寂寞の海~4~
その晩、景朱麗は妹達を執務室に呼んだ。
「何よ、姉さん。わざわざ私と黄鈴を呼び出して」
姉妹だけになると、景蒼葉は姉に対しては遠慮がなかった。景朱麗はじっと妹達の顔を窺った後、声を潜めて話を切り出した。
「お前達、元亀様から何か聞いているのか?」
「聞いているって、何を?」
景黄鈴が不思議そうに聞き返した。
「いや……どうにもおかしいと思ってな。主上がお疲れなのは分かっているし、ご静養されるのは賛成なのだが、どうして印国なのだ?」
「そんなこと私に言われても困るわ。たまたま元亀様のところに招待状が届いて、その時期と主上が休まれる時期が合致しただけじゃないの?」
景蒼葉の言い方には煩わしさが交じっていた。景黄鈴も同じことを感じているのか、何度も頷いていた。
「そうだよな……。うん、そうだな。主上も印国をご覧になるのは、いいことだしな」
私の考え過ぎだ、と景朱麗は自分を納得させるように言った。景蒼葉はいつもは毅然としている姉らしくないと感じていた。
「姉さん、どうしたのよ?」
「不安だったんだ。最近、主上は泉春を空けられることが多く、その度に私は留守番だろ?主上がどうにも遠く感じられて、また疎まれるのではないかと思って……」
「ははは、姉さん。それじゃまるで恋する乙女じゃない!」
手を打って笑った景黄鈴は、すぐにしまったというような顔をした。
「黄鈴!ば、馬鹿なことを言うな!私は……」
「ご、ごめん、姉さん。私はそんなつもりじゃ……」
景朱麗は掴みかからんとした。景黄鈴は俊敏にかわしたが、景朱麗は裾を乱して妹を追いかけた。景蒼葉はその情景を見て、口に手を当てながら爆笑していた。
そのようなやり取りを知らない樹弘は、物見遊山気分で泉春を出発した。泉国から印国へ向かうには当然ながら船に乗らねばならない。印国への定期便が出ているのは、洛鵬という港町であった。
「この近くには主上の故郷があるんだよね」
景弱と共に樹弘の身辺警護を務める景黄鈴は常になく楽しそうだった。これまで樹弘が旅に出る時、身辺警護をしていたのは景弱であった。景黄鈴は留守番ばかりだったので、今回は自分も出かけられるのではしゃいでいた。
そのような興奮状態になると景黄鈴はついつい言葉遣いが乱れた。同行するのが景蒼葉と景弱、甲元亀なので咎める者はいなかった。樹弘も何も言わなかったが、もしここに景朱麗がいれば船旅をしている間はずっと小言を言われていただろう
「洛影って言うんだけど、どうなっているんだろうね」
「寄って行かれますか?」
景蒼葉が尋ねたが、樹弘は首を振った。樹弘にとっては苦しい思い出しかない故郷であった。洛影の人々は樹弘によくしてくれたし、母の墓もある。できることならば寄ってみたいのだが、良い思い出よりも辛い思い出の方が多い。わざわざ静養の旅の途中で寄らずともいいだろうと思えた。
「あそこでの僕があったからこそ今の僕があったと言えるのかもしれないけど、故郷に錦を飾るねんて偉ぶるのは好きじゃないからね」
樹弘は複雑な心境を一応そのような形で説明した。樹弘が洛影を訪れるのはもう少し先であろう。
洛鵬からは印国向けの商船に乗った。船主が紅蘭であり、あらかじめ手配を依頼していた。
『了解了解。好きに使ってくれ。私は印国にいるから、暇があったら訪ねてきてよ』
という実に軽々しい返事を紅蘭から受け取っていた。その返書を番頭だという明鮮という老人に見せると、声をあげて笑って船に乗せてくれた。
思えば樹弘にとっては初めての船旅であった。船の先が波を切る光景と、吹き抜けていく潮風を全身で浴びる感覚に樹弘は興奮した。樹弘だけではなく、景黄鈴と景弱も同様であり、興奮して甲板を駆け回っていた。ちなみに景蒼葉は船酔いのため、部屋で休んでいた。
「まったく……あれでも泉公の護衛兵なんだよな」
樹弘はやや呆れた。実は樹弘も船の先で大声をあげたい気分であったが、流石に自重した。
「ほほ。儂も初めて船に乗った時は同じように興奮したものです」
甲元亀は揺れる船でもしっかりと立って矍鑠としていた。
「元亀様は印国には行ったことがあるのですね」
「もう随分と昔のことです。景家に仕える前には商人の真似事をしておりましてね。それで印国に何度か渡ったのです」
そこで知り合ったのが左堅という男です、と甲元亀は言った。
「元亀様に招待状を送ってきた方ですね」
「左様です。今でこそ印国の閣僚をしておりますが、左堅は鉱山の開発をしておりまして、まぁその縁で知り合ったわけです」
「では、我が国に輸入している銅や鉄は、その鉱山からですか?」
泉国には鉄や銅の鉱山が乏しく、鉱物資源のほとんどを他国から輸入していた。特に鉄と銅は印国からの輸入が多かった。
「はい。鉱山は息子に譲り、今は鉱山経営の手腕を活かして閣僚を務めているというわけです」
なるほど、と思っていると、陸が見えたぞという水夫の声が聞こえた。船の進路先に島影が見えた。印国までもう少しであった。
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