第6話 すごくお世話になってます

 マンションの駐車場に車をとめるとすぐに俺は裏口に向かった。なるべく人目につかないようにしなければならない。

 動物飼育は禁止されているのだ。見つかって管理人に報告されては今後、二度と連れて来られなくなる。


 人がいないことを確認して、抜き足差し足でエレベーターへ向かう。

 猫用トイレはダンボールに入れて見えないようにしているし、妹尾のコートの中ならば係長が見つかる心配もない。

 幸いなことにエレベーターは一階でとまっていた。待っている人もいない。

 そそくさとエレベーター内に乗り込んで四階のボタンを押す。ここまでは順調。しかし部屋に入るまで気は抜けない。

 途中でとまることなく四階までスルスルと昇っていってくれるエレベーターに、俺は心底安堵した。

 四階に無事到着して、静かに扉が開く。顔だけ出して外を確認する。

 が、そこで俺は目を見開いた。

 髪の長い若い女性が俺の部屋の前に立っている。見覚えのある真っ赤なコートは俺が彼女の誕生日にプレゼントしたものだ。正確に言うとプレゼントさせられたになるのだが。


「なっ……!」


 急いで顔を引っ込めようとしたが遅かった。もれてしまった声に反応するように、女性がすかさずこちらを見たのだ。目が合うと、満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。


「誠一郎!」


 慌ててエレベーターの『閉まる』のボタンを連打する。まずい。非常にまずい相手だ。

 扉がゆっくりと閉まる。すぐに一階のボタンを押す。エレベーターが静かにゆっくりと下降する。


「課長?」


 目をまんまるくさせて妹尾が俺を見た。


「すまん、妹尾。ちょっとドライブにつき合え」

「ぼくはかまいませんけど……」


 エレベーターが一階に到着。扉が開く速度があまりにもゆっくりでもどかしくなる。まだ開き切っていない扉をくぐるように外へ出ようとしたときだ。


「誠一郎!」


 キンッと高い女性の声がエレベーターホールに響いた。

 パッと赤いコートが俺の視界を覆う。

 彼女は階段を駆け下りて来たらしく、髪を振り乱して、ぜえぜえと肩で息をついている。先ほどの笑顔とはまるで変わって鬼の形相だ。

 諦めよう。逃げるのはムリだ。


「なんで逃げるのよっ! ずっと待ってたのに!」


 彼女は周りを気にせず大きな声で叫んだ。


「ちょっと声のボリュームを下げようか、萌香」


 しいっと口元に人差し指を立てて彼女に告げる。ここで騒がれては努力が水の泡になってしまう。しかし彼女は俺の言動が気に入らなかったようで、さらに声を大きくした。


「もう一度やり直したいって思って来たのに! なんでなの! もう私のことなんてどうでもいいってことなの!」

「すまない、萌香。今はちょっと、そういう話は……また今度ゆっくり聞くから」


 そうだ。今は係長を部屋に入れるのが最優先事項なのだ。


「今日はバレンタインデーなんだよ! 誠一郎のために心を込めてトリュフを作って来たのに!」


 彼女はそう言って、金色の小さな紙バックを突き出した。


「あのな、萌香……」


 別れた彼女にも言っていなかったが、俺はチョコレートが大の苦手である。彼女がチョコレート好きだったから、つき合ってからも言えなかったのだが。


「課長はチョコ、お嫌いですよ?」


 俺の斜め後方から呑気な声が飛んできた。

 彼女が「は?」とさらに怒り口調で声のしたほうを見る。俺も振り返る。にこにこと人のよさそうな笑みを湛えた妹尾が「だから、課長はチョコが嫌いなんです」ともう一度念を押すように告げたのだ。


「なに言ってんの、あんた? っていうか、誰?」

「あ、ぼく。課長にすごくお世話になってます、妹尾隆成と申します」


 ぺこりと丁寧に頭を下げる妹尾の姿に、俺はがっくりとうなだれた。気遣いはすばらしい男なのに、空気を読むスキルは持ち合わせていないのが残念でならない。


「ちょ……! すごくお世話になっているって……」


 すかさず彼女が俺を見た。彼女の視線が上へ、下へと忙しく動いた。肩にかけたボストンバッグと胸で抱えた段ボールにピントが合った彼女の口角が、ひくひくと引きつって痙攣している。


「どういうことなの、誠一郎! 私と話したくない理由はこの男のせいなの!」


 どうしたらそういう結論に至るのか。妹尾があまりにもかわいいからか。それとも妹尾の発言が誤解を招いたのか。肩から下げたボストンバックと胸に抱えたダンボールも誤解に拍車をかけたのか。しかしだ。この場をさっさと切り上げるにはこの誤解に乗るしかなさそうだ。

 大きく息を吐き出す。背に腹は代えられない。


「そうだよ。こいつが理由だ」


 正確には『こいつが抱えている子猫が理由だ』なのだが、そこは省略する。ややこしくなるだけだから。

 彼女の顔がみるみる真っ赤になる。その直後、俺の左頬が強烈な熱と痛みに襲われた。


「うっ!」


 彼女の右ストレートが思いっきり入ったのだ。あまりの強烈なパンチによろける。彼女は美容のためにボクシングジムに通っていた。その成果がものすごく発揮された一撃だった。


「誠一郎のバカ! 変態! もう知らない!」


 金色の紙袋を俺に向かってブン投げると、彼女はコツコツとブーツのヒールを鳴らして走り去っていった。

 あまりの痛みに頬を覆う。


「あの……大丈夫ですか、課長?」


 いたわるように妹尾が俺に声をかけた。


「だ、大丈夫だ」

「ぼく、なんか悪いこと言っちゃいました?」

「いや。おまえはなにも悪くない」


 大丈夫じゃない。口の中が切れている。血の味がしている。でも妹尾は悪くない。彼は正しい。言葉が足らなかっただけだ。


「とにかく部屋で冷やしましょう」


 彼は俺の足元に転がった金色の紙袋を拾い上げると、促すように背中を押した。再びエレベーターに乗り込むと四階にある俺の部屋へ向かいながら、今度は無事に部屋に入れますようにと願わずにはいられなかった。



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