泰平の階~28~
話を再び千山に移したい。
千山においてかつての領主であった毛僭が復位した。これは条国における領主として復権したということではなく、条公の代官である易迅を処刑した以上、一個の独立国として存立することを意味していた。
『我らには騎虎の勢いがある。こうなればかつての失地を回復すべきではないか?』
という気運が毛僭とその周囲で高まりつつあった。もともと毛家は千山を領都としてその周辺を治めていた領主である。奪われた地はまだ他にあった。
「近々、遠征軍が組織される。どうやら俺が将軍となるらしい」
劉六の診療所を訪ねてきた僑紹が嬉しそうに言った。先の蜂起以後は、劉六は元の町医者に戻っていた。しかし、唯一違っている点は、僑紹の妹である僑秋が助手として働いていることであった。
「また私には軍医になれと言うのか?」
その日の診療が終わり、ようやく一息ついていた劉六は、多少煩わし気に言った。正直、あのような真似は二度と御免だと思っていた。
「そのつもりだ。先の働きは、毛僭様のお耳にも入っており、大変評価されていた」
そこへ僑秋は茶を持ってきてくれた。僑紹は一口飲むと顔をしかめた。
「何だこれは?苦すぎる!」
「薬茶だ。疲労回復にいいぞ」
飲めたものじゃない、と僑紹は湯飲みを机に置いて二度と口をつけることはなかった。
「それで軍医の話だ。受けてくれるか?くれないのか?」
「できれば御免被りたい」
「理由はなんだ?毛僭様から報奨がなかったからか?」
「馬鹿にするな!」
劉六は怒りに任せて湯飲みを机に叩きつけた。
「一体、いつだれが、先のことで報奨を求めた!私は適庵先生の下で医術を学んだ。それ以上に、医に携わる者が自ら名誉富貴を求めてはならないとも教わった。それは私にとっては至上の教えだ!」
劉六の剣幕に、僑紹は驚いて目を丸くしたが、すぐに謝罪した。
「すまない。俺の失言だった。許して欲しい」
「それにできれば戦争には関わりたくない。私は医者として命を救う側だ。命を奪う側に積極的に関わりたくない」
「お前の医者としての気持ちは理解するつもりだ。しかし、それでも戦争が起こる。そうなれば失われる命を救ってくれるのも医者なんだぜ」
劉六としてもそのぐらいの理屈は理解している。しかし、どうにも踏み切れなかった。
「少し考えさせてくれ」
一日の診療を終えて疲れ切っていた劉六は思考がまとまらなかった。
夜になっても診察室に残っていた劉六は腕を組んでじっと考えていた。自分はどうすべきなのだろうか。軍医として従軍すべきか、それとも町医者のままでいるのか。人生の中でこれほど悩むことはなかった。
「先生……。そろそろお休みされては?」
診察室の隅で医術の勉強をしていた僑秋が心配そうに声をかけてきた。
「君こそ早く帰りなさい」
「ええ……」
と言いながらも、書物を胸に抱えたまま動こうとしなかった。
「何か分からないところもあるのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「言いたいことがあるのならはっきり言った方がいい。黙り込むだけでは体に毒だ」
「では……どうして軍医として従軍されるのを嫌がるのですか?」
「ふむ……実は迷っている」
僑秋が椅子を引いて座った。まだ帰るつもりはないらしい。
「易迅のことは覚えているだろう。私は易迅を刑場に引きずり出して命を奪うために生かした。この矛盾を未だに解決できずにいる」
僑秋は黙って聞いてくれていた。おかげで劉六は思考するまま言葉にすることができた。
「軍医も同じだ。傷病兵を治しても、まだ戦場に立たせるだけだ。それが医師として正しいのかどうか分からなくなってきた」
劉六は目を閉じた。そのようなことについて師である適庵は何も教えてくれなかった。きっと師に問いかけても返答できないのではないか。そのような気がしてきた。
「情けない話だ。結局、私は何を学んできたのだろうな」
「そんなことはありません!先生は、立派な方です!」
僑秋が大きな声を上げた。びっくりして劉六は目を見開いた。
「立派か……」
立派なのだろうか。立派ならばこのようなことで悩まないだろう。
「ですが、少し安心したことがあります。先生でも悩まれることがあるんだと……」
「おいおい、私は木石じゃないぞ」
「失礼しました。でも、いいじゃないですか。人は悩んで悩んで生きていくものだと私は思っています」
「悩んで悩んで生きていくか。人生というのは単純にはいかないな」
しかし、僑秋の言うとおりだろう。悩みながら前へ進み、解決への道を求める。あるいは人の人生とはそういうものなのかもしれない。
「それに助けられる命があるのなら、まずは助けるべきだと私は考えています」
「助けないよりも助けた方がいいか……。ありがとう、僑秋。君のおかげで何か吹っ切れたような気がする」
「い、いえ……そんな。生意気言ってすみません。私もお手伝いさせていただきます!」
これから忙しくなる。漠然と思いながらも、まさかこのことが劉六を歴史の表舞台に押し上げることになるとは誰一人として想像もしていなかった。
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