泰平の階~110~

 栄倉を未だ落とせずにいる斎興は忍耐を強いられていた。今すぐにでも軍を突撃させて栄倉を再奪取したいという願望を、敵の兵糧が尽きるのを待つだけだという意識で抑え込んでいた。


 『並大抵の精神ではあるまい』


 結十は傍にいながら気が気でなかった。


 栄倉を陥落させて条行を成敗しなければならない。それはまさに大将軍斎興に課せられた使命であり、しくじることは許されなかった。そのための兵糧攻めであったが、当然ながら慶師からはまだ陥落しないのかという催促がやってくる。斎興としても、早々に栄倉を陥落させて名声を得なければ、今後厳しい立場に立たされることは承知してる。だからといって速攻することができない。今の斎興はその二律背反に苦しんでいた。


 『劉六がおれば、何と進言しただろうか』


 結十からすると、劉六を去らしめたのは痛恨事のであった。表向きは千山の父が病気のためとされているが、内々に調べた結果、刺客に襲われて他国へと亡命したようであった。逃がしたのは斎香と尊夏燐であることもすぐに調べがついていた。しかし、二人とも示し合わせたように何も語らなかった。


 本来であるならば、結十が劉六の代わりに斎興に進言しなければならない。それは分かっているが、軍事的な妙案などまるで思い浮かばなかった。


 栄倉を囲んで二か月も経つと、斎治から矢のような催促が毎日のように送られてきた。


 『何故二か月も経過して栄倉を落とせぬのだ。先にわずかな兵数で短期間に栄倉を攻略した新莽もおるのだから容易いであろう。このままではかつての戦績は地に落ち、大将軍という地位は失うであろう』


 斎治に宸筆による書状は、激励というよりも脅迫に近かった。


 「父とはここまで臣下に対して厳しいお方だったとは……」


 斎興は書状を握り締めながら静かに涙した。不甲斐ない自分への怒りと、情のない父の仕打ちへの悲しみが同時に押し寄せているようであった。


 「大将軍、今しばらくの信望です。あと一週間もすれば敵の兵糧は尽き、自ずと自壊するでしょう」


 新莽が励ますように言った。彼もまた尊毅のことを意識せねばならない立場にある男であった。ましてや栄倉を陥落させた実績があるだけに、新莽に対する風当たりも強くきついものであろう。


 「しかし、そうも言ってられません。実は慶師にいる我が弟からも書状が来ております。そこにはあまり大将軍にとってよろしくない噂が慶師で広がっていると書かれています」


 和長九が細い声で言った。


 「よろしくない噂?」


 結十も部下から慶師の情報を送らせているが、斎興にとって都合の悪い噂などは報せていなかった。


 「そうです。曰く、大将軍が栄倉を囲んで動かぬのは、条行と手を結び、左将軍を討って主上を追い、自分が斎公になるためだ……」


 「馬鹿な!誰が主上に対して、父に対して二心を抱くものか!」


 斎興は檄した。当然であろう。この噂は斎興にとってはあまりにも心外であった。


 「我らも大将軍の赤心が承知しております。しかし、この手の噂は放置するのはよろしくありません。時として病のように広がり、人の心を蝕みます。事実であるかどうかなど、病にかかった人間にとっては関係のないことなのです」


 和長九の言説は的を射ていた。噂は一軍よりも強く、流行病よりも恐ろしい。それは古今問わず、いくつも事例があることであった。


 「どうすればいい?和長九」


 「やむを得ぬことですが、栄倉を攻めましょう。このままでは前面の敵は倒せたとしても、後背の敵にやられてしまいます」


 「長九の言うとおりだな。明後日総攻撃を始めよう。兵糧攻めで敵も弱っているから、こちらの損害も少なくて済むだろう。新莽、そのように計らえ」


 「はっ」


 新莽も頷くしかなかった。




 翌々日、斎興軍は栄倉への総攻撃を開始した。これには栄倉を守っている条行軍からすると不意を突かれた形になった。


 「敵は兵糧攻めを諦めたのか」


 諏益からすると僥倖であった。斎興軍の兵糧攻めで限界まで追い詰められていたが、それが終了したとなれば、味方の士気もあがった。


 「敵が攻めてきたぞ!腹が減って死ぬぐらいなら、敵の首をひとつでも斬り落として死せ!その方が武人の誉れであろう!」


 諏益はそう言って味方を鼓舞した。諏益にはひとつの狙いがあった。戦闘に紛れて栄倉を脱出することであった。この案について諏益は事前に条行に話をしていた。


 「折角奪還した栄倉を手放すのか?そのようなことにするのなら、父が亡くなった地で私も死にたい」


 条行は難色を示した。


 「お気持ちは分かりますが、一度手放してもまた奪還すればよいのです。主上が成さねばならないのは、先代を追って殉死するのではなく、たとえ一時的に汚名を被っても先代の敵を討つべきだと思います」


 諏益は理を尽くして条行を説いた。条行はまだ少年であったが、暗愚ではない。諏益の説得に条理があることを認めた。


 「諏益の言うとおりだ。しかし、脱出するのであれば、皆と一緒に行いたい」


 条行は、自分が脱出するために将兵が犠牲になることを良しとしなかった。


 「当然であります。捲土重来を期すためにも貴重な戦力です」


 諏益には作戦があった。斎興軍の総攻撃が始まると、七つの山道それぞれに防備を堅くする一方で余剰戦力をひとつの山道に集中させた。諏益は夜になると、その集中した戦力をもって引き上げた斎興軍に奇襲をしかけた。


 予想していなかった奇襲に斎興軍は一時的に混乱した。その隙に諏益は全軍を南部にある拠点に向けて脱出させることに成功した。

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