黄昏の泉~34~

 無宇が先頭を行き、景秀を背負った景朱麗が続き、樹弘が殿についた。自分に起きた衝撃的な出来事を消化しきれぬままでいる樹弘であったが、再び緊張の中に身を置くと、心の動揺も次第に収まっていった。


 監視塔を出ると、周辺には相変わらず人影はなかった。しかし、無宇一人が妙にそわそわとしていた。


 「始まってしまうか……」


 無宇が独り言のように言った。そう言葉の意味を問う間もなく、無宇が歩き出していた。


 「お急ぎください。時機を逸しては脱出できなくなります」


 「何処へ行くと言うのだ?」


 景朱麗が無宇の背後から問うた。無宇はお急ぎくださいとだけ言った。


 樹弘達はやって来た道を戻り、泉春宮を無事出ることができた。そこに止めてあった馬車に乗り込み、無宇が手綱を取って泉春の街を縫うように走り出した。


 「馬車は目立つんじゃ……」


 樹弘は危惧したが、夜ということもあってやはり人影はない。しかし、街の辻々には夜になると衛士が立つのだが、その姿もない。どうにも妖しかった。結局、馬車は誰何されることなく、やがて大きな屋敷の前で止まった。


 「ここは……。景政の屋敷か」


 景朱麗が景秀を再び背負い、馬車から出てきた。何も応えない無宇に導かれるまま門扉を抜けて中に入ると、そこには物々しい光景が広がっていた。武装した兵士が充満していたのだ。


 「おお、無事に救出できたようですな」


 樹弘達が呆然としていると、やはり鎧姿の景晋が姿を見せた。


 「景晋殿。これはどういうことか?」


 景朱麗は殺気立っていた。剣を抜こうとしたが、景秀を背負っているので上手く動けなかった、


 「これより相公に対して反逆奉る」


 密集している兵士達が左右に分かれ、景政が姿を見せた。彼もまた鎧を着込んでいた。


 「何を考えている?」


 「我等が泉春宮に攻めかかれば、外に待っている部隊が東門を破って突入してきます。それに合わせてお逃げください」


 景晋がそう説明し、樹弘は合点した。景政達は景秀を救出した自分達を泉春から逃がすために騒擾を起こそうとしているのだ。辻々の衛士がいないのも、きっと景政が手を回したのだろう。


 「なんて馬鹿な真似を……」


 景朱麗も景政の真意を悟ったらしい。顔色から怒気が失せ、悲壮感が覆ってきた。


 「我らはこの時のために準備をし、景家としての恥を晒してまで耐え忍んできたのだ。寧ろ本懐というべきだろう」


 景政は景朱麗に背負われている景秀に目をやり、静かに目礼した。


 「政よ。その少年こそ、我等が主上。真主である」


 弱々しい声であったが、景政にはしっかりと聞こえたらしく、驚きの目を樹弘に向けた。


 「主よ。剣を政にお見せし、抜いてください」


 景秀の言葉に抗うべきかと思ったが、緊迫した状況の中で悩み躊躇うことはできなかった。樹弘は剣を景政達に示し、鞘から抜いて見せた。


 「おお。その柄の刻まれているのはまさらに泉家の紋章。まさに神器」


 景政は膝を突き、深く叩頭した。景晋もそれに倣い、兵士達も続いた。まるで人が瓦の波のようであった。


 樹弘はどうしてよいのか分からず、呆然と突っ立っているしかなかった。


 「こうして最後に真主にお会いできるとは長生きしてみるものです。我等が行いも意味があるというものです」


 ようやく景政が立ち上がった。真っ直ぐに樹弘を見る瞳は綺麗に澄んでいた。


 何か語るべきではないのか。樹弘は景政の瞳を見て思った。あるいは彼らが自分のことを主と崇めるのならば、無謀な蜂起などやめろと命じるべきなのかもしれない。しかし、樹弘は何も言えなかった。樹弘はまだ自分自身のことを泉国の真主であると認めていなかった。


 景政が樹弘から視線をはずした。その瞬間、二人の主従関係が終焉を迎えた。


 「さぁ、急ぎ馬車で東門へお向かいください。無宇が同行いたします。それと、弱」


 景晋が呼ぶと、年の頃なら樹弘と同じぐらいの少年が兵士を掻き分けてやってきた。樹弘より引き締まった体躯をしているが、顔はどこか幼く紅潮させていた。


 「私の倅です。お傍にお置きください。弱、しっかりと主にお仕えするんだぞ」


 「景弱と申します。こうして真主にお仕えすることができて光栄です。よろしくお願いいたします」


 景晋に促され、景弱が深く叩頭した。樹弘はかける言葉もなく、突っ立っているだけであった。


 「さて、そろそろ刻限です。皆様、お元気で」


 景晋が兵士達の群れの中に消えていった。景政の姿もない。樹弘も景朱麗も、もはや何も言えず、無宇と景弱に促されるまま馬車に乗り込んだ。

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