第18話 上って下ってまた上れ

 懸命にペダルを回すトシヤとマサオの目前に広がる空の下に真っ直ぐに伸びる道が短くなってきた。


――もう少し、アソコまで行きゃぁ、後は下りだ――


 それを心の支えに前に進んだ二人は遂に坂の頂点に到達、視界が開けた。左側は間地石の積まれた山肌に変わり無いが、右手には高い所から見る町の景色が遠くに広がっている。そして目の前には待望の下り坂が一直線に伸び、遥か彼方で左に緩い弧を描き、山の向こうに吸い込まれている。二人は坂を上りきった嬉しさに足を止め、山の景色を楽しんだ。


「どうだ、この達成感。バイクや電チャリじゃあ味わえないぜ」


「ああ、そうだな。ロードバイクってのも中々楽しいモンだな」


 トシヤが言うと、期待通りの言葉がマサオから返って来た。辛い思いをして山を上った者には『ご褒美』として美しい景色と達成感を得る事が出来る。もっとも今朝も峠を上るのに挫折して引き返したトシヤにとっても初めての経験なのだがそれはマサオには秘密だ。


 プリンスをガードレールに立て掛けたマサオはスマホを取り出し、眼下に広がる町をバックに自撮りしようとした時、一本の標識に気付いた。


『下り坂注意 9% 100m』


「急な下り坂が100m続くからスピードが出過ぎない様に注意」という意味の標識なのだが、その標識は走って来た方向とは逆側から見える様に立てられている。つまり二人は9%の上り坂を100m走った訳だ。もちろんその100mの前からアップダウンを繰り返しながら走ってきたのだから初心者の二人がヘロヘロになるのも無理も無い話だ。ちなみにこの『9%』という勾配だが、角度にすると約5度。一見、どうという事は無い坂と思うかもしれないが、F1や八時間耐久オートバイレースで有名な鈴鹿サーキットの一番キツい上りが7.8%である事を考えると、初心者が自転車で上るには『結構キツい坂』だと言えよう。


 一休みしてヘロヘロな状態から息を吹き返したトシヤとマサオはロードバイクに跨ると、ペダルを踏み、下り坂を加速して行った。

 長い下り坂はエアロロードのリアクトの本領を発揮出来るステージだ。ペダルを軽くしか踏んでいないのにも関わらず、サイコンに表示される数字は跳ね上がり、今まで見た事の無い数値を示している。


「うわっ、ロードバイクってこんなスピード出るんだ!」


 道路交通法では自転車は『軽車両』に分類される。という事は、法定速度は指定が無い限り無制限! もちろん一般公道でバカみたいなスピードを出すのは自殺行為だし、他人様にも迷惑だ。トシヤはペダルを止めたが、リアクトは重力に引かれて緩やかに加速を続ける。さすがに少し怖くなりブレーキでスピードを少し落とすと、その横をマサオが抜いて行った。


「おいおい、アイツ大丈夫かよ」


 トシヤが心配したのも束の間、マサオもスピードが出過ぎている事が怖くなったのだろう、ペダルを止めた。


 ジィィィィィィ……というラチェット音と風を切る音だけが静かな山で聞こえる。トシヤのリアクトもマサオのプリンスもホイールを替えている訳では無いのでよく言われる『爆音ラチェット』では無い。

トシヤもマサオも足を止め、休みながら重力に引かれるままに走っているのだが、ここでもプリンスとリアクトの差が顕著に現れた。トシヤの前を走るマサオがどんどん離れて行くのだ。

その一番の理由はホイールに有る。リアクトに付いているホイールはメリダオリジナルの、まあ、値段なりの物なのに対してプリンスに付いているのはイタリアの『フルクラム』の『レーシング5』だ。ちなみにロードバイクのホイールを交換するにあたって『最低でもゾンダ』とよく言われるのだが、この『ゾンダ』はイタリアの名門『カンパニョーロ』のホイールで、『フルクラム』の『レーシング3』と同じレベルのホイールだ。プリンスに付いている『レーシング5』はその下のグレードなのだが、そこはフルクラムのホイールだけあってまあまあ良く回る。その差を詰める為にトシヤがペダルを回した時、道が緩い左カーブに差し掛かった。緩いカーブなのでブレーキをかけるまでも無く、軽やかにカーブをクリアした途端、二人は絶望のどん底に突き落とされた。また長い上りが始まったのだ。


 見る見るうちにスピードは落ち、ペダルを回す足が重くなり、ついさっきまでの高揚感は嘘の様に消え失せた。またハアハア言いながら時速10キロ程度で走行するトシヤとマサオ。


「くそっ、まだ上り有るんじゃねぇかよ」


「ああ、天国と地獄ってヤツだな」


 二人はいつになったら家に帰れるのだろうか?


 奮闘する事約十分、二人は大きな分岐点に到着した。その角には道標が立ててある。


『渋山峠 2キロ』


「よし、こっちだな」


 スマホでルートを確認したマサオが渋山峠に向かう道へとプリンスのフロントタイヤを向けた。マサオは『峠』という文字に不安を感じながらそれに続いてリアクトを走らせた。なにしろトシヤはまだ峠を上りきった事が無いのだ。しかも、ここまで来るまでにかなり足を使ってしまっている。おまけに一緒に走っているのは自分よりも体力の無いマサオなのだ。恐らく、いや、間違い無く二人共死ぬ程の思いをする事になるんだろうな……と。だがまあ、道標によると2キロだという事だし、最悪押して上れば何とかなるかと思い、トシヤは黙々とペダルを回した。


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