灰色の手

「どうして溶けているの?」

 わたしは、その人に訊いてみた。その人は何かを懐かしむように話し出した。

「その日はとても暑い日だったの。近所の犬も舌をだらりと垂らしていたし、池の水も干上がって、鯉の口がパクパク動いていたわ。本当に、とても暑かったの」

「だから溶けたの?」

「そうよ」

 その人はアスファルトの中で微笑んだ。灰色と橙色だいだいいろが混ざり合ったような色をした女の人。髪の先がアスファルトに馴染んでいて、どこまでも髪が広がっているように見えた。髪は真っ黒ではなくて、少し灰色がかっている。

「服は着ていないの?」

「溶けたあと、すぐに服は粉々になってどこかに行ってしまったわ。きっと不必要だったのね」

 わたしは頷いてみたけれど、本当はちっとも意味がわからなかった。服は必要に決まっている。風邪を引いたり汗を吸ったりしてくれるし、何より裸は恥ずかしい。



「暑くて溶けたって言うけれど、今は冬だよ。もう暑くないから溶けなくてもいいんじゃない?」

 そう言うと、その人は目を見開いてわたしを一瞬見上げてから、うつむいた。そうね、そうね、と呟いたあと、もう一度私を見上げる。

「間違えたわ。暑くて溶けたんじゃなくて、寒くて溶けたの。アスファルトの中ってあったかそうだなって考えてたら溶けちゃったの」

「じゃあ、夏になったら溶けるのやめるの?」

 その人は眉間に皺を寄せて、うーんと唸り出した。



 学校からの帰り道。冷たい風を避けるように下を向いて歩いていた。下を向くと風は顔に当たらないけれど、下を向きすぎるとランドセルに風が当たり、前に進みづらくなるような気がする。それでもランドセル歴四年にもなれば、絶妙な角度を見つけることができるのだ。

 角を曲がってもうすぐで家という所で、その人を見つけた。ばっちりと目が合った。どうしてこんな所に人が、と思ったけれど、その人はとても自然に「おかえり」と言うものだから、わたしも当たり前のように「ただいま」と言っていた。そして、そこで何をしているのか訊くと、溶けている、と答えたのだ。



「ごめんなさい。本当のことを言うわ」

 その人はしょんぼりとしながらも、わたしの目をしっかりと見た。

「本当はね、失恋したの。大好きな人に大嫌いだと言われたの。とてつもなく消えてしまいたくなって、本当にこの世界から消えちゃおうって思ったの。でも、できなかった」

「どうして?」

「寂しかったから」

 髪を手でく。灰色がかった髪が、どこまでもどこまでも伸びる。

「私が消えてしまっても、あの人は何も変わらない。毎朝同じ時間に起きて仕事に行くだろうし、夜はテレビを見ながらビールを飲む。休みの日は昼まで寝て、散歩したり本屋に行ったりする。いつもより少し早い時間からまたビールを飲んで、寝て、また起きるの。時々は友だちと会うだろうし、もしかしたら、好きな人ができるかもしれない。何も変わらないのよ」

 その人はシクシクと泣き出した。背中を撫でてあげたかったけれど、その人はアスファルトの中。わたしはアスファルトの外。

「それに気づいた途端、寂しくなったの。何も変わらないなら、それでもいい。でも、側にいたいって思ったの。それで、溶けることにした。地球に溶けてしまえば、あの人がどこにいてもいつも一緒にいられるでしょう?」

 涙を拭きながら、その人はわたしに訊く。わたしは、頷いた。そして、ほら見て、と腕を伸ばす。

「少しずつ灰色になってきているのよ。ちゃんとアスファルトに馴染んできている証拠だと思うの。最終的に地球の色になるんじゃないかな」

「地球の色って何色?」

「わからない。でも、きっと綺麗な色だと思うの。その時には、ぜひ探してみてね」

 すっかり泣き止んだその人が、微笑む。その笑顔はさっきよりも灰色になっていた。

 


 空がすっかりオレンジ色になっていた。早く帰らないとママが心配する。

「気をつけて帰ってね」

 アスファルトの中で、その人は灰色の手をひらひらと振った。わたしも手を振り返し、家へと歩く。その人とまた会いたいと思ったけれど、たぶん会えない方がいい。早く地球に溶けてしまえばいいのに。

 わたしは振り返る。その人はまだ手を振っていた。灰色の手をひらひら、と。いつまでも、ひらひら、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます