第六話  うっとうしいぞ、太陽

 私の眼下がんかには、ラーメンがありました。


 スープはしょうゆの濃い茶色ととりガラとが合わさった、それは大昔の化石を込めたコハクのように、太古たいこのたくましい生命と懐かしさを覚えさせてくれるおごそかなかがやきを放っており、なかにただよう極細ストレート麺の金糸とも思える洗練された光沢がそこに加わると、まるで宝石箱や! 

 

 というわけで。トッピングのチャーシューやコーン、ホウレン草もスープたちに引けを取らない魅惑みわく的な装飾そうしょくで、「早くユキちゃんのあったかーい粘膜ねんまくにつつまれたいよぅ」と訴えかけてきます。じゅるりと、音を立てそうな勢いで、私の粘膜がねっとりとした液体に泡立ちました。私も、早くれたいよぅ……


 すると、どこからともなくえてきたゴツいうでが私にことわりもなく、ラーメンにおを垂らしたのです。いえ、まぶしたというほうが適切でしょう。すっかりスープの色は変わってしまいました。たぶん味も(指ぺろりんちょ)。そのとき、ゴツい腕が私の頭のてっぺんをつかんだかと思うと――熱々あつあつのそのうつわのなかに、顔面を押しつけたのです。











そんな感じのイメージでした。ようするに、ものすごい熱気と直接鼻を刺激する強いお酢のようなにおいが、扉を開いた瞬間、私めがけてぶち当たってきたんです。


 それはかいだ私が貧血時とよく似た立ちくらみを覚えるほどにひどい空気で、すぐにも私の足は倉庫の外に向こうとしました。でも、どうにもようすがおかしい、確かめなくちゃという一心で思いとどまることができて。おそるおそる、真っ昼間なのに真っ暗な倉庫のなかを、見つめたのです。


 そして私が気がつくよりもずっと前から私の存在を知っていたというの姿が、じっくり鮮明せんめいになっていきました。


 倉庫を開けるまではっきりと聞こえていた女性のなやましげな声ですけど、今は聞こえません。だから、たぶん二人のいとなみは私によって中断されたんです。全裸のヨイシさんと、上半身裸のヨイシさんにそっくりなせ方をした中年男性との、”愛の営み”は。

 ただしどう見ても明らかにおかしな光景だったのです。しかし、私は考えないようにしていました。まさか、その中年男性がヨイシさんの父親じゃないだろうか、と。


 しばらくして、簡易ベッドに仰向あおむけに寝転んだヨイシさんが、目元を見せたくないかのように左手でさえぎりながら、うっとうしげに、そしてとても悲しそうに、つぶやいたのです。


「ああ、か……」


 その言葉を受けて、私の心は「(もうやめて! たくさんだよ!)」と悲鳴を上げました。事情は何も知りませんでした。その意味も今は、まったくわからなかったんです。でも、私の心は、彼女が悲鳴を上げたくても上げられないことをちゃんと理解していて、代わりに大声で叫んでいました。

 二人には聞こえていませんでした。ただ私だけは、からだのあちこちがきしむ音を立てるほどに苦痛に感じていました。


 ふと、あるとき、ヨイシさんの顔が揺れるような錯覚を――いや、これは錯覚なんかじゃない。マスクが”けてる”? うそ! どうして。私は混乱しました。


「おいっ、聞いているのかきみ!」


 なぜか怒った表情で怒鳴り散らかす中年男性の顔も、そのとき溶けているように見えました。


 私によると、男性はあごのあたりが醜悪しゅうあくにゆがみ、使いかけのろうそくのようになるだけではなく、目の下からほおの線に沿って肉の色のしずくがとろとろ流れていきます。

 またそれはヨイシさんのマスクについても同じでした。彼女も顔の下のほうの崩壊ほうかいもっともひどくて、ホッケーマスクの白色がついに剥がれ落ちたところからは彼女の口元のおそらく本来の形があらわになっていたのです。


「(ふるえてる……ぶるぶる、くちびるをんで……)」

 

 ところが当の本人たちに動揺したようすは見られません。

 やがて呼びかけにしらを切り続けた私に、しびれを切らした男性はヨイシさんからはなれて、恥部ちぶを隠す余裕がないのかそのままの恰好かっこうで、にじり寄ってきました。


「これはおれの故意じゃない。ましてやましい行為でもない。そう……こいつが、このガキが俺のことをハメやがったんだ! くそっ、俺は日ごろ汗かいてこいつの面倒みてやってるというのに、に乗りやがって……」


 近づいてくる男性の鬼の形相ぎょうそうにからだが固まってしまって、私はその場から動きたくても、動くことができないのです。

 ついに男性はその大きな背丈せたけで私の上に影を作ると、私を威圧いあつするように、しかし優越感からなのかぶきみな笑みを浮かべながら「君は見なかったことにして帰ってくれるだけでいい。あとは俺が。こいつには、虚言癖きょげんへきと知的障害がある! だいたい前にもあったんだ。こいつは、こいつのせいで俺とつまは引き剥がされた! おまけに俺は職場から、放蕩娘ほうとうむすめを育てたくだらない人間あつかいだ! いつだって、俺をおとしいれようと画策かくさくしているに違いない、こいつは! なあ、君も、そう思うだろう?」といって迫ってきたんです。


 それはもうみにくくて、臭くて息苦しくて。許せなくて。思わず、私は今もベッドに無残な姿で寝ているのでしょう、目の前のもののせいで見えないはずのヨイシさんに、助けを求めていました。「ヨイシさん……」


 ヨイシさんは沈黙したままでした。


「私、どうしたら……」


「もう、何もかも終わりだよ、ユキ」

 どうにかしぼり出したのかその言葉を聞いたあとの私の胸中きょうちゅうは、死にぞこなった霊魂れいこんとでも会話しているみたいなむなしい気持ちで満たされていました。


「そんな……」


「い、いいから出て行けよ、君は部外者だろっ! 俺の、大切な家庭に、土足で上がって来るんじゃないっ!」


 そうですか――どうやらこの人、私とヨイシさんの関係を台無しにしようとしているようです。


 せっかくできたばかりの私たち……それは、もしかするとうわっつらだけのものかもしれない、だけどほんの少しだけ、一瞬、迷ったあげくの気持ちでも、私のことをヨイシさんは”友だち”だと――いって、くれてない。


 あれ? おかしい。打ち明けられたこともない。私は、もしかして、自分が一方的にヨイシさんの友人になった気になっていたのでしょうか。


 だとすれば……それはきっとこの人のせいです。この人がいなければ、ヨイシさんはつらい思いもしないで、普通の女の子としていられたはずなのに。許せない。彼女のやさしさも、他人想いの純粋な心も、高潔さも、何も知らないで。ヨイシさんのお母さんをうばったのは、あなたのほうじゃない! 



「ゔああっ!」


 私の激情が最高潮さいこうちょうたっしたそのとき、あわてたようすで、男性から小さなうめきが上がりました。


 男性の左肩には、食器のはずのフォークが突き刺さっていて。

 そして私の手には、あるはずもないそのフォークのにぎりしめられていて……なんでしょう。フォークは親子が朝食にとったものでしょうか、肉のあぶらのようなものであらかじめテラテラとかがやいていましたけど、男性のかたに刺さった部分ににじんだ血液やリンパ液と混ざった途端とたん、まるでガソリンみたいにあやしげな透明感あるかがやきへと変貌へんぼうしたのです。

 と、ここまで詳細に説明できるのも、この時間この場所にあってはいけないくらいの冷静な心もちで私が、男性の肩のケガをまじまじと見つめていたからです。


 いっぽう男性の苦しみは想像にかたく、私の目をぬすんで一度上半身をそらせたと思うと、

「がっ! くそっ、この野蛮人やばんじんがあああ!」

 もがいているために力加減のきかない右の手で私の顔をなぐりつけます。「(もはや、この狂言きょうげん回しも、私の意識と乖離かいりした別の何かがおこなっているのかもしれませんね)」


 当然、私は倉庫の頑丈な入口がはずれかけるほどの強さで、背中を打ちつけられました。

 でも痛みっていう痛みは不思議なことに感じなかったんです。代わりに男性に威圧されたときよりもっとすさまじい、金縛かなしばりのような感覚が、私のからだの機能を制限していました。


「どうだよ、かてるとでも思ったか?」


 私は道路に横たわった太枝ふとえだのように無力でした。ぶたれたほおを中心に顔半分は熱をおび巨大化していました。


小僧こぞうのくせによぉ……」


 の骨もなんだか違和感がありました。でもそんなことより、私にフォークで刺された男性のさらなる凶行きょうこうのほうがよっぽどおそろしかったのです。男性は、たおれた私を気遣きづかって一度起こしてくれたかと思うと、そばから倉庫の床にたたきつけ、その上から両手を拘束こうそくしてくような恰好かっこうになりました。


「ん、君……女の子だったのか?」


 恐らくさっき投げつけられた衝撃で帽子がズれ、めていたヘアピンも取れてしまって、私の長い髪はいま床一面にばっと広がっているんだと思います。


 それを見た男性はとてもおどろいたようすで、しかしおどろきとはまた別のをも抱いているみたいでした。


「そうです、けど」


「抵抗しないのか?」


「…………」

 私が的確な答えを考えているとき、上半身ハダカの男性の左肩から、あの目をそむけたくなるよごれた色の液体が、私のれ上がった顔の横にしたたり落ちてきたのです。

 こんなの、もう見たくはありません。


「まあいい。へたな正義感なんてもたずに帰っていれば、こんなことには……思い上がりもはなはだしい。君には”わきまえ”というものはないのか?」


『誰にだってひとつやふたつおおやけにはいえない秘密がある。それをわきまえてるから、あたしら、今まで仲よくやってこれたんじゃないのか』


 ”わきまえ”という言葉を聞いた瞬間、男性の声に、先日ヨイシさんがいっていた声が重なり合いました。

 こんなにひどい人と、彼女が同じ屋根の下で育った親子だという証拠をまじまじと見せつけられたみたいで、いたたまれない気分でした。同時にこれまでヨイシさんはこんな人のことを一生懸命にかばおうとしていたんじゃないかって、そう思えてきて、悲しくもなりました。


 私は「(もしかすると私こそが、間違っているかもしれません。だからこれはただのエゴ、我がままです。共感してもらえなくてもかまいません)」そんな彼女の姿勢が、彼女のためになるわけないと確信していました。

 この人はヨイシさんを傷つけて、その原因を全部ヨイシさんに押しつけているだけの、”悪い人”だから――みとめちゃだめだ!


「私はわきまえません。だって、あなたがヨイシさんを苦しめているのは、わかりきったことじゃないですか!」


「どの口がいう? 部外者のくせして、糾巳ただみを知った気になるな」


「知りたいんです! でもあなたが邪魔で、見えないんですよ」


「だからどの口がっ、この家の邪魔者は君じゃないか!」


「あなたです! ロクでなし! 害虫! ヨイシさんの、女の子としての人生を、台無しにしないでよっ!」


「ううう、いい加減そのうすぎたない口を閉じろっアバズレぇ!」


 顔をしわくちゃにして、からだのすべてをにくしみと怒りに支配されているように見える男性は、とても普通とは思えない身震いをきたしていました。


 そして押さえつけた私の両手首なんてどうなっても知らないというふうににぎりしめるんです。私はたまりませんでした。

 

 するといきなり左手のかせ、つまり男性が押しつけていた右手が外れました。もうくたくたの私のからだはそこから無理にでも脱出をこころみたんです。でも、逃げることはできませんでした。だめなんです。ヨイシさんが心配だから、という余裕綽々よゆうしゃくしゃくとした気持ちのせいではありません。この人が、男性が私の首をめてきたからです。男性は一瞬はなした右手で今度は私の首の中心あたりをつかみました。そしていいます。


「安心しなさい、天国には行かせない。そんなところよりもっと気持ちいい場所へ、いかせてやろう……」


 私は声にならないかすれた過呼吸だけ、何度も繰り返しながら、こんなことやめるよううったえました。しかし男性はさらに左の手を手首からくびうつすことで私にこたえただけではなく、私の首を絞めながら、笑っていました。

 つらくて、視界をシャットアウトしようとしていた私のまぶたをこじ開けるような、強引で独善どくぜん的な男性の人間性がにじみ出た、見るにたえない笑みでした。


「(ヨイシさん……ヨイシさん……)」


 何度もそう私はとなえていました。

 ただ、心の声がふさがった気道から外に出ているのかわかりません。男性が「俺くらいの地位があればなあ、ガキの一人や二人、失踪しっそうしたことにできる。信頼が違うんだ。苦しいだろ? 助けがほしければ俺に歯向かったことを後悔して服従ふくじゅうするんだ。いいな!」そんなことを叫んでるけど、決して助けを求めてヨイシさんの名前を唱えているんじゃないんです。


 ――私は結局、どちらかをえらんでほしいだけなんです、彼女に。


 私は今でもガスマスクのことをうらんでいます。

 自分の顔を、一時の友だちとの関係性を、ものごとの分別ふんべつをこの意味不明な物体は、私からすっかり消してしまったんですから。まちがいなく私が狂った元凶げんきょうです。

 だけど……私の歪んだ性欲を晴らしてくれて、そして私とヨイシさんを引き合わせてくれた存在も、このガスマスクでした。くも悪くも、私の心に救いをもたらそうとしてくれました。ヨイシさんのホッケーマスクだって、きっとおんなじだと思います。


 私が、が知らないだけで今までヨイシさんの中の何かを救ってきた……そんな大切なものが溶けてなくなってしまうなんて、イヤに決まってるんです。私は彼女も彼女のマスクも助けたいと感じていました。そして、彼女たちの平和をおびやかしている元凶はこの人なんだと考えていました。

「(ヨイシさん……ゆうきはあります、勇気を出してっ!)」











 ドッ――――。

 その音は空耳ではありません。

 

 次に意識がはっきりしたとき、私は息を吸い込みすぎてふくらみみずから破裂はれつしてしまうんじゃないか、と心配になるくらい目いっぱいに呼吸していました。ついでに苦しさを全部外に捨てようと目いっぱいに涙があふれてきて、それはもう、前が見えなくなるくらいいっぱいにです。

 

 だから徐々じょじょに視野が正常にもどって来たときようやく、気のせいだろうと思っていた胸の上の重みが、男性の頭が落ちてきたせいだと知りました。「へ……」っていったってわけがわかりません。


 男性は気を失っているみたいでした。首を絞められて、気を失いそうだったのはこっちのほうだっていうのに。

 私はあらためて倉庫内の暗闇を見つめたのです。するとたおれた男性の背後に、肌色の人影がくっきりとあらわれて、剥がれかけのホッケーマスクの下半分からのぞいた口が歯ぎしりしているのが見えてきて、それがベッドから起き上がったヨイシさんの姿だと理解できるまでにさらに数秒かかりました。


「ヨイシさん?」


 彼女の手には、見るからにぶっそうなシルエットの道具が握りしめられています。長い柄の先に、細い部分の曲がったたけのこのようなものが取りつけられた恰好で、男性からの暴力ですっかり憔悴しょうすいしていた私は最初、道具の正体には気づかなかったのです。


 立ち尽くして黙り込んでいたヨイシさんは急にふらっと歩き出したと思うと、男性の白々しらじらとした髪の毛を左手でわしづかみにして、壁がへだてた倉庫の奥へと引きずって行きました。

 その間も男性はぐったりしたまま、脱衣後の着ぐるみのような足の指先も見えなくなったあたりで、さっきのにぶい音にねちゃっという粘着ねんちゃくしつななんともいえない音を混ぜたものが一回、二回、三回聞こえてきて、音がんだころヨイシさんが「ユキ、、呼んでくれ」いやにはきはきといいました。そうだ、ヨイシさんのケータイこわれて、電話できないんだった……しにそうな思考を救急車要請のためにと、しに物狂ものぐるいでつなぎとめた私は自分のスマフォで、119番に電話をかけたのです。


 それから與石よいしの住所と、自分とヨイシさんのケガの状態を伝えました。もう、このとき私の意識はもうろうとしていて、あとになってから、あのときなんといって伝えたのか、正確には覚えていませんでした。


         ◆


 この世の中に一度死後を体験したことのある人なんていませんから、社会では、殺人以上に罪深いものはないとされています。無論私も賛成です。人同士きずつけ合うことがあっても、命をうばうことは絶対に許されるべきじゃないと思います。

 しかし、そこにやむをえない事情があったとしたらどうでしょう? 悪いことにやむをえないも何もないんですけど、私たちの社会には、時として法律主義だけでは説明のつかない出来事やそれまでの紆余曲折うよきょくせつのドラマがあるとも考えられませんか。ようするに……その……


 とても幼い、10代にも満たないころから肉体・精神・生まれもったせい虐待ぎゃくたいによっておとしめられ、手を差しのべてくれる相手もおらず、孤独に何年も耐え続けた女の子が、ささいなきっかけで虐待を加えた父親を殺害してしまったという事件を、ただの”悪いこと”で済ませられるのか、ということです。


 私や周囲の人たち誰もが知らなかっただけで、ヨイシさんは最初からずっと自分の不幸な身上みのうえを知っていました。父親にひどいことをされている意識がありましたし、当初は、母親という自分に楽しいことや嬉しいことを教えてくれて、自分のことをすさんだ世界から守ってくれる存在がいました。


 でも現実は悪と善のつばぜり合いで、日に日にヨイシさんの境遇きょうぐうがいい方向へはいかないことが判然とわかってきて、憎まれっ子は世にはばかって、やがて唯一無二ゆいいつむにのシェルターはくずれ落ち瓦礫がれきの山としてしまったのです。


 とうの昔に父親によって散らされた春も、どうがんばったって彼女のもとにもどって来ることはありません。彼女に残された最後の望みは、こごえた心に、「いつか春は来るよ」となぐさめの言葉をかけ続けることのみ……


 殺人がなんだっていうんですか。

 ひどいじゃないですか。ヨイシさんが救われる道はどこにもなかったのに。

 我慢していればよかった? それは、結果論です。父親の一方的な欲望を果たすために、ヨイシさんの人生が必要だったんですか。そんなわけがありません。彼女はまだ少女なんです。年齢とか容姿じゃありません、心が、はぐくまれた人格が。


 これからなんです。


 虐待のために消費された10数年間は、與石 糾巳さんという女の子にとってあんまりにも大きすぎて、今から取り返そう、消してしまおうとしてもきっと無理でしょう。

 だから、ここが彼女の門出かどでであるべきだと思います。彼女は絶対に殺人犯なんかじゃありません。罪なんて犯していません。彼女は今日はじめて、女の子としての、女性としての一歩をあゆみはじめたばかりなんです。


「――だから、どうかお願いします。ヨイシさんは」


 私が証言台で話したことは、そんなくだらないことばかりで、おおいの向こうのヨイシさんもたぶん、私にあきれていたと思います。でもここに来て、そこに立って、私がいうべきことはそれだけだったのですから、しかたがありませんよね。


         ◆


「(ご都合つごう主義のように思えるけど……)」

 およそ殺人事件の判決とは思えない処分を受け、あの日から1か月ほどたって、ついに彼女に会うために、私はあの家へ向かいました。

 

 あと1週間で学校の夏季休業が始まり、私たちは少しおそめの夏休みに入ります。私の学校は私立というのもあって特殊なルールがあり、普段アルバイト禁止なのに長期休業中ならしてもいいよb、むしろ短期でも就労しゅうろうはするべきbという方針なのです。おかしいですよね? しかも今どき短期のアルバイトで、たいして覚えもよくない学生をやとってくれる職場はなかなかありませんから、学校一帯のバイト求人は夏休み前からほとんど押さえられてしまって、さあ稼ぐぞっという私たちは出鼻でばなをくじかれるわけなのです。しょぼぼん。この電車から見える工場のどれかにつとめたかったんだけどな……


 しかし、私にはやることがあります。

 彼女に会って、新学期のために毎日勉強会を開くんです。そしていっしょに進級してさなっちゃんとカミカミも含めた四人楽しい高校生ライフを送るんだ。この決意はどんな現ナマにだって負けません。たとえ1億円を積まれたって、1時間しかわけてあげないくらい頑丈がんじょうです! 


 さて、お宅の門前まで来たわけですけど、道理どうりで不整脈がおさまりません。足も重たくて「(ちょっと太ったかな? 入院したときコンビニスイーツばくいしちゃったし。次回、新連載『チーケー・オブ・バスク』なんちゃって)」その場からなかなか動けずにいました。


 そんな緊張しっぱなしの私の耳に突然、はきはきと、それでいてはかなげな女の子の声が、家の入口のほうから聞こえたんです。

「……うっとうしいぞ、太陽」

 はて、なんのことだろうと気になって、またそんな痛々いたいたしいフレーズは私が待ち望んだ彼女のものではなさそうだと思ったので、不思議と今までの気持ちを忘れて、私は声のぬしを確認しようと近づきました。


「ヨイシさん……」


「なっ、ユキ、いたのかよ!」


 一見お茶目におどけてみせる彼女でした。

 しかし、私はこれが、平明へいめいでありがちな”感動的な再会”とは思えませんでした。まったくの予想外――ヨイシさんのホッケーマスクが本来の黄っぽい白色と模様もようをそこなって、そこにあるのは、真っ赤な血色ちいろの”仮面”だったんです。






―――――

 この世界に、知らなくちゃいけないことなんてありません。やらなきゃいけないこともありません。全部がぜんぶ自分の意志で、その重要性が決まっているんです。

 今回の事件でヨイシさんはみなさんに、世間に、どんな人として受け取られたでしょう……少なくとも、これで悪いものからいいものに変わったということはないと思います。でも、それでいいんだとも思うんです。たとえば偽善意ぎぜんいで「私だけは、本当のあなたを知ってるわ」といってなだめすかす人よりも、「あなたのことをもっと知りたい」とそういって声をかけてくれる人のほうが、私はそばにいてほしいと感じますから。――ってすみません! 恥ずかしいことをいいました! あああと長くなってごめんなさい、いつまでたっても慣れましぇん!


 次回、ヨイシ編最後の晩餐。まるっとおさまる!

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