ひとりぼっちの小鬼

<1>

 ダンジョン街から馬車を走らせること半日。鬱蒼と茂った深い森を懐に抱えた山の中腹に、人口二百人にも満たない小さな村があった。

 地図に記されている名は、トゥイック。だが、この村に訪れる者は、誰一人としてその名で呼ぶことはない。村民達でさえ、“炭焼きの村”で通していた。


 かつて良質な木材を求めて山に分け入った炭焼き職人が、炭焼き小屋と共に住居を建てたことが村のはじまりとされているからだ。現在も変わらず炭焼きは盛んで、冬の繁忙期になるとダンジョン街から出稼ぎ労働者も訪れた。


 斜面に沿っていくつも建てられた炭焼き小屋は、今日も絶えることなく灰色の煙を吐きつづけている。まるで競争するように、天に向かってまっすぐ伸びていく煙は、やがて上空の風に巻かれて散り散りとなって消えていく。

 その様子を、ぼんやりと見上げていたミスミに老婆が声をかけた。


「先生、これ持っていってくだせぇ。オラが作った山菜餅だ」

「ありがとう、婆ちゃん。診療所のみんなと食べるよ」


 老婆のしわくちゃの手が、大きな葉で包んだ餅を押しつけてくる。ずっしりと重く、まだほんのりと温かかった。

 ミスミは苦笑しながら、医療道具の詰まった手提げカバンに差し入れる。


「先生には、本当に感謝してもしきれねぇ。こんなちっぽけな村に、わざわざ出向いてくれる医者は、先生だけだ」

「仕事だからだよ。婆ちゃんが感謝することじゃない」

「いんや、先生は立派な人だ。先生みたいな人に診察してもらえるのは、ありがてぇこった」


 こんなにもストレートに感謝されることはめったにないので、少しこそばゆい。ミスミはどんな表情を浮かべればいいのかわからず、照れ隠しにボサボサ頭を乱暴にかいた。


 本当に感謝されるようなことではないのだ。医術者ギルドから訪問代行の依頼を受けて、ただ応じただけ。月に一度、二日かけて村民の診察を行う仕事だ。回復魔法の治療が必要なら、ダンジョン街の医術者ギルドに紹介状を書いてやる――それだけのことだった。

 老婆含めて村民が過剰に感謝するのは、無医村ゆえに医療を受ける機会が少なかったからだろう。だから、回復魔法を使えないヤブ医者であっても、ありがたがってくれる。


「おーい、そろそろ出発すんぞ」


 乗り合い馬車の御者が、出発待ちの客に呼びかけた。

 出稼ぎにきている旦那と、別れを惜しんでいた妻と幼い息子がほろをかけた荷台席にまず乗り込む。つづいて旅商人が乗り込もうとし、背負ったリュックの大荷物がつっかえてひっくり返りそうになっていた。

 この三人にミスミを足した計四人が、全乗客のようだ。


「じゃあ、婆ちゃん。また来月にくるよ」

「ああ、気ぃつけてな。ここんところ山に鬼が出るって話だかんね」


 唐突にとんでもない話をぶっこんでくる。ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて、怪訝そうに老婆を見た。


「鬼ってどういうこと?」

「オラもくわしくは知んねぇんだが、村の若い衆が山で何度か見かけたんだとさ。不気味な形相の鬼で、木陰からじっと睨みつけてたらしい」

「そんなの、どう気をつければいいんだ……」

「まあ、馬車で帰んだから平気だと思うけんどな」


 そう言って、老婆は屈託なく笑った。二本欠けた前歯の隙間から、舌がチロチロと動いているのが見えた。

 老婆の言うとおり、馬車であればたとえ遭遇しても振り切って逃げることができるだろう。心配する必要はないのかもしれない。


 でも、鬼の話を聞いてしまったからには、芽生えた不安は簡単に拭えなかった。

 ミスミはぎこちない笑顔で老婆に別れを告げて、ダンジョン街までの道のりを守ってくれる砦を兼ねた荷台席に乗った。


 吐いた息が白く染まる季節だというのに、寄り集まった人の体温が熱気となってこもっている。幌の内は見た目以上に狭く、乗客四人は肩がすり合う距離で座らなければならなかった。

 それもそのはずで、荷台席の半分以上が積み重ねられた木炭で埋もれていたのだ。人よりも荷物を運ぶことが本来の目的なのかもしれない。


 御者が手綱を引いて馬を発進させる。ゆったりと地を駆る車輪の振動が座席に伝わってきた。

 しばらくして、幌の隙間から外を眺めていた少年が、「あっ」と小さく声を上げた。まだ十にも満たない男の子が、隣に座る若い母の腕を引く。


「ママ、雨が降ってきたよ」

「あら、そうなんだ。さっきまで晴れてたのにね」


 言葉は息子に向いていたが、その表情はあまり関心があるようには見えなかった。出稼ぎの旦那と当分会えないことに、寂しさを感じているのかもしれない。


 母子と向かい合って座るミスミの隣で、中年の旅商人が天井を見上げて険しい顔を浮かべた。

 つられてミスミも見上げると、天井を覆った幌にポツポツと雨が当たる気配があった。目に見えてたわむわけでもなく、かすかな雨音だけが伝わってくる。

 走行に支障のない小雨であることは、確認しなくともわかった。しかし、旅商人の顔つきは戻らない。


「強くならなきゃいいけど……」と、つぶやきがかろうじて耳に届く。


 考えすぎと思える憂慮に、疑問の目が向いた。旅商人は視線を察して、軽く肩をすくめる。


「この時期は山の天気が変わりやすいんだ。麓に着くまで時間もかかるし、油断はできない」


 斜面際の山道を通る都合上、どうしても馬の進みは慎重になる。平地とは比べ物にならない遅さで、当然ながら走行時間も長くなった。天気の変化に遭遇する確率は高くなるわけだ。

 言わんとすることは理解できても、その危険性がいまいちピンとこない。鬼が出るという大雑把な危険のほうが、ミスミは不思議と心に響く。未知なモノに対する恐怖心のほうが、仕組みのわかる現実的な問題よりも大きく感じるものなのだろうか。

 ただ単純に、ミスミが山の天気を舐めているということもあったかもしれない――いや、舐めていたと断言してもいい。


 空の上で誰かが蛇口をひねったかのように、前ぶれもなく雨粒が激しくなった。幌を打ちつける雨音の反響で、すぐ隣にいる旅商人の声も聞こえない。

 怯えた男の子は母の腰にかじりついて震えている。やさしく息子の背をさすりながら、母親も恐怖に顔をひきつらせていた。


 ミスミはおそるおそる幌をずらして、外の状況を確認する。

 眼前を遮る太い雨のカーテンで、ほとんど何もわからなかった。わかったことは尋常でない大雨であることと、山の天気は本当に変わりやすいということ。


 旅商人が腰を上げて、何やら御者に叫んでいる。荷台席に顔を出した濡れネズミとなった御者も、必死に叫び返す。

 切れ切れに聞こえる声をつなげて推察すると、「いま動くのは危険だ。雨が弱くなるまで待つ」ということらしい。

 賢明な判断だと思ったが、なぜか旅商人は不服そうだ。ガードレールのような有用な安全柵が存在しない山道で、無暗に馬車を進ませては危険極まりない。


「ここで止まっていると、何か都合が悪いのか?」


 数度たずねて、ようやく会話が通じた。旅商人は不満を眉間に寄せて、こちらも数度に分けて説明してくれる。


「この辺りは地崩れが多いんだ。もう少しなだらかな場所に移動したほうがいい」


 言い分はわかったが、やはり無理があるように思えた。いまの状況で発進するのは、目をつむって走るようなものだ。

 動くのも運任せなら、動かないのも運任せ。同じ運任せなら、確率的に動かないほうがいい――そう伝えようとしたときだった。

 幌越しに強烈な光が駆け抜けていくのを目視する。わずかに遅れて轟音が響く。雷が落ちたのだ、それもかなり近くに。


 ミスミの背筋は反射的にピンと伸び、時間差で身震いする。いまになって現実的な問題に、あやふやな鬼の存在などよりも恐怖心を抱いた。

 その恐怖に呼応するように、またも轟音が響く。今度は頭上から、ただし雷鳴ではない――まるで爆発のような鳴動が、激しい雨音を貫き届いた。


 次の瞬間、荷台者を猛烈な衝撃が襲う。何が起きたのか理解できないまま、ミスミの体は宙に浮いていた。

 意識は、ここで途切れる。


※※※


「ママ……、ママ……」


 雨音をぬって、子供の声が聞こえる。ひどく悲しげな声だった。


 無理にまぶたをこじ開けると、まず砂利混じりの泥が目に入った。どうして、こんなものがあるのか?――理解が及ぶのに、ずいぶんと時間がかかった。

 ミスミはズキズキと痛む頭を歯を食いしばり上げて、周囲に目を配る。視界に入る惨状を見て確信した、旅商人が危惧していた地崩れに巻き込まれたのだと。


 荷台は半分ほど土砂に埋もれて、長い首が折れ曲がった馬の死体が転がっている。そして、横たわった母親にすがりつく男の子の姿があった。

 意識が途切れる寸前、母親が息子を抱え込むのを見た記憶がある。

 そのおかげか、男の子は擦り傷はあるものの大きなケガはなく無事なようだ。母親のほうもかろうじて息はあるらしく、投げ出した腕がかすかに動いていた。


 ミスミは容態を確信しようと起き上がろうとして、体勢を崩す。左手が命令を無視して機能しなかったのだ。

 ちらりと目を向けると、左肩が不自然に下がっていた。認識した瞬間、猛烈な痛みが走った。

 打ち所が悪かったようで、肩が外れている。脱臼だ。この程度で済んで、まだよかったと思うべきか。


 ミスミは痛みから無理やり目をそらし、右手だけでバランスを取って起き上がる。自分の感覚よりも緩慢な動きとなるのは、冷たい雨に打たれて体が冷え切ってしまっているからだろう。


「おい、大丈夫か?」


 寒さに震える声で呼びかけて、ケガの具合を確かめる。

 母親は呼吸のたびに苦しげに顔を歪めていた。返事をする余裕はなさそうだ。それでも、見たところ命に関わるほどの深刻な症状ではないようで、ひとまず安堵する。


「助けて……くれ」


 横倒しとなって埋もれた荷台席から、弱々しい声が聞こえる。

 重い体を引きずりそばに寄ると、荷台のふちに手をかけて這い出ようとする旅商人の姿があった。右足のふくらはぎに深々と木片が突き刺さり、流れ落ちる雨に血が混じっている。ケガのわりに出血量が少ないのは、木片が栓となって傷口を塞いでくれているからだろう。


 ミスミは腕をつかんで、脱出の手助けをする。片手であることにくわえて、旅商人はジャマでしかない荷物をけっして離そうとせず、引き上げるのにずいぶんと苦労した。

 どうにかこうにか助け出したときには、疲労感によって全身がぐったりと脱力する。


「御者はまだ中か?」

「……あいつはダメだ。もう助からない」


 不審に思いながら荷台の奥を覗き込むと、すぐに言葉の意味が理解できた。御者台は完全に土砂で埋もれて、腕だけがにょっきり突き出ていたのだ。

 念のために身を乗り出し、脈拍を確認してみる。


「ダメだったろ」と、背中に沈んだ声が投げかけられた。

 ミスミは返答をせず、いまにも倒れそうな体にムチ打ち、次の行動を開始した。


 このまま雨中ですごすわけにはいかなかった。どこか雨宿りできる場所を探さなければならない。

 流れ込んだ土砂の圧力で崖際の木は押し倒されていたが、被害は比較的近場だけでおさまっている。高木の常緑樹が密集した山林の奥に目をやり、雨をさけられる条件のいい場所を求めた。


 その結果――太い幹を持つ大木と寄り添うように、無数の岩が積み重なった岩室を見つけ出した。中央部にぽっかりと暗がりができているのを雨越しに確認する。あれが洞穴なら、条件に合う。


 迷っている時間はないので、とにかく目指して進もうと思った――思ったのだが、それを告げることができなかった。

 ミスミの心臓が跳ね上がる。寒さではなく、動揺で色を失った唇が震えた。


 暗がりから何かが飛び出したのだ。何かは、間違いなく人の形をしていた。大木の裏に隠れて、しばらく様子を探った後、雨にまぎれて走り去っていく。

 脳裏によぎったのは、炭焼きの村で老婆に聞いた話だ。


「山に鬼が出る」


 あれが“鬼”だとしても、去っていったことを考えると当面問題にはならないだろう。しかし、いつ戻ってくるともわからない。

 すぐにでも選択しなければならなかった――雨に打たれて凍え死ぬ可能性と、鬼に襲われて死ぬ可能性を。


「……あそこに、洞穴らしきものがある。行ってみよう」


 ミスミは後者を選択した。


※※※


 突然の地崩れに、洞穴で眠っていたロアルは叩き起こされた。

 おそるおそる外の様子を確認すると、土砂に流されて滑落した馬車が目に入る。もげた車輪が勢いよく転がり、木とぶつかってバラバラに砕けた。


「ママ」と、母を呼ぶ子供の声が聞こえた。

 人の言葉を聴いたのは、ひさしぶりだった。炭焼きの村のテリトリーに、誤って侵入してしまったときに聴いた怒号以来だ。


 人間は恐ろしい。ロアルは恐怖で身をすくめる。

 人間と遭遇して、よかったことなど一度としてない。いつも石を投げられ、棒で叩かれ、悪態を吐きかけられて追い出された。

 流れ流れてたどり着いたこの山で、静かに暮らしたいと思っても、こんなふうに人間があらわれることもある。気づかないでくれと、神様に祈った。


「おい、大丈夫か?」


 今度は大人の男が出てきた。大人は怖い、子供よりももっともっと怖い。

 ロアルは地面に這いつくばって、必死に気配を殺す。

 見つかってしまったら、何をされるかわからない。身を潜めて息を殺し、じっと状況を観察する。


 大人の男は別の大人を助け出して、何を思ったのか周囲を見回しはじめた。

 左右を巡る視線が一点で止まる。それは、まさにこの場所だ。険しい表情で洞穴を凝視していた。

 男と目が合った――ような気がした。


 ロアルは反射的に飛び出した。恐怖から、逃げ出さずにはいられなかった。

 そばの大木の裏に隠れて、しばらく様子を探っていたが、耐え切れずそこからも飛び出す。


 山の住処はここだけじゃない。別の隠れ家に移ればいいだけのこと――そう自分に言い聞かせながら。


 でも、不安がないわけじゃない。

 この山には人間だけではない、恐ろしい“鬼”が潜んでいるのだ。

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