第29話 ファンタジスタ・メシヤ
野球選手でも、学生でも、社会人でも、このような思考を巡らせるのは有益だ。選択肢が少ないと問題解決への道が困難になるが、事象を細かく区切って、この場合はこういう可能性があって、次はまたこういう現象があって、さらにその次は・・・・・・、と考えれば、手持ちのカードはどんどん増えていく。
メシヤは自分の日常の一瞬一瞬もこのように捉える癖がある。一人の人間がどういう行動をとるか。そのとき、他者Bは何を話しているか。Cはどこへ行くのか。Dは何を食べているのか。Eは何を考えているのか。
こういう一人一人の、一匹一匹の、草の根一本一本の、石ころ一個一個の位置関係、言動の組み合わせ次第で、見たことも聞いたこともない世界が作り出されていく。メシヤはそういう確信がある。サッカーのゲームと同じように、本来なら輝かしい可能性・未来がいっぱいであるはずの世界が、型にはめられたコピペのような日常が続いてしまうことが、メシヤには耐えられないのだ。
木を見て森を見ずということわざがあるが、メシヤは木をじっくり見てからそれを押し広げて森全体を把握しようとする。要素要素を大事に取り扱う。これは人付き合いでも必要な感覚だろう。
全体像を先に見る人は、大きな視点を持っているようでいてその実は違う。パターン化をしたがり、個性を無視して無理矢理枠に当てはめようとする。タチの悪いトップはこの傾向だろう。機械的に問題を処理しているだけで、人を見ているのではなく、目先にあるのは金である。メシヤは口で上手く伝えられる訳ではないが、直感的にこのことをよく理解していた。誰に教わるわけでもなく。
サッカーは体が大きい方が有利かといえば、必ずしもそうとは限らない。狭いスペースをかいくぐるようにドリブルするのは、小柄な方が向いているだろう。重心も低いのでボールコントロールはしやすい。現に世界のトッププレイヤーは、意外にも身長が低かったりする。
確かに、ハイボールの競り合いは不利だが、プレッシャーのかけ方はいくらでもある。背の高い選手を投入して、恥も外聞もないパワーゲームをしてしまうのはワンパターン病であり、メシヤの嫌うところである。
中二病のメシヤは格闘技も自己流でやっているが、これまた体の大小については持論があるようだ。打ち合いのような打撃系のみの競技は、腕力や身長がモノを言うことが多い。だが、体が大きいということは攻撃力のアップと引き替えに防御力を減少させるのではないか。体が大きければそれだけ攻撃の的がでかくなる。よける・いなすという動作は、小柄で身軽な方が明らかに有利だ。メシヤの身長・体重はそのメリット・デメリットが拮抗する絶妙な均衡点に、幸いにも落ち着いていた。
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