泰平の階~97~

 「なるほど。それで私は父が危篤なので千山に帰るという嘘の書状を書かされているわけか」


 馬車の中で劉六は、斎香に促されるまま書状を書いていた。医療施設については自分がいなくても、最低限の運用はできるだろう。劉六はそのことも付け足しておいた。


 「しかし、どうして先生が命を狙われるのですか?」


 僑秋が斎香の方を見て訊ねた。


 「先生が斎家と結びつくのを良しとしていないのでしょう。しかし、尊毅様がそのようなことを命じられるとは思いません。おそらくは項何某かの独断でしょう」


 「私もそう思う。項兄弟はそういうことを兄貴に無断でやるからな」


 「迷惑な話だ。こんなことなら斎興様に協力せずに、大人しく医者をしておけばよかった」


 すべては後の祭りであった。それでも劉六は自分のなしたことに後悔はしていなかった。


 「亡命といっても一時的ですわ。時が経てば、項何某も先生のことだけに気を取られているわけにはいかなくなりますもの」


 「ならば千山にも一通書状を届けて欲しい。僑紹という人物だ。彼女の兄で、今は千山を仕切っている」


 「了解しましたわ。後の始末はお任せください」


 馬車が城門に達した。当然ながら外に通じる門は閉じられている。門番兵が馬車の停止を命じた。


 「こんな夜更けに何用だ?用があるなら、翌朝にしろ」


 兵士が馬車の中を覗き込んできた。こういう時のために斎香と尊夏燐が同乗していたのである。


 「私は斎香です。私の乳母が急病で医者を連れて行くところです。通しなさい」


 斎香は符を見せた。斎家の符ほど、今の慶師で有効な符はなかったであろう。兵士の顔色が変わった。


 「ひ、姫様。これは失礼しました。では、宮に問い合わせますので……」


 「おい!急病だって言っているだろう!さっさと通せ!後で上役に何か言われたら、尊夏燐まで文句を言いに来いって言え!」


 今度は尊夏燐の出番であった。兵士は尊夏燐の顔を見知っていたのか、顔色をますます悪くさせた。


 「しょ、承知しました」


 兵士は慌てて門を開けに向かった。斎香と尊夏燐は顔を見合わせて笑っていた。




 馬車は北へと進んだ。日が昇り始め、空が白み始めた頃、斎香が馬車を止めさせた。


 「お送りできるのはここまでですわ。申し訳ありませんが、ここからしばらくは徒歩でお願いします。これは斎家の符です。この国にいる限り、どこの関所でも止められませんわ」


 斎香は符を渡すと同時に一通の書状も合わせて差し出した。


 「界国の国都に厳侑という商人がおります。彼の商店をお訪ねください。決して悪いようにはしないと思います」


 「感謝する」


 「それとこれは私からの選別だ。今までの授業料と思ってくれ」


 尊夏燐が金子袋を差し出した。受け取ってみると、随分と重かった。


 「こんなにも貰えないぞ」


 「いいよ、持って行ってくれ。その代わり余ったのなら次会った時に返してくれよ」


 尊夏燐は悲し気な顔をしながら無理に笑って見せていた。


 「では、先生。おなごり惜しいですがお急ぎください。私も、次に会う時のことを楽しみにしておりますわ」


 斎香が名残惜しそうに手を握ってきた。柔らかく暖かな手であった。


 「そうだな。私も長く亡命なんぞしたくないからな」


 「僑秋さん、先生をお願いいたしますわ。先生は聡明なお方ですが、やや疎い所もあいますので、その時は貴女が先生をお救いください」


 斎香は今度は僑秋の手を取った。僑秋は貴人に手を握られて体を硬直させていたが、しきりに頷いていた。


 斎香と尊夏燐は馬車に乗り込むと、見えなくなるまで窓から顔を出して手を振っていた。


 「大変なことになりましたね、先生」


 「まったくだ。君をまた巻き込んでしまった。申し訳なく思っていると」


 「そんなことないですよ。私、先生と旅行をしているようで、楽しいんですよ」


 「君がそんな楽天的だとは思わなかったよ。ま、旅行か。そう思うと、確かに楽しそうだな」


 劉六としても、条国―今は斎国の外に出て色々と見聞してみるのは悪くないと思った。


 「ひとまず界国に行こうか。それから泉国に行くのも悪くないな。泉国は真主が即位して発展しているという。一見してみる価値はあるだろう」


 「はい、先生」


 これからしばらく、劉六は表舞台から一時的に消えることになる。斎興も尊毅も、突然いなくなった劉六のことを気にはしたものの、それどころではない事態に斎国は陥るのであった。

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