寂寞の海~26~
章穂が死去してからの印国の内情について、樹弘は細心をもって注視していた。章理こそ国政に参加する立場にならなかったが、章海という翼公も認める異才が参政するようになったという。それでも樹弘は章友という国主に不安しか感じなかった。
『もし印公が章海殿を認めなければ、印国は乱れる』
これは勘に等しかった。この勘をより正確なものにするためにも印国の情報は必要であった。
印国についての情報源は大きく二つ存在していた。ひとつは印国と交易している紅蘭であり、もうひとつは章理であった。紅蘭からは書状の他に直接会って色々と聞き出すこともあったが、章理とはもっぱら書状のやり取りであった。ただ章理とのやり取りは頻度が高く、特に章理の返書は二週間かからずに返ってきた。これは樹弘から届いた書状について、章理がすぐに返事を出していることになる。
『まるで恋文ですなぁ』
甲元亀はその事実を知って嬉しそうにからかうが、内容は決して愛する男女のそれではなかった。お互いの国の状況についての情報であったり、政治的な案件に対する意見交換など、色気一つないものであった。
章理が報告してくる内容は、一切の私情を廃した極めて冷静なもので、章理の見識の高さを物語っていた。だが、それだけに印国の内情の悲痛さを感じることができた。
「きな臭いことにならなければいいけど、どう思う?朱麗さん」
樹弘は章理からの書状を一つ残さず景朱麗に回覧していた。景朱麗は当惑しながらも、きっちりと一字一句逃さずに読み込んだ。
「確かに少々きな臭いですが、あまり他国のことを気になさることもないと思いますが……」
「そうなんだけど、ああいう形で縁を持った人達を捨てて置けないというのもあるんだ」
「主上は……その……章理殿とご結婚されるつもりですか?」
樹弘には唐突な質問のように思われた。しかし、国主である樹弘の結婚は、やはり泉国にとっては重要な問題なのである。景朱麗がいつになく真剣な様子になっているのも納得できた。
「いずれはしないといけないと思っている。でも、その相手が章理さんなのかどうかは僕にはまだ分からない」
それが率直な回答であった。それ以上の回答を求められたとしても、樹弘としては同じ言葉を繰り返すしかないだろう。景朱麗は納得したのかどうか判然としない顔をしていた。
「朱麗さんは、どう思っているの?僕の結婚のこと……」
自分が景朱麗に対して気があるのではないか。甲朱関との対話で、そう指摘されたような形になった樹弘は、あれ以来、景朱麗をひどく意識するようになっていた。もし、景朱麗にもその気があるのなら、彼女を妃に迎えたい。景朱麗こそ、あらゆる意味で自分の妃に相応しいのではないか。樹弘はそこまで思うようになっていた。しかし、
『朱麗さんにとって僕は主上でしかない』
と思っていた。そう考えているのが景朱麗であり、おそらく彼女は樹弘のことを一人の男性として見ていないだろう。景朱麗とはそういう女性である。
『朱関は、朱麗さんも一人の女性だというけど……』
もし、樹弘が景朱麗に思いを打ち明けたらどうなるだろうか。景朱麗が拒否すれば、もう元の関係には戻れないだろう。樹弘はそれが怖かったし、今も彼女から返ってくる回答も怖かった。
「し、臣下としてはお答えできません……」
樹弘はこの時、景朱麗の微妙な言い方に気が付くべきであった。だが、普段は聡い樹弘も、動揺していて察することができなかった。
『僕はどうも優柔不断だな……』
国政については果断な樹弘も、私事になるとなかなか決断できずにいた。
一方の章理は、必ず返事を書いてくる樹弘の書状をいつも心待ちにしていた。
『泉公は心温かい』
章理が出す書状の数は、我ながらくどいと思える量であった。多い時など、書状を出した翌日にはまた認めていた。そのくどいほどの書状にも、樹弘は丁寧に応じてくれた。
『ああ、樹弘様』
章理は樹弘からの返書を胸に抱いた。章理は印国の現状を包み隠さず樹弘に知らせている。樹弘は、章理の立場を理解しながら、優しく諭すような言葉を並べている。今や章理が心許せるのは章季を除けば樹弘だけかもしれなかった。
胸を焦がす思いとは、まさに今の自分の状態なのだろう。市井の娘に生まれていれば、胸焦がす相手と駆け落ちでもして添い遂げるのだろう。だが、樹弘も章理も立場ある人間である。そのようなことが許せるはずもなかった。
『そもそも、泉公が私のことを受け入れてくれるかどうか分からないしな』
章理はやや自嘲した。そもそも最初に樹弘を拒否したのは他ならぬ章理である。その時から比べると、今の章理はまるで別人のようであったが、樹弘が章理のことをあの頃のままだと見ているとするなら、章理の恋は実らぬままで終わるだろう。
『恋というのは難しいものだ……』
過去の偉人が言ったという。世の中にままならぬのは、国の政治と双六の賽、そして人の恋だと。誰の言葉か忘れたが、今にしてなるほどと思った。
「賽のようになんども振れればいいんだけどな……」
章理は机の引き出しをあけた。そこには幼い頃、章季と遊んだ双六の賽が二つあった。試しに二つ握って振ってみると、一のぞろ目が出た。
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