泰平の階~61~

 西へと向かう新莽軍の士気は極めて低かった。その士気の低さは、この時期の条国の雰囲気と言うものをよく表していた。


 『この戦で勝ったとしても恩賞が貰えるのだろうか?』


 従軍する多くの諸侯がそう思っていた。先の戦では、恩賞を貰えたのは丞相条守全の娘婿である尊毅だけであり、もう一人の立役者である新莽には寸土も与えられなかった。


 『我らが大将は恩賞に条公の愛妾を貰ったらしいからな』


 そのことは公然とされておらず、諸侯達の間では噂程度にしか語られていないが、一軍の士気を下げさせるには充分であった。多くの将兵が新莽を頼もしい大将として見ることができなくなっていた。そしてなによりも、新莽自体の士気も低かった。勿論、蝶夜が傍にいないからであった。


 そんな新莽に対して、甥である魏介の士気はひとり高かった。


 『条公が我ら見込んで討伐をお命じくれたのだ。武人としてこれほどの誉れがあろうか!』


 軍議の席でも魏介は積極的であり、なかなか明確な方針を打ち出せないでいる新莽に代わって発言をした。


 「先の戦いで尊毅殿は夷西藩方面では勝利したが、千山方面では敗れた。これは軍を二つに割いたからに他ならない。我らはこの失敗を教訓として全軍をもって坂淵を目指すべきです。千山など竹の柵で囲っておけばいいのです」


 魏介の献策は決して的外れではなかったので、新莽は深く考えることなく賛意を示した。しかし、夷西藩に近づくにつれ、新莽は自分の迂闊さを呪うことになった。


 「これはどういうことだ!」


 夷西藩藩内に入ってすぐに新莽軍は停止せざるを得なくなった。目の前に山系に『斎』の文字が描かれた軍旗が立ち並ぶ山城が出現していたのである。




 夷西藩の藩境に槍置という場所がある。峻険な山系が連なる場所であり、東方より夷西藩に向かうにはここを通らざるを得ず、少し過ぎて北へ行けば千山にもたどり着くことができた。この峻険な山系に夷西藩が有する山城が存在していた。しかし、長年に渡って無主の城となっていて、打ち捨てられていた。先の戦いでも尊毅は槍置の山城は無視していたし、夷西藩藩主の少洪覇ですら重要な地として考えていなかった。少洪覇は、当然ながらこの山城については知っていたようだが、改修するに必要な金銭と労力に相当する価値を見出していなかった。


 この地に目を付けたのは他ならぬ劉六であった。何行白を撃退してから、本格的に千山と夷西藩の防衛を考えた時、どう考えても第三の拠点となり得る場所が必要であった。


 『どうしてここが打ち捨てられていたのか不思議なぐらいだ』


 ほぼ絶壁といっていい崖の上に、街道を見下ろすように山城があり、少し山奥にいけば水が湧き出る場所があって水源に困ることはない。また北に向かって山道を切り開けば千山へと通じる道にも出られる。斎興達に語った面による戦術を完成させるには槍置は最適といえた。劉六は少洪覇の応諾と協力を得て、籠城戦に耐えられるだけの山城に改築した。


 改築が終わると、そこに誰を大将として送り込むかが問題となった。劉六は躊躇うことなく斎興を推した。


 「貴様!公子のお命を危険に晒す気か!」


 条件反射のように董阮が唾を飛ばして反論した。この男のためにいちいち説明するのがほんとうに面倒くさかった。


 「大丈夫です。万の軍勢に囲まれても一年はびくともしません」


 「そういうことではない。公子である必要はないのではないかということだ」


 「公子でなくてはならないのです。よろしいですか?槍置に公子がおられることにより、あの地は意味を持つのです。公子が槍置にありと知れば、敵は是が非でもこれを落とそうとするでしょう。敵の大軍があの狭隘の地に密集し、釘付けになるからこそ、千山軍や少洪覇様の軍が自由に動け、敵を翻弄することができるのです」


 劉六の戦術は明快であった。斎興を槍置に入れることで敵の耳目を槍置に集中させ、他の軍で敵の後背を脅かそうというものであった。槍置に入る将が劉六や僑紹であっては、それこそ魏介の発言のように竹の柵で囲っておくだけで十分と思われてしまう。少洪覇であってもいいのかもしれないが、斎興の名前の前で霞んでしまう。やはり斎治の子息である斎興ではなくてはならないのだ。


 「公子を囮にするのか!」


 「よいではないか、董阮。俺はその作戦、気に入ったぞ。俺の存在が条国軍を引きつけ、天下の耳目も俺に集まる。これほど爽快なことがあろうか!」


 斎興は完全に劉六の作戦に乗る気であった。劉六からすると、斎興の性格的に乗って来るだろうと予測していた。


 「しかし、公子……」


 「劉六。よき作戦を思いついてくれた。俺も存分に暴れまわってやる。しかし、一年も気長に待つことができないぞ」


 斎興は董阮の言葉を遮って言った。


 「勿論です。ま、勝つ算段は整えております」


 すでに劉六の頭脳には敵を打ち破るだけの計算が行われていた。

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