寂寞の海~34~
章穂が国主となったことにより、章海は再び印国の表舞台から去ることになった。この時ほど悔しかったことはなかった。長年の隠居生活のせいか、人に対して世の未練を包み隠すことに慣れていた章海であったが、この時ばかりは一人なると涙を流し、地を叩いて悔しさを爆発させた。
そして月日は流れ、章穂が病床の人となった。今際の際、章穂は自分が即位した時に用いられた遺言が偽勅であったことを明かした。
『やはりそうであったか……』
章海は悔しさと虚しさが込み上げてきた。悔しさは章穂の悪事によって自分が国主になれなかったことであり、虚しさは今になってそのようなことを告げられても、自分はもう国主になれないということであった。もはや章穂の罪を糾弾するつもりはなかったのだが、次の一言が章海の心をかき乱した。
「海殿。くれぐれも子供達のことを頼みます。もうあの子達を託せるのは貴方しかおりません」
どくりと血が沸騰するのを感じた。自分を裏切り欺いてきた女が何を言うのか、と明確な怒りの感情がふつふつと湧いてきた。
『このまま殺してやろうか!』
素の感情とは裏腹に章海は章穂に優しい言葉を送った。章穂の安心した表情を見た瞬間、章海は心の底で笑っていた。もはや章海に躊躇う理由はなかった。
「ここにおられましたか」
背後から声がしたので振り返ると、鎧姿の松顔がいた。
「どうかしたか?」
「銀芳が黒原で敗れました」
章海は軽く頷いた。黒原に派遣した銀芳軍が敗れるのは想定内であったので驚くことはなかった。
「もとより数では勝てぬ。銀芳は労ってやらないとな」
「はい。左昇運は軍を北上させています」
これも想定内であった。章海の戦略では、左昇運軍が黒原で勝利し、隊列を乱して追撃してくるところを逆襲するというものであった。
「これより北鑑に籠城して、敵が疲弊するのを待ちましょう。そして時を見て、一気に逆襲しましょう」
それが章海側の戦略のすべてであった。北鑑には一年籠城できるだけの食料が集められていた。
「籠城か……」
この戦略を打ち立てたのは他ならぬ章海であった。しかし、今になって章海の心情は変化していた。
「それは日陰の戦略だな」
「は?今、なんと仰いました?」
「日陰の戦略なのだ。籠り、待つだけの戦。いかにも私らしいと思ったのだよ」
章海は自嘲した。分かりかねると言わんばかりに、松顔は首をひねった。
『これより私は印国の国主になるのだ。陰に籠ることが果たして国主にならんと者の戦いか?』
翼公を見よ、泉公を見よ。彼らは自らが国主になる戦いでそのようなことをしたか、と章海は自らに言い聞かせた。翼公―楽乗は、翼国を脱出して逃げ続けたが、翼国に戻って国主になるための戦いを始めてからは常に突き進んでいたし、泉公―樹弘も大局的な戦闘では一度も籠城などしたことがなく、敗北したこともなかった。それこそ王者の戦いではないだろうか。
『松顔には分からんか……』
章海はふと孤独を感じた。今の章海の心情を理解してくれるのは印国にはおらず、あるいは中原においては翼公と泉公だけかもしれぬと思った。
「松顔よ。この暗い海でも輝く時がある。しかし、その時は一瞬でしかない。人の人生にもその輝く一瞬があると思うか?」
「今がその時かと」
松顔にとっても、今こそが輝く時に違いない。だが、章海が見ている輝きと、松顔が見ている輝きは違うであろう。
「籠城はせぬ」
松顔に驚きの顔色が広がった。反論しようと口を開こうとしたが、章海の射竦めるような視線に畏れ、声が出てこないようであった。
「見よ、この黒い海を。この黒さを海中生物の死骸だと言う者もいる。あるいはそうかもしれない。しかし、その屍が輝きの元となるのなら、私は屍を晒してでも輝きたい」
これは理性ではない。感情であった。時として整然とした論理よりも、直情的な行動こそが歴史を動かすということを章海は知っていた。そして、それを実践するのが今なのだと章海は判断した。
「章海様がそう仰るのなら、我らとしては意見を言うことはありません。すでに章海様に命を預けた身。すべては章海様の思うがように」
松顔の瞳にも決意が光った。これならば我らは負けまい、と章海は強く確信した。
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