蜉蝣の国~36~

 衛環を出た樹弘と紅蘭は、泉国へと戻ることにした。途中、嶺門に立ち寄り、李志望に挨拶をしておこうということになっていた。


 ひとまずは伯国との戦争が回避できたことと泉国へと戻れることで安堵していた樹弘に対して、紅蘭はどこか浮かない顔をしていた。


 「どうしたんだ?ひょっとして牛紀という男の所在を気にしているのか?」


 伯国に入ってから、紅蘭は桃厘で別れた牛紀のことを捜そうとする素振りをまるで見せていなかった。樹弘は無宇の調査によって雲札と牛紀の所在を知っていたのだが、あえて紅蘭には知らせていなかった。伯国との戦争が回避できた今、彼らの所へ行って泉国へと連れ戻そうと樹弘は考えていたのだ。


 「誰があんな奴のこと。顔を見たくない」


 紅蘭は心底嫌そうに言った。


 「じゃあ、どうしたんだよ?」


 「二つのことが気になっている」


 紅蘭は右手の人差し指と中指を立てた。


 「ひとつは伯淳のことだ。伯淳は主上として自立し始めたが、どうにも不安なんだ」


 「伯淳の危うさは分かっている。でも、僕らがどうにかできる問題じゃない」


 あくまでも伯淳が乗り越えなければならない問題なのである。樹弘自身、泉国の国主であるからこそそう思えるのであった。


 「冷たいんだな」


 紅蘭の語気には非難が込められていた。


 『冷たい……か』


 あるいはそうかもしれない、と樹弘は思った。人の愛情に容量があるとするならば、樹弘のそれは泉国で一杯であった。他国の人民などどうでもいいとは思わないが、今の樹弘の力量では他国の人民を救うというのは到底無理そうであった。


 「もうひとつある。柳祝さんのことだ。お前、柳祝さんの気持ちに気づいているのか?」


 「柳祝さんの気持ち?」


 「はぁ、その様子だと気がついていないのか……。朴念仁にもほどがある」


 紅蘭は本気のため息を付いた。それからきっと樹弘を睨んだ。


 「柳祝さんは明らかにお前に気がある。はっきり言えば好いている。その好意にお前は応えてやるつもりはないのか?」


 「柳祝さんが僕に好意?」


 馬鹿なことを、と一笑に付そうとしたが、紅蘭の真剣な眼差しがそれを許さなかった。しかし、柳祝の好意に対して応じるつもりがあるのかどうかと問われても、答えることができなかった。


 「ともかく、衛環に戻ろう。このままでは駄目だ」


 「そう言われても……」


 樹弘が逡巡していると、すっと音もなく人影が樹弘達に近づいてきた。樹弘が身構えるよりも早く人影が頭巾を脱いだ。


 「無宇……」


 人影は無宇であった。紅蘭がいる所で接触してきたということは何事か火急の用件が発生したのだろうか。


 「樹弘様、先ほど怪しげな風体の男がおりましたので捕らえたところ、このようなものが」


 無宇が一枚の書状を差し出した。誰なんだ、という紅蘭の問いかけを無視して樹弘は書状を読み出した。

 「男は伊賛の使者のようです。一応、始末しておきました」


 内容は伊賛から泉公に宛てたものであった。伯淳が泉国に攻めこもうとしていたのでこれを排したというものであった。伊賛としては伯国を泉国に併呑させる意思があるため速やかに軍を伯国に入れて欲しい。そして自分を併呑後の旧伯国の都督にして欲しいというものであった。


 「破廉恥な!」


 樹弘は怒りに任せて書状を破こうとしたが、心配そうな紅蘭の顔が見えたので思い留まった。


 「無宇は内容を見たか?」


 「はい。僭越ながら」


 その間も樹弘は紅蘭に書状を見せた。紅蘭の顔がみるみるうちに真っ赤になった。


 「じゅ、樹弘。これは!」


 「無宇、紅蘭と一緒に嶺門に行って李将軍にこの書状を見せるんだ。伊賛は間違いなく嶺門を攻める」


 「承知しました。樹弘様は?」


 「衛環に戻る。手遅れかもしれないが、伯淳を助ける」


 「私も戻る」


 「紅蘭は無宇と行け。紅蘭ならば李将軍も会ってくれよう」


 行け、と言った樹弘はすでに衛環の方に走り出していた。尋常ではない速さであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る