第六話 うっとうしいぞ、太陽
私の
スープはしょうゆの濃い茶色と
というわけで。トッピングのチャーシューやコーン、ホウレン草もスープたちに引けを取らない
すると、どこからともなく
そんな感じのイメージでした。ようするに、ものすごい熱気と直接鼻を刺激する強いお酢のようなにおいが、扉を開いた瞬間、私めがけてぶち当たってきたんです。
それはかいだ私が貧血時とよく似た立ちくらみを覚えるほどにひどい空気で、すぐにも私の足は倉庫の外に向こうとしました。でも、どうにもようすがおかしい、確かめなくちゃという一心で思いとどまることができて。おそるおそる、真っ昼間なのに真っ暗な倉庫のなかを、見つめたのです。
そして私が気がつくよりもずっと前から私の存在を知っていたという二人の姿が、じっくり
倉庫を開けるまではっきりと聞こえていた女性の
ただしどう見ても明らかにおかしな光景だったのです。しかし、私は考えないようにしていました。まさか、その中年男性がヨイシさんの父親じゃないだろうか、と。
しばらくして、簡易ベッドに
「ああ、またか……」
その言葉を受けて、私の心は「(もうやめて! たくさんだよ!)」と悲鳴を上げました。事情は何も知りませんでした。その意味も今は、まったくわからなかったんです。でも、私の心は、彼女が悲鳴を上げたくても上げられないことをちゃんと理解していて、代わりに大声で叫んでいました。
二人には聞こえていませんでした。ただ私だけは、からだのあちこちがきしむ音を立てるほどに苦痛に感じていました。
ふと、あるとき、ヨイシさんの顔が揺れるような錯覚を――いや、これは錯覚なんかじゃない。マスクが”
「おいっ、聞いているのか
なぜか怒った表情で怒鳴り散らかす中年男性の顔も、そのとき溶けているように見えました。
私によると、男性はあごのあたりが
またそれはヨイシさんのマスクについても同じでした。彼女も顔の下のほうの
「(
ところが当の本人たちに動揺したようすは見られません。
やがて呼びかけにしらを切り続けた私に、しびれを切らした男性はヨイシさんからはなれて、
「これは
近づいてくる男性の鬼の
ついに男性はその大きな
それはもう
ヨイシさんは沈黙したままでした。
「私、どうしたら……」
「もう、何もかも終わりだよ、ユキ」
どうにかしぼり出したのかその言葉を聞いたあとの私の
「そんな……」
「い、いいから出て行けよ、君は部外者だろっ! 俺の、大切な家庭に、土足で上がって来るんじゃないっ!」
そうですか――どうやらこの人、私とヨイシさんの関係を台無しにしようとしているようです。
せっかくできたばかりの私たち……それは、もしかするとうわっつらだけのものかもしれない、だけどほんの少しだけ、一瞬、迷ったあげくの気持ちでも、私のことをヨイシさんは”友だち”だと――いって、くれてない。
あれ? おかしい。打ち明けられたこともない。私は、もしかして、自分が一方的にヨイシさんの友人になった気になっていたのでしょうか。
だとすれば……それはきっとこの人のせいです。この人がいなければ、ヨイシさんはつらい思いもしないで、普通の女の子としていられたはずなのに。許せない。彼女のやさしさも、他人想いの純粋な心も、高潔さも、何も知らないで。ヨイシさんのお母さんをうばったのは、あなたのほうじゃない!
「ゔああっ!」
私の激情が
男性の左肩には、食器のはずのフォークが突き刺さっていて。
そして私の手には、あるはずもないそのフォークの
と、ここまで詳細に説明できるのも、この時間この場所にあってはいけないくらいの冷静な心もちで私が、男性の肩のケガをまじまじと見つめていたからです。
いっぽう男性の苦しみは想像に
「がっ! くそっ、この
もがいているために力加減のきかない右の手で私の顔を
当然、私は倉庫の頑丈な入口がはずれかけるほどの強さで、背中を打ちつけられました。
でも痛みっていう痛みは不思議なことに感じなかったんです。代わりに男性に威圧されたときよりもっとすさまじい、
「どうだよ、かてるとでも思ったか?」
私は道路に横たわった
「
右肩の骨もなんだか違和感がありました。でもそんなことより、私にフォークで刺された男性のさらなる
「ん、君……女の子だったのか?」
恐らくさっき投げつけられた衝撃で帽子がズれ、
それを見た男性はとてもおどろいたようすで、しかしおどろきとはまた別のよからぬ感情をも抱いているみたいでした。
「そうです、けど」
「抵抗しないのか?」
「…………」
私が的確な答えを考えているとき、上半身ハダカの男性の左肩から、あの目を
こんなの、もう見たくはありません。
「まあいい。へたな正義感なんてもたずに帰っていれば、こんなことには……思い上がりもはなはだしい。君には”わきまえ”というものはないのか?」
『誰にだってひとつやふたつ
”わきまえ”という言葉を聞いた瞬間、男性の声に、先日ヨイシさんがいっていた声が重なり合いました。
こんなにひどい人と、彼女が同じ屋根の下で育った親子だという証拠をまじまじと見せつけられたみたいで、いたたまれない気分でした。同時にこれまでヨイシさんはこんな人のことを一生懸命に
私は「(もしかすると私こそが、間違っているかもしれません。だからこれはただのエゴ、我がままです。共感してもらえなくてもかまいません)」そんな彼女の姿勢が、彼女のためになるわけないと確信していました。
この人はヨイシさんを傷つけて、その原因を全部ヨイシさんに押しつけているだけの、”悪い人”だから――
「私はわきまえません。だって、あなたがヨイシさんを苦しめているのは、わかりきったことじゃないですか!」
「どの口がいう? 部外者のくせして、
「知りたいんです! でもあなたが邪魔で、見えないんですよ」
「だからどの口がっ、この家の邪魔者は君じゃないか!」
「あなたです! ロクでなし! 害虫! ヨイシさんの、女の子としての人生を、台無しにしないでよっ!」
「ううう、いい加減そのうす
顔をしわくちゃにして、からだのすべてを
そして押さえつけた私の両手首なんてどうなっても知らないというふうに
するといきなり左手のかせ、つまり男性が押しつけていた右手が外れました。もうくたくたの私のからだはそこから無理にでも脱出を
「安心しなさい、天国には行かせない。そんなところよりもっと気持ちいい場所へ、いかせてやろう……」
私は声にならないかすれた過呼吸だけ、何度も繰り返しながら、こんなことやめるよう
つらくて、視界をシャットアウトしようとしていた私のまぶたをこじ開けるような、強引で
「(ヨイシさん……ヨイシさん……)」
何度もそう私は
ただ、心の声がふさがった気道から外に出ているのかわかりません。男性が「俺くらいの地位があればなあ、ガキの一人や二人、
――私は結局、どちらかを
私は今でもガスマスクのことを
自分の顔を、一時の友だちとの関係性を、ものごとの
だけど……私の歪んだ性欲を晴らしてくれて、そして私とヨイシさんを引き合わせてくれた存在も、このガスマスクでした。
私が、みなさんが知らないだけで今までヨイシさんの中の何かを救ってきた……そんな大切なものが溶けてなくなってしまうなんて、イヤに決まってるんです。私は彼女も彼女のマスクも助けたいと感じていました。そして、彼女たちの平和を
「(ヨイシさん……ゆうきはあります、勇気を出してっ!)」
ドッ――――。
その音は空耳ではありません。
次に意識がはっきりしたとき、私は息を吸い込みすぎてふくらみみずから
だから
男性は気を失っているみたいでした。首を絞められて、気を失いそうだったのは
私は
「ヨイシさん?」
彼女の手には、見るからにぶっそうなシルエットの道具が握りしめられています。長い柄の先に、細い部分の曲がったたけのこのようなものが取りつけられた恰好で、男性からの暴力ですっかり
立ち尽くして黙り込んでいたヨイシさんは急にふらっと歩き出したと思うと、男性の
その間も男性はぐったりしたまま、脱衣後の着ぐるみのような足の指先も見えなくなったあたりで、さっきの
それから
◆
この世の中に一度死後を体験したことのある人なんていませんから、社会では、殺人以上に罪深いものはないとされています。無論私も賛成です。人同士きずつけ合うことがあっても、命をうばうことは絶対に許されるべきじゃないと思います。
しかし、そこにやむをえない事情があったとしたらどうでしょう? 悪いことにやむをえないも何もないんですけど、私たちの社会には、時として法律主義だけでは説明のつかない出来事やそれまでの
とても幼い、10代にも満たないころから肉体・精神・生まれもった
私や周囲の人たち誰もが知らなかっただけで、ヨイシさんは最初からずっと自分の不幸な
でも現実は悪と善のつばぜり合いで、日に日にヨイシさんの
とうの昔に父親によって散らされた春も、どうがんばったって彼女のもとにもどって来ることはありません。彼女に残された最後の望みは、
殺人がなんだっていうんですか。
ひどいじゃないですか。ヨイシさんが救われる道はどこにもなかったのに。
我慢していればよかった? それは、結果論です。父親の一方的な欲望を果たすために、ヨイシさんの人生が必要だったんですか。そんなわけがありません。彼女はまだ少女なんです。年齢とか容姿じゃありません、心が、
これからなんです。
虐待のために消費された10数年間は、與石 糾巳さんという女の子にとってあんまりにも大きすぎて、今から取り返そう、消してしまおうとしてもきっと無理でしょう。
だから、ここが彼女の
「――だから、どうかお願いします。ヨイシさんは」
私が証言台で話したことは、そんなくだらないことばかりで、
◆
「(ご
およそ殺人事件の判決とは思えない処分を受け、あの日から1か月ほどたって、ついに彼女に会うために、私はあの家へ向かいました。
あと1週間で学校の夏季休業が始まり、私たちは少しおそめの夏休みに入ります。私の学校は私立というのもあって特殊なルールがあり、普段アルバイト禁止なのに長期休業中ならしてもいいよb、むしろ短期でも
しかし、私にはやることがあります。
彼女に会って、新学期のために毎日勉強会を開くんです。そしていっしょに進級してさなっちゃんとカミカミも含めた四人楽しい高校生ライフを送るんだ。この決意はどんな現ナマにだって負けません。たとえ1億円を積まれたって、1時間しかわけてあげないくらい
さて、お宅の門前まで来たわけですけど、
そんな緊張しっぱなしの私の耳に突然、はきはきと、それでいてはかなげな女の子の声が、家の入口のほうから聞こえたんです。
「……うっとうしいぞ、太陽」
はて、なんのことだろうと気になって、またそんな
「ヨイシさん……」
「なっ、ユキ、いたのかよ!」
一見お茶目におどけてみせる彼女でした。
しかし、私はこれが、
―――――
この世界に、知らなくちゃいけないことなんてありません。やらなきゃいけないこともありません。全部がぜんぶ自分の意志で、その重要性が決まっているんです。
今回の事件でヨイシさんはみなさんに、世間に、どんな人として受け取られたでしょう……少なくとも、これで悪いものからいいものに変わったということはないと思います。でも、それでいいんだとも思うんです。たとえば
次回、ヨイシ編最後の晩餐。まるっとおさまる!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます