漂泊の翼〜6〜
郭文以外にも今回の出師を危ぶんでいる者がいた。他ならぬ楽玄紹であった。だから楽乗が急に訪ねてきて今回の出師を取りやめた方がいいと言ってきた時には意外に思い、ただただ驚かされた。
「それは乗の意見か?」
「いえ、郭文です」
楽乗の答えも楽玄紹には意外であった。
『あの郭文がな』
郭文は掴みどころのない男であった。飄々としていて有能なのか無能なのか判断のつかぬところがあった。だから楽伝は愛着の薄い楽乗の傅役に郭文を選んだのだと思っていた。おそらくはその推察に間違いはないだろうが、郭文に対する認識は改めなければならない。
『それに乗もだ』
乗の良さは家臣の言うことを聞いたうえで、あれだけ薄情にされている父であっても、これを窮地から救おうとしている。孝心の厚さは三兄弟の中では随一かもしれない。
「乗よ。今の儂は隠居の身だ。伝に直接言えばよかろう」
「父上は取り上げないでしょう」
楽乗は悲しげに目を伏せた。父の非情を悲しむ孫が哀れであった。
『さてどうしたものか……』
楽玄紹も今回の出師に危うさを感じている。だが、今ここで自分がそのことを言えば、きっと楽伝は一生楽玄紹の影を追いながら生きていくであろう。それでは楽伝のためにはならぬと思うのだが、同時に失敗するであろう戦によって無意味に兵士達を死地に飛びこませていいのか、という葛藤が楽玄紹にはあった。
「郭文は他に何を言っていた?」
「私がこの任務を受けたのを大慶と言っていました」
「大慶とな」
なるほど、と楽玄紹は唸った。郭文には楽乗に戦功を挙げさせる方策があるのだろう。
「乗。この度の戦は郭文の言に従え。そうすればお前は戦功を挙げることができ、尚且つ伝を救うであろうよ」
予言のような言葉に楽乗は目を丸くしていたが、楽玄紹には確信があった。この戦いで楽乗の名声は一気に飛躍するだろうと。
三ヶ月後、楽伝は大規模な南征を行った。それに先立ち、楽乗がわずか百五十の兵を率いて先発した。見送ってくれたのは兄である楽慶とその母である萌枝夫人であった。
「乗。必ず生きて帰って来いよ」
と楽慶が言えば、萌枝夫人は、楽乗の手を取って、
「あなたの家臣以外にもあなたが生きていることを喜ぶ者がいることを忘れないでください」
涙を流しながら言ってくれた。
『私の家族はこの人達だけだ』
特に萌枝夫人は幼くして母を亡くした楽乗にとってはまさに母代わりであった。楽乗が二人のことをとても慕っていた証左として、遙か後年楽乗が翼公となった時に、楽慶を先代翼公に、萌枝夫人に国母の称号を与えた。
楽慶と萌枝夫人に見送られ許斗を出撃した楽乗に付き従うには、胡兄弟に傅役の郭文、そして龐克という武人が加わった。龐克は楽乗の家臣ではなく、楽氏に仕える将の一人であった。お目付役か、楽伝が示した唯一の温情と言えるかもしれなかった。
その龐克は明かに不満顔であった。彼からすると楽伝配下で華々しく戦果をあげることを期待していただろうが、戦果をあげるどころか危険性の高い陽動任務に参加させられて不服なのだろう。百五十名の兵も半分は龐克配下の兵士であった。
「嫌な連中ですね」
楽乗と轡を並べる胡旦がそっと囁いた。
「そう言ってやるな。彼らも不本意なのだ」
楽乗は胡旦を宥めた。ここで龐克にへそ曲げられれば、立ち行かなくなるのは楽乗達の方なのである。
『お気に召さないかもしれませんが、龐克殿には丁重になさってください。龐克殿の協力がなければ我らは敵地で虚しく死ぬだけです』
出発前、郭文がくどいほど楽乗に言い聞かせてきた。勿論、そのようなこと楽乗は百も承知だったので、寧ろ楽乗の方が家臣であるかのように丁重に振る舞った。
一行は只管西へ進み、黒絶の壁が途切れる西端に達した。ここから南下して羽氏の領土に侵入するのだが、その時点で軍議を行った。
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