《外伝 CECIL》前編


 それは魔王が全土に版図はんと を拡げる前の話……。



 グラン王国のあるグラン地方から離れた牧歌的な田園風景が広がる地方にぽつんと建った修道院が一軒。


 「……至高なる主の、下にて、さ、さぶらえ し……」


 礼拝堂にてたどたどしく聖書を詠む見習い神官の机にぴしゃんと教鞭が叩かれる。

 見習い神官がびくっと身を強ばらせる。


 「まだ淀みなく詠むことが出来ないのですか? 何度言わせたら分かるのです?」

 「す、すみません……マザー」


 マザー、修道院長のミルドレッドは鷲鼻の上にかけられた眼鏡をかけ直すと、はぁっと溜息をつく。


 「もういいわ。今日の朗読はここまでにします。礼拝堂の掃除をするのを忘れないように」

 「はい……」


 礼拝堂に水の入ったバケツを置くと、雑巾を浸して絞り、まずは窓を拭き始める。

 冷たい水がかじかむ。だが、弱音は許されない。

 あらかた窓を拭き終えると次は参拝者の座席を拭く。この修道院では見習い神官は彼女一人のみだ。この広い礼拝堂をひとりで掃除するのは骨が折れる。

 最後の机を拭き終わって、ふぅっと一息ついた時だ。気がぬるんだのか、足下のバケツを零してしまう。


 「あ……」


 わたわたと雑巾で拭こうとするところへ、ミルドレッド院長の革靴が見えた。


 「何をしてるのです?」

 「あ、あの……ご、ごめんなさい……」

 「掃除すらも満足に出来ないとは! そんなことでは立派な神官になれませんよ!?」


 ミルドレッドが机を激しく叩いたので、見習い神官がまたびくっと震わせる。

 そんなふたりの様子をシスターたちが廊下から窺う。


 「あの子、ドジばっかりね」

 「ミルドレッド先生厳しいからね。いつまで持つかしらね?」


 説教が終わったのか、ミルドレッド先生がぷいと踵を返す。

 残された見習い神官は涙を堪えながら、零した水を拭き始める。

 そんな見習い神官をふたりのシスターが「みじめなものね」「ホントねぇ」と嘲る。


 「ちょっと、あなたたち! 聖水撒きはどうしたの? それにあなた、今日牛舎の藁やり当番でしょ!」


 シスター長がふたりを嗜める。


 「はい、すぐやります!」とふたり揃えて答える。

 シスター長が去ると、ふたりのシスターが愚痴を零す。


 「気に入らないわ。あのシスター長。嫌な仕事あたしたちに押しつけてさ」

 「ねぇ、あの子にやらせちゃおうよ」


 「賛成!」と意見が一致すると、すぐさま見習い神官の下へと向かう。


 「私がやるんですか……?」

 「そうそう、本当ならあたしがやるんだけど、手が空かなくて」

 「こっちも牛舎の藁やりがあるんだけど、他にお勤めが出来ちゃってねぇ」


 「え、えと……」と見習い神官が戸惑ってるので、ふたりのシスターがとどめの言葉を放つ。


 「駄目よぅ? そんなんじゃ立派な神官になれないわよ? ミルドレッド先生も仰ってることだし」

 「そうそう、これも立派な人助けよ」


 ふたりのシスターに上手く丸め込まれた見習い神官は「そういうことでしたら……」と了承する。


 聖水の入った桶と柄杓を持つと、修道院の外へ出る。

 そして柵沿いに歩きながら聖水を巻く。寒風が身に染みる季節なので、ぶるっと身が震える。

 聖水撒きは修道院に魔物、と言っても弱い魔物程度だが、が入って来れないようにするためだ。もちろん神の加護もあるが、それだけでは不十分なため、こまめにこうして聖水を撒く必要があるのだ。

 聖書の一節を唱えながら聖水を撒いてぐるっと一周するとそれでお終いだ。

 次にピッチフォークを持つと修道院の裏側にある牛舎の中へと入る。

 糞尿の臭いが立ちこめる中、見習い神官は藁山からピッチフォークを使って藁を取り出す。

 十分にほぐしてから牛の前へと差し出す。もぅうっと牛が鳴くと藁を貪り始める。

 よしよしと見習い神官が撫でると牛が舌でべろりと少女の顔を舐める。

 藁やりが終わると牛の排泄物をレーキでまとめて排水溝へと落とす。

 見習い神官はもともと農村の出なので、その手際は手慣れたものだった。


 「これでよし、と……」と額の汗を拭い、とすんと藁山に腰かける。

 北方の辺鄙な村から、まだ小さな頃に優しい笑顔で村人に接していた教会のマザーに憧れ、人々を助けたいという一心で神官を目指してここの修道院に見習い神官として修行に入ったのはいいが、現実は甘くない。

 故郷ふるさと を思い出したのか、青い目からじわりと涙が滲む。


 はえぐはやく 村さ、けぇりてぇ……。


 彼女の生まれ故郷の方言がぽつりと零れる。

 ぐしぐしと目を擦る。

 その時だ。後ろの藁山でなにかがもぞりと動いたのは。

 見習い神官がおそるおそる振り向くと、は見習い神官の前にどさっと倒れる。


 「わいはっ!?」と思わず方言で驚き声を出す。

 見ると、体中傷だらけで、息も絶え絶えの見るからに冒険者といった出で立ちの男だ。

 察するに魔物に襲われ、命からがらやっとここへ辿り着いたのだろう。


 「あ、あの……だいじょうぶ……ですか?」


 声がうわずりながらも少女は男に訊ねる。だが、男は聞き取れない声でぼそぼそと言うのみだ。


 「す、すぐに助けを呼びますね……!」


 見習い神官は踵を返すと修道院へと足早に向かう。


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