泰平の階~85~
栄倉陥落の報を受けた斎興は、すぐにはその情報を信じることができなかった。
「まことか?慶師が陥落し、栄倉も陥落した。条公がそんなに簡単に滅びるはずがなかろう」
まさに鎧袖一触であった。劉六ですら、栄倉を陥落させるには二年はかかるだろうと考えていた。ところが勢いに乗った新莽がわずか数週間で陥落させてしまった。完全に想定外であった。
『時勢というのは恐ろしい……』
劉六はあらゆることを計算して戦略、戦術を立てていくのだが、その計算を覆すのが時の勢いなのだということを思い知らされた。
「斎興様。急ぎ栄倉へ向かいましょう。栄倉が陥落したとなれば、行く手を塞ぐ敵の心配をする必要がありますまい」
発言したのは董阮であった。結十が斎治について慶師に向かっているので、斎興の傍で政治的な助言するのは董阮の仕事となっていた。
『それは甘い……』
政治的なことは言わないでおこうと決めていた劉六であったが、董阮の助言はあまりにも愚策である。口を差し挟まずにはいられなかった。
「お待ちください。ここは急がずに、様子を見るべきです」
董阮がきっと劉六を睨んだ。そんな董阮を横目に見つつ、斎興は劉六に発言を促した。
「どういうことだ」
「万が一のことですが、新莽に野心があれば、栄倉に拠って独立するでしょう。こちらが慌てて栄倉に近づけば、攻撃を仕掛けてくるかもしれません」
「劉六、それは流石に考え過ぎではないか?」
斎興はそう言いながらも顔は笑っていなかった。
「考え過ぎではありましょう。しかし、これからは斎公の時代となるのです。斎興様は斎公の名代として栄倉を占拠しなければなりません。そうであるならば、新莽は辞儀を整え、謹んで斎興様を迎えるべきではないでしょうか?」
実際は新莽が暴走する形で栄倉を攻め、これを陥落させた。しかし、その原動力となったのは斎興の檄文である。これがあったからこそ、新莽が主君であった条高を攻める大義が成立し、武人達も協力してくれたのである。ここで新莽が手をついて斎興を迎えなければ、新莽は単なる謀反人となってしまう。
『その程度のことを判断できないとなれば、新莽という男は政治力がない』
この後、新しい斎治政権で苦労するだろう。劉六はまだ見ぬ男に対して余計な心配をした。
「斎興様。確かに劉六の言う通りです。新莽に使いを出して迎えに来させましょう。もし、それを新莽が拒むようなら、彼に野心があるということです」
董阮が劉六の意見に賛同した。斎興も異存はないらしく、董阮自身を使者として栄倉に派遣した。
栄倉宮はほぼ原型を留めることなく燃え朽ちてしまった。在りし日には多くの人々が行き交い、政治的にも文化的にも条家栄華の象徴であった建築物は、単なる残骸となっていた。
新莽は残骸の中から条高の遺骸を捜させたが、見つけることができなかった。
「生きて脱出したかもしれない。近隣に探索隊を出せ」
そう命じてから三日後、条高の行方が分からぬうちに董阮が斎興の使者としてやって来たのである。この時まで新莽は完全に斎興のことを失念していた。
「斎興様の使者だと?」
新莽は僅かな戸惑いを覚えた。どう対応すべきなのだろうか。あるいは斎興を待たなかったことを咎められるかもしれない。
「魏介。お前は斎興様と面識があろう。使者と対面して欲しい」
迷い、考えた挙句、魏介に任せようとした。
「お言葉ですが、斎興様の正式な使者なら叔父上がお会いすべきでしょう」
魏介が言うことも尤もであった。結局、新莽が使者と対面することになった。
斎興の使者は董阮と言った。すでに新莽の本陣に入っており、上座に腰を掛けていた。
「お初にお目にかかります。新莽にございます」
新莽は董阮の前で膝をついて頭を垂れた。
「新莽。この度の栄倉陥落、実に天晴であった。斎興様も喜んでおられる」
董阮の言葉は新莽を安堵させた。叱責が飛んでくるものとばかり思っていた。
「ははっ」
「城外で斎興様がお待ちです。謹んでお迎えするように」
「承知いたしました」
新莽はあまり深く考えることなく、素直に董阮の言葉を受け入れた。
斎興は新莽の出迎えを受け、栄倉に入城した。条国の王城として栄えてきた栄倉の住民達は、決して斎興のことを歓迎していなかった。栄倉を攻める際に、あらゆる蛮行を新莽が黙認したこともそうであるが、斎興達は彼らからすると条家を滅ぼした敵でしかなかった。
『これは治めるのが大変だな』
斎興に付き従って栄倉を訪れた劉六は、他人事のように思いながら、荒れ果てた栄倉を一人歩いていた。劉六は斎興の許可をもらい、野戦病院を開くための準備を始めていた。病院を開くとすれば、師である適庵の医学校以上に相応しい場所はなかった。
劉六からすれば久しぶりの栄倉であった。劉六が勉学に励んだあの頃から数年しか経っていない。それが今となってはすっかりと荒れ果てていた。
「かつての栄華が一瞬で灰燼となったか……」
劉六は適庵の医学校があった場所で立ち止まった。幸いにして戦火の被害に遭った様子はなかったが、主がいない建物は戦災で家を失った人達の棲み処となっていた。
「これでは無理だ……」
劉六は諦める他なかった。亡き師の志をわずかばかりでも受け継ぎたいと思っていたが、とても無理そうであった。劉六は肩を落としながら、やはりもうあの日には戻れないのだと思った。
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