1話目 ~懐かしの麦とろご飯~

 仕事のついでにふらっと来ただけなのだが、なぜかこの店に入らなければ……と思った。

 古きよき昭和を思い起こさせる木造の引き戸とすりガラスの前には繩暖簾がかかり、それを越えて引き戸を開けると、カランとカウベルの音が鳴る。

 なんともちぐはぐな組み合わせだ。

 それと同時に、「「いらっしゃいませ」」と奥から声がかかった。

 戸を閉めるとコーヒーの芳醇な香りが漂ってきて、なんだかホッとする。

 店内を見回せば、目の前のレジに中性的な顔で真っ白な髪、赤い目をしている着物を着た人と、左奥のカウンターに肩甲骨まである黒髪を首のうしろでポニーテールにし、左目のところに縦に傷がある男が目に入る。

 どちらも美形だ。

 右目は長い前髪で見えない傷のある男は、シャツの上に首から提げる黒いエプロンをしていた。左胸には白い糸で猫が刺繍してある。

 カウンターのところには三毛猫がいて、青い座布団の上で丸まっていた。

 そんな彼らの前にはカウンター席が五つあり、奥には四人掛けのテーブル席と二人掛けのテーブル席が三つずつ。どうやら喫茶店のようだ。

 その窓際にも白猫と黒猫がいて、三毛猫と同じように丸まっていた。

 なんとも長閑な光景に、商談で疲れ、ギスギスしていた心が和む。

 そして右奥を見ればお菓子がある。いわゆる駄菓子というものなのだが、それらが所狭しと種類ごと籠に入れられていた。

 しかも窓際や壁には野菜や果物、調味料や文房具、鍋などまで置いてあるではないか。


 ――喫茶店ではないのだろうか。それとも、イートインがあるスーパーか?


 スーパーにしては小さすぎる……と疑問に思ったものの、店内には自分以外誰もいないため、彼らがいるほうへと歩く。


「お一人様でよろしいですか?」

「はい」


 男物の着物を着ていることから白髪の人を男性だと思っていたが、声の柔らかさから女性だということがわかる。だが、女性にしてはいささか声が低い。


 ――男なのだろうか? 女なのだろうか?


 そんなことを悩んでいるとカウンター席に案内されたので、素直に座る。同時に傷のある男が外に出てきて、おしぼりと水、メニューも一緒に出された。


「ちょうどランチの時間なんです。軽食だけではなくケーキも扱っておりますので、もし食べたければ仰ってください」

「ありがとう」


 メニューを開くと、中には写真と料理の名前が書かれていた。どれもが美味しそうで、なにを食べようかと悩む。

 しかも、パスタに至っては麺の細さや形が選べるようになっていて、レストランなのか? と首を傾げてしまう。


 ――悩んでいても仕方がないか。


 他にもないのかと別のページを見れば、心惹かれるセットメニューがあった。


〝 麦とろご飯 日替わりの味噌汁と自家製の漬物、緑茶付き 〟


「麦とろご飯、か……」


 そういえばここ三十年は食べていない。他にも単品で頼めることができるようで、サイドメニューもそれなりにある。その中に麦とろご飯のみもあった。

 麦とろを食べるなら山かけも食べたいと探してみれば、それもある。それに歓喜しつつ、同時に溜息も出てしまう。

 妻はこういった純粋な和食を作るのが苦手らしく、滅多なことでは食卓に上がることがない。しかも、たまに出たとしても、まさに〝メシマズ〟なのだ。

 普段の料理でさえそれほど美味いというわけでもないのに、和食だともっとメシマズになるという不思議。

 昔はもっと上手だったような気がするが、もしかしたら俺の味覚が変わったのかもしれないと、つい、また溜息が出てしまう。

 子ども二人は成人し、春には一番下が就職をして家を出た。

 俺もそろそろ定年が近くなってきている。

 今さら仕事を変えようにも、五十も半ばを過ぎたおっさんに、何ができるのだろう?

 趣味でもあればいいが、これといった趣味もない。仕事一筋といえば聞こえはいいが、結局はつまらない男なのだ、俺は。


「ご注文はお決まりですか?」

「これは申し訳ない。麦とろご飯のセットと山かけ、食後にアイスコーヒーを」

「かしこまりました」


 あれこれ悩んでいると、傷のある男が注文を取りにきた。どうも深く思考を巡らせていたようで、かなりの時間がたってしまったようだ。

 申し訳なく思い、すぐに心惹かれたとろろ系のものを頼むと、笑顔で受けてくれる男にホッとする。

 スマホをいじりつつ待っていると、すぐに料理が運ばれてくる。

 ほかほかと湯気がたっている麦ご飯と、豆腐とわかめの味噌汁。

 自家製の漬物はかぶときゅうりだ。匂いを嗅ぐ限り、糠漬けのようである。

 糠漬けを食べるのも、ずいぶんと久しぶりだった。


「ごゆっくり」


 男は笑みを浮かべ、すぐに離れていった。

 それを待っていただきますと手を合わせる。

 とろろにはうずら卵がのり、そこにわさびと醤油、針海苔を入れて混ぜ、麦ご飯にかけた。

 とろっとしたとろろの中に、わざとなのかみじん切りにしてあるとろろが入っている。その部分と一緒に麦ご飯も箸で掴み、口の中へ。

 海苔から磯の香りと味、わさびの辛さ、少しだけ硬い麦ご飯。時折、四角いとろろが歯に当たり、しゃきしゃきとした食感も楽しめる。

 そしてとろろから土の香りがして、とても懐かしくなる。

 それは母が作ってくれたものと同じ味だったから。


 ――そうか、俺はこの味が食べたかったんだ。


 懐かしい母の味に飢えていた。

 成人してすぐ、過労で亡くなった母。俺を高校や大学に行かせるために、無理が祟ったとしか思えなかった。

 父の顔を知らず、母一人子一人で長年を過ごしてきたのだ。

 どうして父がいないのかと、幼い頃母に聞いた。だが、母はとても困った顔をして、「お父さんは死んだのよ」と言うばかり。

 だが、テレビに出たとある政治家の顔を見てとても哀しい顔をする母に、あとになって愛人だったか捨てられたかしたんだろうと思った。

 結局は母が身を引いただけだと、随分あとになって知ったが。

 それに自分の顔を鏡で見ると、全部ではないにしろ、確かにその政治家に似ている部分がある。

 大きくなるにつれてそれが顕著になっていけば、自ずとわかるというものだ。


 母が亡くなってから一度、その男が来たことがあった。母が亡くなったことを知らなかったのか、愕然とした顔をしていた。

 そして仏壇の前で語ったのは、母との思い出だ。

 その政治家と母はお互いに愛し合っていた。結婚の約束もし、準備もしていた。

 だが、政治家の息子だったが故に勝手に婚約者を据えられ、それを人伝てか彼の父親に追い払われたのかは知らないが、母は自ら男の元を離れていったという。

 それからずっと母を捜していたと。

 自分が生まれてくるのを楽しみにしていたと。


 今さら……とその時は思った、まだ二十六の若造だった自分。母の苦労を知っている分、どこかで反発する心もあったのだろう。

 ただ一言、「俺に父はいません」と、それだけを伝えた。


「そうか……。なにか困ったことがあったら、連絡してきなさい。相談にのろう」

「ありがとうございます」


 名刺を渡されて、それだけを伝えてから仏壇から離れた政治家の男。

 諦めたようなその顔に、なんだか自分の顔を見ているようで、胸が締め付けられたのを覚えている。

 もちろん名刺は捨てたし、相談にのってもらうこともしなかった。

 ――しようとも思わなかったのだ、俺の親は母だけだからと考えて。


 もしもあの時、政治家の男が母をすぐに見つけることができていたら。

 もしも母が父から離れることなく、政治家の父と喧嘩していたら。


 その〝もしも〟が何度も頭をめぐった、二十六の夜。


 今になってそのことを思い出すなんて――と小さく溜息をついたが、今さら言ったところで詮無きことだ。

 小さく頭を振ると、冷めないうちにとまたご飯を食べる。一口食べるごとになにかが変わっていくようだった。

 まるで、今までのことは不幸な夢だったとでもいうように。

 それを不思議に思いつつもご飯を食べ終えると席を立ち、レジに向かう。

 よく見れば着物の胸のあたりが膨らんでいることから、白髪の中性的な人は女性であるとわかったが、どうして男性用の着物を着ているのだろうか。

 しかも、本人は「アルビノなんですよ~」と、なんでもないことのように笑みを浮かべている。


「ずいぶんお悩みのようですが、この店に入れたんです。きっとその悩みは解決しますよ」

「え……?」


 金を払っていると、その女性に声をかけられた。にこにこと優しげな笑みを浮かべているだけで、首を傾げてもそれ以上何も話してはくれない。

 だが、ホッとするような、家に帰ってきて出迎えた母のような、優しい笑みだった。


「またいらしてくださいね。今度はご家族と一緒に。一回だけなら、利用することを許可しますから。ただし、レシートがないとここには来れません」

「あ、ああ。ありがとう。そうさせてもらうよ」


 とても不思議なことを言うなあと思いつつ、おつりをもらって店の外に出る。

 繩暖簾を潜り、ずいぶん不思議な店だったと振り返ってみれば、そこには店どころか大きな屋敷すらもなく、ただただ鬱蒼とした木々が生い茂っているだけだった。


「…………え? 確かに、飯を食べたのに……」


 慌てて財布に入れたレシートを見る。確かにレシートがあった。

 なのに、店や屋敷だけがない。

 いったい何だったのかと……まるで狐につままれたようだとしばらく呆然としていたが、これからまた別の商談に行かなければならないからと歩きだす。

 そして不思議なことに、一歩歩くごとに自分が若返っているように感じた。そんなことはないと首を振るものの、小路が終わる頃には着ていたスーツが別のものに変わり、自分の視線がかなり低いことで混乱し、思わず泣きそうになる。

 そこに、今はもういないはずの、母の声がした。


「あらあら、ここにいたのね。ずいぶん探したわ。お父さーん! ここにいましたよー!」

「ああ、よかった! またクソ親父に連れていかれたのかと……っ!」

「え……?」


 見上げた先にいたのは、若い母と若い政治家の男。そしてそれと同時に、入り込んでくる。


 ――ああ、そうだ。父は家を出てサラリーマンになったんだ、政治家になりたくないからと。そして母を排除しようとしたのがバレて、祖父と大喧嘩して縁を切った。


 娘が二人いたが息子は父だけだからと、どうしても政治家にしたかった祖父。自分の地位を盤若にするため、勝手に婚約者を宛がったことで父を激怒させた。

 そして俺は一度、無理矢理祖父に連れて行かれてしまい、余計に両親と祖母を怒らせたのは最近の話だ。

 祖母も夫の所業に呆れ、連れてこられた俺を連れて両親のところにくるとすぐに離婚し、両親と一緒に暮らしはじめた。そして今も、四人暮らしだ。

 いや、もうじきもう一人増えるから、五人暮らしになるのだろう。


 前とは違う記憶、だけど、これが〝本当だ〟とわかる記憶。


 きっとあれは長い長い夢だったんだと、日々の生活の中でどんどん忘れていった――レシートのこと以外は。


 そして二十年後。


「「いらっしゃいませ」」


 夢で見たはずの人が、あの時と変わらない姿でカウンターの奥にいる。

 一瞬そう思ったものの、きっとな何かの間違いだと首を振る。


「七人なんですけど、いいですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。こちらにどうぞ」


 左目のところに傷がある男に席を案内された。帰りに駄菓子を買って行こうと決める。

 祖母と両親、俺と婚約者、そして弟妹二人、みんなして彼のあとについていく。

 もうじき結婚する俺。だが、隣にいる妻となる女性は、記憶の中にあった女性ではない。


 ――あれはやっぱり悪夢だったんだ。


 ふと蘇った記憶に、なぜかそう思った。


「幸せですか?」

「とても幸せです」


 笑みを浮かべた男に声をかけられた。するすると出てきた言葉は、その言葉。

 俺はとても幸せな時間を送ってきた。それはきっと、この店に来たからだと思っている。

 あれは夢であって夢じゃない――そう思えた出来事だった。


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