黄昏の泉~80~

 義王朝五四三年、五月一日。樹弘の姿は泉春宮の国主の間にあった。


 泉春を制圧して二週間。戦闘で傷ついた泉春の復興や泉春宮の修繕を最優先にしたため、樹弘の即位が先送りになっていて、ようやくその日を迎えたのであった。


 国主の間は特に丹念に修繕された。ここで相史博が縊死したこともあり、徹底的に祓い清められ、樹弘が登る高壇も取り替えられた。樹弘はそのようなことは無駄遣いだとして難色を示したが、景朱麗をはじめとして多数の延臣が反対した。


 『どちらにしろ、新しい国主が即位するとなると、色々なものを改める必要があります』


 長老格の甲元亀にそう言われれば、国家の祭典儀礼などに詳しくない樹弘としては黙るしかなかった。だが、別に意を決したことがあった。それは誰にも言わず、当日を迎えた。


 樹弘は国主の間に入り、高壇に登った。付き従うものはいない。高壇の頂上に座るべき椅子がある。金銀で見事に装飾された椅子である。これも今回のために新調されたものだ。


 振り返ると、景朱麗を筆頭に今まで付き従っていた者達が膝を付き、頭を垂れていた。誰も樹弘を見ておらず、樹弘からは誰の顔も見えなかった。


 『こんなことは僕が望んだことじゃない』


 あくまでも皆と同じ目線で。そのつもりで国主となることを決意したのではなかった。それが国主となった瞬間、忘れているのではないかと自省した。国主として彼らの、そして泉国の頂点に立つのは致し方がない。しかし、それはあくまでも形式的なことで、実際に人と目線が合わないというのは不愉快以外のなにものでもなかった。だから樹弘は、事前に決意したことを実行することにした。


 樹弘は折角登った高壇を降り始めた。その気配にいち早く気がついたのは景朱麗であった。彼女からすれば思いもよらぬことであり、注意すべきだと思ったが、顔を上げて声を発するのは無礼でもあったので、何も言えなかった。そのうちに樹弘は高壇を完全に降りきってしまった。


 「全員、立ってください」


 よく通る声で樹弘が言った。わずかに躊躇いを見せた延臣達は、お互いの顔を見合わせながらゆっくりと立ち上がった。


 「そうだ。この光景だ。僕が見たい光景は」


 樹弘は延臣達を見渡した。身長の高低はあるが、これまでずっと樹弘が見てきた目線である。


 「僕は国主となることを決めた時、皆に言ったことがある。食べる物も寝る所も皆と一緒で構いません。いや、寧ろそうして欲しいって。すべてがすべてそういうわけにはいかないだろうが、その精神は忘れていないし、皆にも忘れないで欲しい」


 だから僕はここに降りてきた、と樹弘は言葉を続けた。


 「これは皆だけのことじゃない。泉国に住む者たち全員に対してです。そしてそれは皆にも持って欲しい精神です」


 自分が国主であると同時に泉国の一国民でもある。それこそが樹弘という国主の精神であり、彼は終始その精神を忘れることがなかった。泉国が繁栄を続け、樹弘が中原に名を残す名君となったのは、まさにその精神を体現したからであった。


 「僕からの話は以上です」


 「樹弘様!万歳!」


 どこからか万歳の声が上がった。国主の間ではしばらく万歳の声が響いた。




 その夜は祝宴となった。樹弘はその場で泉春の長老や有力者と引き合わされ、挨拶回りに謀殺された。気疲れした樹弘は、そっと宴席の場を抜け出し、露台に出て涼んでいた。


 「主上、こちらでしたか」


 背後から声をかけられた。景朱麗であった。彼女は真っ赤な礼装着を着ていた。いつもの服装に見慣れている樹弘からすれば、すごく新鮮に映った。


 「なんか疲れちゃってね。でも、楽しい酒宴はいいね」


 樹弘は窓越しに室内を見た。誰しもが杯を片手に楽しげに談笑している。ついこの間まで、凄惨な戦闘が繰り広げられていた場所とは思えない光景である。


 「中だけではありません。外でも……」


 景朱麗に言われるまでもなく、泉春の街でも新しい国主の誕生を祝う市民達が今夜ばかりと杯に酒を満たし、乾している。樹弘が見えるところでも、兵士達が焚き火を囲んで酒を酌み交わしていた。樹弘が彼らに愛想を振りまくと、樹弘様万歳、と返された。


 「改めて言われると照れるね。万歳禁止にしようかな?」


 「この程度で照れておられては……。これから何度も数十、数百回、言われることになるんですよ」


 景朱麗が意地悪く言った。思えば景朱麗とこうして冗談を言い合えるのは久しぶりであった。


 「朱麗さん、乾杯」


 樹弘は自分が持っている杯を景朱麗のそれに当てた。ちん、と澄んだ陶器の音がした。突然のことに驚いた景朱麗であったが、すぐに笑みを返した。


 「乾杯です、主上。ぜひとも素晴らしい国を」


 「ええ。一緒に」


 二人は杯の中を乾した。そして再び杯の中を満たそうと屋内へと戻っていった。




 泉国の新しい歴史が始まった。

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