黄昏の泉~21~

 田員が危惧したとおり、田参は心変わりしていた。


 『やはり相公を裏切るわけにはいかない……』


 相房に対する恩を感じてのことではない。田参従来の気の弱さがそうさせたのである。


 『もし景家とその縁の者を匿っていると知られると、田家は破滅する』


 田参は安定を好んだ。泉家から国主の座が相房に移っても田家が存続できたのは、権力に阿ることで安定を得てきたからである。相房の世が乱れてきたとはいえ、一夕一朝にその天下が覆るとは思えなかった。


 『それに蓮子様が近くにおられる……』


 相房の第三子である相蓮子が古沃の近くにいることは先述した。その目的は田家を監視するのではなく、泉国と隣接する伯国を牽制するためである。しかし、『その性格、嗜虐にして残忍』と言われた彼女ならば、田家に疑わしきことがあれば、すぐにでも軍勢を差し向けてくるだろう。


 『寧ろ、わが手で甲元亀達を捕らえ、蓮子様に差し出すべきだろう』


 そう思い立つと田参の行動は素早かった。すぐに手勢を集め、田員達の後を追わせた。




 夜となった。古沃まではまだ距離はあったが、今晩中に到着するために樹弘達は先を急いだ。


 「兄上。暫し止まってください」


 一行の先を行き、古沃周辺の様子を探っていた田碧が戻ってきた。田員は手を上げて樹弘達にも止まるように指示した。


 「どうした?」


 「古沃から父上の手勢がこちらに向かっています」


 「我等の迎え……ではなさそうだな」


 田碧は即座に頷いた。


 「どうした?」


 「甲様。どうやら父上が変心したようです。こちらに兵を向けています」


 「なんと……。近くに身を隠す所は?」


 「ありません。こうなれば私が囮となります。皆様は田碧と供に落ち延びてください」


 「父に歯向かうのですか?」


 と言ったの景朱麗であった。田員の発言が信じられぬと言わんばかりであった。


 「大恩ある泉公と景家を裏切る者を父とは思いません。市井の庶民ならいざ知らず、武人であるならば考よりも忠に生きるべきかと思います」


 では、と田員が剣を抜いて馬を進めようとした。


 「待たれよ、田員殿。私も行こう。お一人では流石に無理であろう」


 景朱麗も剣を抜いてみせた。


 「朱麗様!それはなりません。あなたをここで失うわけにはいきません」


 甲元亀が慌てて景朱麗の乗る馬の前に立ちはだかった。


 「左様です。朱麗様こそ、今の我等の希望。どうか私のことなどお気になさらぬように」


 田員も困惑しながらも、景朱麗を思い止まらせようとした。


 「気持ちは嬉しいが、事を成すのに目の前の艱難辛苦から逃げてなんとしようか」


 景朱麗は少し後に控えていた樹弘に視線を送った。


 「樹君。すまないが、君は付き合ってもらうぞ。君の力が必要だ」


 景朱麗に言われ、樹弘は体が熱くなるのを感じた。人に必要とされる高揚感が樹弘の全身を駆け巡った。ここで死んでも構わぬとさえ思った。


 「喜んで」


 樹弘も剣を掴んだ。


 「姉さん!私も残る!」


 馬車から景黄鈴が飛び出してきた。武闘派の彼女としては一人残されるのがつまらないのだろう。


 「黄鈴。お前は元亀様達と行け。お前がいなくなったら、誰が元亀様と蒼葉を守るんだ?」


 景朱麗にそう言われると、景黄鈴は言葉につまり、素直に馬車に引っ込んだ。


 「田碧。元亀様達を頼む。元亀様、後ほど」


 「うむ。朱麗様、お命だけは大切に」


 「勿論。私にはなさねばならぬことが山ほどありますから」


 「樹弘。朱麗様をしっかりと守ってくれ」


 「はい」


 「では、行くぞ。樹君、私の後に乗れ」


 甲元亀達が逃走する以上、これまで徒歩であった樹弘に新たに馬を与えることはできなかった。樹弘は景朱麗の背中にしがみつくようにして彼女の馬に乗った。


 二頭の馬は古沃の方向へと急いだ。田参の手勢と早く接触し、甲元亀達を逃がす時間を作らなければいけない。樹弘は馬から振り落とされないように必死になって景朱麗の背中にしがみついた。男勝りで男顔負けの体躯をしている景朱麗であったが、実際には柔らかく暖かであった。

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