顔がまぶしくて仕方ない。


「課長、どうかしました? あっ! ぼく、食べさせたほうがいいですか?」

「い、いい! 自分で食べるから!」

「そうですか。ゆっくり食べてください。火傷しちゃいますからね」


 ニッコリと白い歯を見せて笑った彼に俺は小さく「ああ」と返した。

 すでに違う意味でいろいろと火傷しているなんてことは絶対に口にできないなと思いながら、俺はレンゲを手に取った。

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