寂寞の海~33~
海が黒々と広がっていた。北鑑から馬を数刻走らせれば、印国の最北端に達する。ここから見る海は特に黒い。
そもそも印国の北端は日照時間が少ない。太陽の光が当たる時間は限りなく少なかった。
『まるで私のようだ』
章海はここから黒い海を見るのが好きであった。黒々とした沼のような海面も好きだが、朝方のわずかな時間、水平線から昇ってくる太陽が照らす海面も漆喰のような光沢があって美しく、章海の目を楽しませてくれた。
『日の当たる時間などわずかでいい。そのわずかな時間、輝ければそれでいい』
今がその時だ、と章海は思っていた。
章海は自分の俊才に自信を持っており、だからこそ国主に相応しいと思っていた。しかし、兄がいる限り章海は国主にはなれず、そのことがずっと悩みであった。
それを救ってくれたのは、章海がこの世で一番尊敬し、敬愛しているかつての師、楽乗。即ち今の翼公であった。国主とならずとも、臣下として兄を支えればいい。優しい言葉で諭してくれた時のことを今になっても章海は覚えていた。この時より章海は変わった。
やがて父が病み、兄である章平が政治を代わって見る様になると、章海は兄を支えた。しかし、兄は章海の俊才に嫉妬し、忌避するようになった。それを明敏に察した章海は鑑京を去るということで、やるせない自分の感情を封じることにした。
それでも章海は決して兄を嫌わなかった。寧ろ身内として親愛の情があり、章穂を兄に取られるような形になっても、兄を憎むようなこともなかった。
『兄がある限り、私は日陰でいい』
章穂を妃とした章平は幸せそうで、印国の国情も平穏そのものであった。章穂はよく章平を公私に渡ってよく支え、もはや自分は出番などなく生涯を終えるのだろうと章海は思っていた。
しかし、章平が急死したことにより、章海の考えていた未来ががわりと変わることとなった。実は章平が急死する少し前、章海は兄に呼び出され、密かに二人きりで会っていた。
「どうにも友のことが不安でならない」
兄はぽつりとそう漏らした。章海も章友の噂が聞いていた。幼い頃は利発であったらしいが、最近ではどうも知性に鈍さを感じるという。
「あれを見ていると、同年代の頃が私がまともに思えてくる」
「人は成長するものです。友も成長するでしょう」
兄の心配に章海はそう答えるしかなかった。章海が見聞する限り、章友がこれより人として飛躍的に成長するとは思えなかった。
「そうなればいいが、私もいつ亡くなるか分からん。明日にでも死ぬかもしれんのだぞ」
「兄上、そのような不吉な……」
もしかすると、章平は自身の体の中に何かしらの違和感を察知していたのかもしれない。だから不吉なことを言い、後嗣のことも心配になってきたのだろう。
「理は利発だが、穂はどうしても友を太子にしたいと聞かなくてな」
「兄上……」
「海。私に万が一のことがあれば、お前が国主になれ」
章海は心臓が高鳴るのが分かった。国主。自分が国主。数十年ぶりに身を高揚させる言葉であった。
「どうもそれが最善であるような気がする」
「兄上、何を仰いますか。友が国主となっても、私が丞相として支えることもできますし、穂様も賢明でいらっしゃいます。きっと友を補佐できましょう」
「それではいかん。今でこそ友は幼いが、いずれ長じるとお前の俊才に嫉妬するかもしれない。かつての私のようにな」
兄の口から自分への嫉妬の感情を聞くとは思っていなかった。兄は兄で、嫉妬の感情に苦しんでいたのだろう。
「それに穂は友に甘い。支えることはできても、国主として友を厳しく教育することはできまい。それでは駄目なのだ」
章平は嘆息した。兄の苦労が、その一呼吸に集約されていた。
「海。私の願いを聞き届けてくれ」
「そこまで仰るのなら……」
章海は決断した。忌避されていた兄に頼られる。これほどの喜びを感じたことはなかった。
「ですが、そのことを明文化はできないでしょう」
「尤もなことだ。そんなことをすれば穂が騒ぐ」
苦笑いをした章平は、傍にあった紙と筆を手元に寄せた。筆を執ると一気に書き上げた。自分の死後、国主を章海に譲るというものであった。祐筆に書かせたものでないので、これ以上効果のある勅諚はなかった。
「これでよかろう。私の死後、これを開封して皆に見せよ。この世にいなければ、穂も私に文句は言うまい」
章平は丁寧に蝋封までした。章海はそれを懐に仕舞った。
「兄上のお気持ち、承りました」
章海はついに自分が国主になれるのだと信じて疑っていなかった。
だが、章平が死しても章海には国主の座は回ってこなかった。驚くべきことに章穂が即位したのである。しかも、章穂が跡を継いで国主になるべしという章平の遺言があったというのだ。
『嘘だ!』
朝堂でそのことを聞かされた章海は全力で叫びたかった。
『兄上が別の遺言を残していたか、あるいは偽勅か……』
実はこの時、章海の懐中には例の宸筆の勅諚があった。それをこの場で披露すれば、朝堂はひっくり返る騒ぎとなるだろう。どうすべきであろうか。章海はこれまでの人生の中で最も悩んだ瞬間であった。
章海は結局、宸筆の勅諚を出さなかった。出すことによって自分の方が偽勅ではないかと疑われることを嫌ったのである。
『偽勅ではないかと疑われる不名誉。そして私がこれを出すことで印国が乱れるのなら、それを避けるべきだ』
章海はましたしても己を殺すしかなかった。
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