泰平の階~94~
斎慶宮からの帰り、送迎の馬車の中で劉六は己の存在意義について改めて考えさせられていた。
「どうにも私の虚像が大きくなりすぎたようだ」
斎慶宮を出て以来、一言も喋らない僑秋に語り掛けるように言った。僑秋は伏せていた顔をあげた。暗い顔をしていた。
「先生はどうされるのですか?」
「それは結婚のことか?」
「いえ、まぁ、それも含めてです」
「あくまでも私は医者だ。斎興様の下で軍師の真似事をしていたのも千山を守る延長線上でやったことだ。それがこういう結果になったとしたら、やはり私が悪いのだ。適庵先生も怒っていらっしゃるだろうな。不肖の弟子だと」
劉六はようやく自分が後には引き返せない所まで来ていることを悟った。しかし、それは決して劉六が望んでいることではなかった。
「では、千山に帰りましょう。ここは先生のおられる場所ではありません」
「いずれは帰るつもりだが、まだ病院建設の仕事が残っているし、医学校の方も放置するわけにはいかない」
そればかりは完遂しようと劉六は誓っていた。それ以外のことは極力寄せ付けない。自分は医者であると何度も心の中で言い聞かせた。
「そうですよね……」
僑秋が消え去りそうな小さな声で呟き、顔を伏せた。
斎慶宮の宴席から帰ってきた尊夏燐が非常に不機嫌であった。その宴席に参加していない尊毅は何があったのかと思い、妹を呼び止めた。
「どうもこうもねえよ。姫君の奴、やっぱり、あいつらも劉六狙っているんだ」
興奮している尊夏燐の話した内容は客観性に欠け、やや支離滅裂なところがあったが、要約してみると、尊夏燐は劉六に接近し、斎香もまた近づいているらしい。
「お前、まだ劉六に懸想しているのか?」
尊毅は兄として怖い顔をした。劉六がいかに優れた男であっても、町医者ごときにくれてやるわけにはいかなかった。
「ふん、悪いかよ。兄貴だって天才軍略家が義理の弟になれば嬉しいだろうよ」
「劉六という男がいくら大才であっても、お前の婿にするわけにはいかん」
「じゃあ、劉六を斎家に取られていいのかよ?あの姫様、相当したたかそうだから、劉六の価値を分かっているぜ」
「そういうことは俺が考える。お前は黙って俺の言うことを聞いていればいい」
「ちっ!兄貴はいつもそうだ!偉そうに!」
尊夏燐は、荒々しい足音を立てながら去っていった。尊毅は声をあげて呼び止めたが、尊夏燐が立ち止まることはなかった。
妹の振る舞いに多少の不快感を覚えた尊毅は、項史直を呼んだ。斎家の姫君が劉六に近づいていることについて意見を聞くためであった。
項史直はすぐにやってきた。尊毅が呼び出した要件を伝えると、項史直は得心したように頷いた。
「ここに来る前、門前で夏燐様とすれ違いました。非常に不機嫌で、私の挨拶に応じませんでしたが、それが原因でしたか」
「夏燐のこともそうだが、斎香様が劉六に近づいているというのは看過できんような気がするが、どうであろう」
「左様ですな、私も最初は気がかりになりまして、殿にご報告させていただきましたが、あまり気にされることではないと思い直しております。殿が夏燐様を劉六と娶せたくないのと同様に、斎家としても町医者ごときに姫君を嫁がすことはないでしょう」
正論であろう、と尊毅は思った。家格ということでいえば、言うまでもなく斎家の方が上であるし、国主の家柄である。その姫君ともなれば、他国の国主に嫁ぐと言うのが相場であろう。
「ならばこの話はもうなしだな」
「いえ、そうでありません。やはり劉六は手にしておくに越したことはない男であると思っております。殿が直接劉六の下に赴き、礼をもって家臣としてお迎えすべきです」
「随分とあの男を買っているな……」
尊毅も不機嫌になってきた。尊家の頭領が何故町医者ごときに礼を尽くして家臣になってもらわなければならないのか。そういう気分が尊毅にはあった。
「もうこれ以上、劉六の話を俺の前でするな。それと夏燐には早々に相応しい相手をみつけてやれ。それであのじゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろう」
尊毅は煩わしそうに言って項史直を下がらせた。
尊毅の部屋から退いた項史直は、そのまま弟である項泰の詰めている部屋に向かった。項史直は慶師に私邸を設けていたが、弟の項泰には尊毅の屋敷に常駐させていた。
「殿にも困ったものだし、夏燐様にも困ったものだ」
項史直は弟の前に座ると本音を吐き出した。項史直にとって項泰は良き相談役であり、手足のように使える家臣でもあった。
「例の町医者ですか?」
「そうだ。なんとしてもこちらに迎い入れたい。だからと言って夏燐様には相応しい家柄に嫁いでもらわなければならず、殿は相応しい相手を探せと言われる。まったく無理難題ばかりだ」
「夏燐様の嫁ぎ先は先々考えるとして、町医者についてはやはり始末した方がいいでしょう」
項泰は平然と言った。項史直は時折この弟が恐ろしくなる時があった。項泰は兄以上に冷徹であり、兄としても頼もしい限りであった。
「町医者は殿には懐かぬか?」
「なかなか風変わりで偏屈な男のようです。もし、町医者に地位や名誉、金銭に野心や向上心があるなら、すでに公子の家臣となっているでしょう。放置したとしても仕官することはないでしょうが、それが原因で殿と公子が揉めるようなことがあってはなりません。まだ、その時ではありません」
すでに項史直と項泰の間では密謀ができあがっていた。それは斎興を排し、尊毅が大将軍となり斎国の軍権を握るというものであった。そのためにはいずれ斎興と全面的な争いをしなければならないのだが、今はまだ時機ではないと判断していた。
「町医者のことは任せる。但し、しくじるなよ」
項泰は無言で頷いた。尊毅が条高に反する時、栄倉から尊毅家族を鮮やかな手口で脱出させたのが項泰である。今回もしくじることはなかろうと項史直は安心していた。
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