蜉蝣の国~37~
樹弘と別れた紅蘭は、無宇という謎の男と嶺門へと急いだ。無宇というのは全くもって謎の男であった。紅蘭の問いかけには一切答えず、だからと言って香蘭のことを邪険にしているわけではなかった。共に行動し始めた翌日にはどこから調達したのか、荷馬車を一乗用意して香蘭を乗せてくれた。
無宇は馬車の扱いに優れており、通常五日はかかるであろう嶺門までの道のりを三日で走破した。紅蘭は何度も無宇に樹弘の正体あるいは無宇自身の正体を問うてきたが、無宇は一切を語らなかった。紅蘭は無宇の口の堅さに根負けし、この頃になると問うのもやめていた。
しかし、嶺門まで後一日となった夜、紅蘭が荷台の中でうつらうつらしていると、突然無宇の方から話しかけてきた。
「紅蘭様は樹弘様が何者であるかと仰いましたが、樹弘様は何者なのでしょう」
無宇の問いかけは哲学的であり、なんと返せば良いかすぐには思いつかなかった。
「私が樹弘様と初めてお会いした時は、まことに普通の少年でございました」
紅蘭が答えないので無宇が続けた。
「しかし、非常にお優しく、私のような人間にも気軽にかつ丁重に接していただきました。私は樹弘様の人柄に大きさのような感じました。それからでございます。樹弘様がたとえ何者であろうと、この方に付き従おうと決めたのは」
紅蘭は無宇が何を言わんとしているのか大よそ察することができた。
「無宇さんにとって人の地位は関係ないということですか?」
「地位は大切でありましょう。社会で生きていく以上、絶対に必要なものですから。ただそれは後から付いてくるものであって、先に付いているものではないと私は思っております。ですから、どれだけ尊い地位におられても、人として敬することができないかたにお仕えするつもりは毛頭ございません」
これまでの寡黙さが嘘のように無宇は饒舌であった。無宇が何者か分からないが、彼の精神はとても純朴で高貴なように紅蘭には思えた。
『地位が高くとも伊賛のような卑しい人間もいる。それに対して無宇さんの人に対する純粋さはあまりにも尊い』
無宇は決して地位の高い人間ではないだろう。それでもこれほど他者に対して純粋な心根で接することができるということは、やはり地位などいうのは人の根本のあり方を示すものではないのだろう。
「私は官吏になりたいんだ。今でもそう思っている。できれば丞相にでもなって一国の政治を総覧してみたいと思っているんだ。その国を豊かにする、国民が住みよい国にするにはそれしかないと思っていた。でも、それすらも地位に拘りすぎていたんだな」
「私は浅学の身なので偉そうなことは申し上げられませんが、何か目的を成す為に地位を求めるのは自然でありましょう。ですが、地位を得た後に初志を忘れてしまっては本末転倒というものでありましょう」
地位とはその程度のものかもしれません、と無宇はつぶやいて結んだ。
翌朝の早く、紅蘭と無宇は嶺門に達した。ちょうど門兵が紅蘭の顔見知りなので素直に通してくれた。
「紅蘭様、私はここで失礼させていただきます」
無宇は嶺門に入らず、そのまま馬車に乗り続けていた。
「無宇さん、どちらへ?」
「ちょっとした野暮用でございます。紅蘭様は将軍にお会いした後は嶺門を動かない方がよろしいでしょう」
それでは、と無宇は軽く会釈して去っていった。紅蘭はすぐに李志望に会うことができた。
「これは何かの間違いじゃないのか?」
書状を読み終えた李志望の反応は鈍かった。そこに書かれていた内容は李志望が疑い、警戒していることであった。しかし、それがいざ現実のものとなると、否定したい願望が先行してきたのだろう。
「将軍、今すぐに嶺門の守りを固めましょう」
「それではかえって丞相を刺激してしまうのではないか?それに泉国のこともある」
紅蘭は歯痒かった。あの万事に強気であった李志望はどこに行ったのだろう。
『武人としてこの人は政治の機微が見えていない』
紅蘭も政治政略のことがどれほど分かっているか自信はないが、この場合は李志望よりましであろうと思った。
「将軍。ともかくも衛環に偵察の兵を派遣し、周辺の兵士達には衛環からの命令が来ても動かないようにお命じください」
「……その程度なら」
李志望は応じたが、気乗りではないのは明らかであった。
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