透ける台地
<1>
「ごめんね、遅くなった」
ティオが小屋に駆け込むと、エルザは読書中だった。彼女はキリのいいところまで目を通して、ゆっくりと顔を上げる。
小屋を出ることを禁じられているエルザにとって、唯一の娯楽が読書だ。これまで読書の習慣はなかったと話してていたが、いまでは部屋の隅に読み終えた本が山のように積みあがっている。
「こっちは時間がありあまってる。別にいつだっていいよ」
「うん、そうなんだけど、ちゃんとしていないと個人的にスッキリしないんだ」
「ティオは几帳面だなぁ」
声は冗談めかしていたが、表情にくだけた調子は反映されない。表情筋がうまく作用していないのだろう。
日々の変化は微々たるものだが、エルザの身体機能は確実に弱まっていた。青紫の肌の色合いも、出会った頃より濃くなったように感じる。
「じゃあ、さっそく診察するね」
診察といっても、毎日欠かさず計測している経過観察すぎない。エルザも慣れたもので、ティオが測定しやすいように要領よく体を動かしてくれる。
治療法がない以上、他にできることはないと頭でわかっていても、医術者としてはもどかしかった。それでもティオは悔しさを押し隠し、笑顔を崩すことなく仕事をまっとうする。
一通り診察が終わると、次は体の洗浄に取りかかった。小屋には風呂がないので、エルザは基本的に濡らしたタオルで拭くことで汚れを落としているのだが、どうしても一人では手の届かない背面の処置を頼まれたのがはじまりだ。
代謝が落ちたエルザの体に、垢汚れはほとんど見られない。実際のところ毎日行う必要性はないのだが――そこは女性だ、清潔に保ちたい気持ちはわかる。ティオは不満に思うことなく、せっせと背中を拭う。
「ねえ、ディケンズ達の行方はまだわからない?」
「えっと、実は……アーレスさんを見かけたって報告があったの」
「本当に?!」
エルザは大きく身をひねり、強引に振り返った。かなり不自然な姿勢であるにもかかわらず、彼女に苦しそうな素振りはない。
「でも、初級の浅い層での目撃報告だから、見間違いじゃないかって言われてる。中級の層で発見されたエルザの件もあるから、一応調査するみたいだけど、あまり期待できるものじゃないと思う」
「そっか……」
がっくりとうなだれて、エルザは正面に体を戻す。振り返った拍子にティオが肩に置いた手に髪が絡まっていたらしく、頭部に引っ張られる形でプツンと千切れた。
落ちていく髪の束を目で追い、ティオは息を飲む。千切れた髪の先端には、ごっそりと皮膚片がついていたのだ。
エルザに気づかれないように、そっと髪を拾い懐に隠した。束になっていたとはいえ、毛量が多くて目立たないのは不幸中の幸いか。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない……」
動揺によって、かすかに声が震えた。ヘマをしたと反省しても、もう遅い。
背中越しに懐疑心が伝わり、ごまかすために思考を巡らせる。そこで思いついたのが、往診に遅れた事情だ。ティオはゆっくりと、噛み締めるように言葉を紡いでいく。
「エルザ、ここだけの話にしてほしいんだけど」
「そんなこと言われなくても、誰にも話す機会なんてないよ」
「あっ、そうか、そうだね……。えっと、ミスミ先生がね――」
それは、はからずも髪にまつわる話だった。
※※※
寝違えて首を痛めた患者の治療が終わった直後のことだった。
背後に控えて治療の様子をじっと見ていたノンが、何の気なしにとんでもないことを口にする。
「前から思ってたんだけど――」ノンの視線は一点に向いていた。「センセェ、ハゲてきてない」
まるで時間が停止したように、診察室に重い沈黙が降りる。さっきまで首の痛みでうなっていた患者までも、硬直して瞬き一つしなかった。
若さゆえか発言の深刻さをわかっていないノンだけが、止まった時間のなかで不思議そうに首をかしげる。
「ねえ、聞いてる?」
「ハ、ハ、ハ、ハゲてねえし!」
錆びついた扉のようにぎこちなく振り向いたミスミは、動揺で声を震わせながら言った。
ちょうど目線の先にいたティオは、露骨に顔をそらす。カンナバリも右に同じ。
「えー、でも、つむじの辺りが――」
「ノンちゃん!」
珍しくカンナバリが厳しい口調で制止した。
「でも、つむじ――」
「ノンちゃん!!」
懇願するような声の響きに、ノンは面食らって言葉を飲んだ――が、そこで止まればいいものを、今度は別の切り口で追及する。
「ティオ姉ちゃんはどう思う?」
思いがけず話を振られたティオは、顔をひきつらせてよろめいた。まるでモンスターの痛烈な一撃を受けたようなリアクションだ。
戸惑いから落ち着きなく視線を揺らし、声とも息ともつかないものをもらす。どうにかこうにか乱れた心を静めると、ティオは無理に明るい声色で言った。
「そんなことないと思うけどなぁ」残念なことに、フォローになっていたのはここまでだった。「角度によって、ちょっと地肌が透けて見えることはあるけど、まだまだ、全然大丈夫いけてる。ハゲてないよ、うん、髪質が細いんだろうね、うん」
口にしながらティオ自身もまずいと感じたのか、後半になるにつれ早口になっていた。
ミスミは平静を装い何食わぬ顔で立ち上がると、精神ダメージでガクガクと笑うヒザを根性で動かして診察室を出ていく。
「ミスミ先生、あの、どちらに?」
代表してカンナバリが、遠慮がちに声をかける。
「ちょっと用事を思い出した。あとのことは任せます――」
そのままミスミは診療所を飛び出す。つまり、逃げた。
どこをどう歩いたのか、自分でもわからない。頭のなかは“ハゲ”の二文字がグルグル回り、現実逃避を動力源に足を動かしつづけた。
そのムダな歩みが止まったのは、肩をぶつけて転びそうになったのが原因だ。半ば反射的に障害物を見ると、それは人間――顔見知りだった。
「あ、ミスミ先生……」
蚊の鳴くような声を発したのは、ティオの冒険者仲間である魔術師ダットンだった。くせっ毛の長髪の合間から、怯えをにじませた目が見える。
元々人見知りで挙動不審なダットンであるから、この反応もさして気にしなかった――彼が立っていた場所に気づくまでは。
そこは裏通りにある小汚い店舗前だった。引き戸のひび割れたガラスを隠すように、表札を兼ねた紙が貼ってある。記されていたのは、『クリステ毛髪研究所』の文字。
見るからに怪しいネーミングだが、いまのミスミには抗いきれない引力がある。
「こ、こんなとこで何をしているんだ?」
「いや、あの、その……な、なんでも」
ダットンは引きつった不気味な笑い顔を作って、じりじりと後ずさる。都合が悪いことがあるのだろう――と、目の端で『クリステ毛髪研究所』の文字を見ながら思う。
ミスミは逃げないように、素早く腕を取った。頼りなく見えるが冒険者だけあって、意外と力が強い。足を踏ん張りブレーキをかけても、容赦なく引きずられる。
「ちょっと待て、少し話をしようじゃないか」
「は、は話、ですか?」
ようやく足が止まったのは、店前を離れてからだ。よほど、あの場所にいることに抵抗があったのだろう。
これまで治療以外で差し向かい話したことはなかったが、ミスミは普段ではありえない距離感で迫った。
「あの『クリステ毛髪研究所』というのは、いったい何なんだ?」
「あ、あれは、あの、な、なんて言うか……」
「正直に答えてくれ。重要な案件なんだ!」
ミスミのきわめて真剣な問いかけに、ダットンは圧倒されてポツポツと話しはじめた。
「あそこは、ちょっと耳にし、したんだけど、ぼ冒険者の間で――」
ダットンの要領をえない説明を要約すると――最近薄毛で悩む冒険者が秘密裏に結んでいるネットワークの間で、『クリステ毛髪研究所』の薄毛治療が効果的だと情報が回ってきたらしい。そこで真偽を確かめるべく見学に訪れたのだが、いざ店を前にすると、踏ん切りがつかず入店を迷っていたのだという。
「なあ、それってダットンも……そうなのか?」
「えっ、“も”ってことは……ミスミ先生も?」
正面から向き合っていたが、二人の視線は自然と上に滑っていった。
見ただけでは、まだハッキリと認識できるほど目立つわけではない。だが、ひそやかに進行していく脅威の片鱗はかすかに感じられた。同じ悩みを持つ者同士だから、わかってしまうことがある。
「ダットンはどこからキテるんだ。俺は頭頂部のほうからジワジワと……」
「ぼ、ぼくはデコのほうから。は生え際が、ドンドン上がってく。だから、怖くて髪が切れない……」
そのうっとうしい長髪にも理由があったのだと、ミスミは納得する。
「父親はどうだった? 家族にキテる人はいなかったか?」
「お父さんはそうでもないけど、お、お爺ちゃんは後ろのほうまでズッポリ」
「なるほど隔世遺伝か。うちなんて親父も爺さんも、母方の爺さんまでガッツリだ。完全にそういう家系だって、若い頃から覚悟はしていたつもりなんだが、やっぱりキツいよな」
「か、家族のそういうのも関係あるの?」
ミスミはため息と共に、深くうなずいた。医学的根拠があっても、この件だけは素直に信じたくない。
「もちろん他の要因も関係してくることだが、頭髪は遺伝が――つまり、先祖代々受け継がれる性質が大きく作用する。優先遺伝として顕著に影響があらわれる場所なんだ、残念なことに」
知りたくなかった事実を聞き、ダットンは愕然とする。このショックでまた何本か、頭からお別れしてしまったかもしれない。
そんな放心したダットンが、ふいに突き飛ばされた。いきなりのことで、ミスミは目を見張って驚く。
通りかかった通行人が、一切さけることなく突貫してきたのだ。
「どけ!」と、ぶつかっておきながら低い声で言い放ったのは、縦も横も分厚いという表現がピッタリの大男だった。ゴッツよりも巨漢だ。
フードを目深にかぶり顔立ちは確認できないが、声質から案外若いように感じる。
大男は誰に対してか理解できない威圧的な態度を維持したまま進み、出し抜けに止まった。ちらりと顔を向けた先には、『クリステ毛髪研究所』の張り紙がある。
ずいぶんと長いこと立ち止まり葛藤していたが、「うしッ!」と気合の声と共に引き戸を開けた。彼も同類だったようだ。
「俺も行ってみるよ。この世界には、ひょっとしたら画期的な改善法があるのかもしれないし……」
思い切って踏み出したミスミに、慌ててダットンが追いすがる。
「先生、ぼ、ぼくもお供します!」
いまや共通の敵と戦う同志となった二人は、うなずきあって意思を確認すると、並んで『クリステ毛髪研究所』の戸を開いた。
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