黄昏の泉~26~
樹弘と景朱麗は、景政の馬車に乗せられた。樹弘は身分違いだからと固辞したが、景政が強く勧めるので結局乗ってしまった。
「このような所でお会いするとは思っておりませんでしたぞ。兎も角も、無事で何よりです」
景政は景家の者として景朱麗達の安否を気にしていたのだろう。顔からは安堵の色が見て取れた、
「しかし、偶然に私が居合わせて幸いでした。蓮子様は一度こうと思うとなかなか考えを捻じ曲げないお方だからな。朱麗様を危うく従僕にしてしまうところでした」
景政は功績を誇るように言ったが、景朱麗は礼の一言も言わず、景政を見ようともしなかった。やれやれと言わんばかりに肩を落とした景政は、樹弘に視線を移した。
「君は新しい従僕かね?」
「はい。樹弘と申します。ついこの間、朱麗様にお仕えしたばかりです」
本当の主君は甲元亀なのだが、その名前はあえて出さなかった。出せば甲元亀の所在も問われるかもしれないと危惧したからであった。
「そうか。よくぞ朱麗様を守ってくれた。礼を言うぞ」
景政は優しげであった。樹弘は景政という人物がよく分からなかった。景家の分家として本家から冷遇させ続け、現在では相房の寵臣であるのに、景家本家のことや景朱麗のことを気にかけているというのは、どういう心境なのだろうか。あるいは景政ほどの貴人の位に昇れば、立場が逆転しても相手を見下すような真似はしないのだろうか。どちらにしろ樹弘には理解ができなかった。
「それで朱麗様はどうなされますか?蓮子様は朱麗様の顔を知らぬからよかったですが、いずれ人相書きも参りましょう。このまま伯や静に脱出するとあれば、そのように取り計らいますが……」
景朱麗が樹弘の方を見た。樹弘に意見を求めているようであったが、景政がいる手前、なんと言っていいのか分からなかった。景朱麗もそれを察したのか、そのまま黙って景政の質問に明確な回答をしなかった。
その晩、夜営となった。樹弘と景朱麗は同じ天幕に泊まらされた。景政としては景朱麗のことを知己の娘とした以上、特別な扱いをすることができなかった。しかし、樹弘と景朱麗からすると、今後のことを相談するには好都合であった。
「景政殿のことだ。我らを害するつもりはないだろうが、蓮子の耳目もある迂闊なことはできない」
これより数日後、景政は相蓮子と別れて泉春へと帰ることになる。相蓮子の監視下からは離脱できるが、泉春へと帰る景政から離脱したとしても、伯国や静国に行くには結局再び相蓮子の支配下を通らねばならない。これはかなり危険な行為であった、
「景政様のご好意に縋って、南へ向かう手筈を整えてもらえばどうでしょうか?」
景朱麗が眉間に皺を寄せた。景朱麗の気持ちはよく分かった。できれば景政の手を借りたくないが、手を借りなければどうにもならぬ状況にあるのだ。
「そのことだがな、樹君。私は景政に手を借りるのなら一層のこと泉春に潜入してみようと思うのだが……」
「朱麗様。それは危険すぎます」
「危険は分かっている。しかし、これは千載一遇の好機なのだ」
景朱麗の表情には鬼気迫るものがあった。
「好機……」
「かねてより元亀様と考えていたのだが、我々の旗頭は父上しかいない」
「父上って……景秀様ですか?確か、泉春で捕らわれているはずでは……」
樹弘は、はっとした。景朱麗の考えていることが大よそ察することができた。
「朱麗様……まさか」
「父上をお救いする。景政が手を貸してくれれば、可能なはずだ」
「それはそうですが……」
景政がそのような危険な行為に手を貸すであろうか。発覚すれば、相房の寵臣であるとはいえ死は免れないだろう。失敗した場合は、景家が滅んでしまう可能性も否定できないのだ。
「景政の腹の内は分からんが、脅してでもやるべきだ。これほどの好機は二度と回ってこない」
そう言われてしまうと樹弘としては頷くしかなかった。そもそも景朱麗が主人であるならば、樹弘としては無言で景朱麗に付き従うしかなかった。
『そもそも僕の言葉で翻意するような人ではないからな……』
こうなれば景朱麗と心中するよりない。樹弘は腹を括った。
「分かりました。朱麗様のお心のままに」
樹弘がそう言うと、景朱麗は微笑をもって樹弘の覚悟に応えた。
景朱麗の行動は素早かった。人をやって景政がまだ起きていると知ると、すぐさま樹弘を伴って景政の天幕を訪れた。
「朱麗様……。まだ近くに蓮子様が近くにおられます。どこに耳目があるか分かりませぬぞ」
景政は明らかに困惑していた。景政と一緒にいた彼の息子景晋も、突然の来訪によい顔をしていなかった。
「私のことを朱麗と呼んでいるんだからもう一緒だ。そんなことよりも私達は泉春に行く」
景晋は目を丸くして、持っていた杯を落としそうになっていた。景政も驚いているようではあるが、表情を変えず杯の中身を干した。
「それはおよしになられた方がいいでしょう」
景政はにべもなかった。どうして、と景朱麗は理由を聞かなかった。ただ鋭く景政を睨みつけていた。
「そんな怖い顔をなさらないでください。難しいものは難しいのです」
「見下げ果てた……。そこまで相公に尻尾を振って我が身の安泰を図りたいのか」
景朱麗の声には明らかに怒りが含まれていた。しかし、年長者として景政は落ち着いていた。
「朱麗様。私は相公から丞相の地位を打診されました。しかし、それを断り、景秀様の生命をお助けしたのです。私としてはそれで充分であると思っていただきたいのです」
「恩着せがましい……」
景朱麗の握り締められた拳が震えていた。景朱麗の少し後に座っていた樹弘は、咄嗟に景朱麗の手首を掴んだ。はっと我に返ったように景朱麗は樹弘を軽く一瞥した。
「それならば協力をしてくれとはいわない。私と樹君だけでもやる。せめて泉春までの安全を保障して欲しい」
「我等の後を勝手に付いて来るのならご勝手に」
景政はあくまでも冷淡であった。景朱麗は無言で立ち上がった。
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