蜉蝣の国~38~

 樹弘と紅蘭が衛環を去って数日、衛環の不穏な空気を察したのは伯淳本人でなければ、柳祝でもなかった。伯淳に仕える宦官の琳唐であった。


 ちなみに宦官は国主の身辺に侍る去勢された男性のことである。宦官という存在は、中原において七国が誕生した時からあったとされているが、現在でも残されているのは伯国と条国、界国だけであった。すでに他の国では廃止、あるいは自然的に消滅していた。


 琳唐は伯国の官吏であったが、数十年前に発生した収賄事件に連座して罪を被り、死罪の代償として宦官になった。以来、ずっと衛環において国主の身辺に侍り、伯淳に対しても従順に仕えてきた。


 その夜、琳唐は遅くまで起きていた。翌朝、伯淳が地方で開拓事業の視察を行うことになっていた。泊りがけになるので衣服などを準備せねばならず、琳唐はその指揮を執っていた。それが終了し、やれやれとばかりに一息ついた瞬間、奇妙な感覚に襲われた。


 『妙に静かだ……』 


 これは琳唐の直感ではあった。しかし、長年に渡り衛環の宮殿で過ごした琳唐には微妙な違和感を敏感に察することができた。


 「おい、見張りの兵士が少なくないか?」


 琳唐は部下の宦官に声をかけた。


 「そうでしょうか?」


 部下は眠そうに答えた。伯淳は明日の早暁に出発するため、いつもの寝所ではなく、比較的門前に近い賓客の客間で就寝している。その分、見張りの兵士もその近辺にいてもいいものだと思うのだが、琳唐の見る限り兵士は見当たらなかった。


 「李将軍に掛け合ってくる」


 伯淳の身辺を警護しているの李炎である。何事か心配になってきた琳唐は、近くの兵舎にいるであろう李炎の姿を捜し求めた。


 やや太りぎみの体躯を揺らしながら兵舎に向かった琳唐は、兵舎を目の前にして思わず身を隠してしまった。わずか一本の松明灯りしかない中、兵舎の前に兵士達が整列していた。その異様さに只事ではないと咄嗟に判断した琳唐はその場で様子を伺った。


 『あれは李炎将軍……』


 兵士達は十数名いるだろうか。その兵士を前にして李炎が何事か訓示していた。琳唐は聞き耳を立てた。


 「我らは主上を討つことになる。しかし、それは弑逆ではなく、伯国のためだと思え」


 琳唐の全身の血液が空になりそうであった。李炎は弑逆ではないと言っていたが、明らかに弑逆である。


 『これはえらいことを聞いてしまった』


 全身の震えが止まらず、気を抜けば失禁でもしてしまいそうであったが、なんとか気力を呼び覚まし、体を動かした。元いた場所に戻った琳唐は残っていた部下に馬車の準備をさせる一方で、伯淳の寝所に急いだ。幸運であったのは同じく伯淳の傍で仕えている柳祝が起きていたことであった。彼女も明日の準備に追われていて、その作業も終わり今しがた入浴を終えて休もうとしていた。


 「柳祝殿、柳祝殿」


 これ幸いと琳唐は息も絶え絶えに柳祝を呼び止めた。


 「琳唐殿……」


 「謀反でございます。李炎将軍が……」


 「え、どういうことですか?」


 琳唐の声が震えているせいか、それとも信じられないのか、柳祝は聞き返してきた。


 「李将軍が主上のお命を狙っております。お急ぎください」


 柳祝は、はっと真顔になった。柳祝の中で何か得心することがあるのか、琳唐のいうことを信じてくれたようだった。


 「すぐに主上をお起こしください。外に馬車を用意しておりますので」


 琳唐はそれだけ告げると、踵を返した。


 「琳唐殿は?」


 「時間をお稼ぎします。お早く」


 琳唐は宦官である。従来は女官と共に国主の衣食住の世話をするだけの役割なのだが、宦官と女官の決定的な違いは、国主の生命を最後の最後で守る役割、つまり衛兵としての役割をかねていた。


 『これで主上とお別れか……』


 先代の伯史から仕えてきた琳唐としては、主上という存在は概念でしかなかった。伯史、伯淳という個人に仕えたという感覚はなく、たとえ市井から拾われた少年であっても、主上であるのなら命をかけて守らねばならなかった。


 琳唐は部下の宦官達に声をかけた。彼らは一瞬怯えた表情を見せたが、精神の根にある部分は琳唐と同じであった。


 琳唐ら五名は槍を手に入れ兵舎に向かった。途中で李炎達に遭遇した。


 「これよりは主上の寝所である。控えろ」


 琳唐はわざと大音声を出した。これで少しでも騒動が拡大されれば、賊の不貞な行いが白日のものとなる。


 「主上を警護するためである。そこをどけ!宦官ども!」


 李炎は居丈高であった。多くの武人は去勢された宦官を下に見ていた。そのことが宦官達を反発を招いていた。琳唐の部下達の顔が怒りで紅潮していった。


 「ならば何故このような深夜になって配置に着く。主上をお守りするつもりがないのなら、早々に兵舎に戻られよ」


 その時、馬車が音を立てて動き出した。李炎に焦りの色が見えた。


 「しまった!たかが宦官が数名だ!突破して馬車を追え!」


 「我らも寺人としての矜持がある!通すな!」


 多勢に無勢である。命を落とすのは必定であったが、一瞬でも伯淳を遠くに逃がせることができたのならば琳唐としてはそれで十分であった。

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