第18話 全てを奪われし女・アリスの事情〜過去よりも今、そして未来へと…

 * * *



 リオに散々睨まれながらアリスとともにアパートを出発した俺は、環状道路を渡ったところにある公園に行くことにした。


 一昨日までの寒さが嘘のように暖かな日差しが降り注いでいる。

 アリスは初めて会ったときから着ていた異世界の衣装姿で、その上から男物のコートを羽織っている。


 今は俺の後ろを付かず離れず歩いているが、すれ違う人々は誰も彼もがギョッとした様子で俺達を――正確にはアリスを見て固まっていた。


 どこか思いつめた表情でしずしずと歩を進める彼女は、正直言ってそこだけ切り取ってみれば一枚の絵画か、さもなくば映画のワンシーンと見紛うほどの美貌である。


 そんなアリスを目撃する者は男女とも同じように足を止め、同じように呆然とし、そして同じタイミングで正気に返って、何度も振り返りながら通り過ぎていく。


「え、なに?」「すごく綺麗」「外人?」「何かの撮影?」「あの男の彼女?」「どんな関係なんだあのふたり?」などなど。きっとそんなことを考えているのだろう。口には出さずとも表情を見れば察しがつく。何故なら俺もそうだからだ。


 しかし、それとは別に、アリスと一緒に歩いてみてわかったことがひとつある。それは歩行速度を合わせるのがなかなか大変ということだ。普通の速度ではもちろん、ゆっくりめに歩いてもアリスを置いてきぼりにしてしまう。芽依と一緒のときはこんなことはなかった。決定的に運動能力が違うのだと思う。


 いつもの倍以上の時間をかけて公園へ向かう途中、清涼飲料水のベンダーを見つける。その前で足を止めると、アリスもまた足を止めた。彼女はキョトンとした顔で俺と眼の前の大きな箱――自動販売機を交互に見ている。


「これは飲み物を買う販売機。これはこの世界の硬貨。はい」


 ポケットから取り出したコインを突然渡され、アリスはしきりに目をぱちくりさせていた。そして「え、私が買うのですか?」と問いかけてきた。


「当たり前だろ。自分で飲む分なんだから」


「でも私、買い物などしたことはありません」


 そんな馬鹿なと思ったが、相手はお姫様だったのだ。家臣のものたちが生活の世話をしていたら、そりゃあ市井で買い物をする機会などなかっただろう。


「じゃあアリスの初めての買い物は自販機の飲み物だな。そのコインをここの隙間に入れて」


 硬貨投入口を指差すと、ぐぐっと顔を近づけて観察し、自分の手の中にある丸いコインとを見比べる。人差し指と親指でつまむと、それを垂直にしたり水平にしたりしながら恐る恐る俺を見る。


「うん、横にして、そこに少し入れたら指をそっと離す。上級者は指の腹で押しながら入れるけど」


「え、え!?」


「ごめん嘘。そっと離して」


「は、はい……そっと離す」


 チャリンと投入口に吸い込まれていく百円玉。だがもちろんそれだけでは金額不足だ。


「なにも起こりません」


「もう一枚入れて」


 アリスは自分の手に余っていた百円を投入する。


「あ」


 購入可能状態になった途端、自販機の各ボタンが点灯する。アリスはそっと身体を引き、上から下までつぶさに自販機を観察した。


「今投入したのは200円。ここに並んでる飲み物ならどれでもひとつ、買うことができる。好きなボタンを押してごらん」


「どれでも……ということは自分の飲みたいものを買うのですね。伊織様、これは?」


「それはコーラだね。シュワシュワしてるからアリスには合わないかも」


 ちなみに芽依が苦手な飲み物だ。味は好きだが炭酸がダメらしい。どうしても飲みたいときはコップに注いで冷蔵庫に放置して炭酸を抜いてから飲んでいる。


「シュワシュワ……発酵したお酒なのでしょうか」


「いやお酒ではないけど、まあ似たようなものかな」


 炭酸ガスを注入してると言っても伝わるまい。こういうのもおいおい教えていかないと。


「ほら、初めて顔を会わせた夜、ファミレスでさ……ってそういえばキミはずっと寝てたんだったな」


 みんなにドリンクバーの使い方を教えたときのことだ。

 確かメリアは紅茶でティアはコーヒー、リオはく●モンの健康茶だったか。


「あー、それじゃあ普段アリスはどんなものを飲んでいたんだ?」


「私は、お茶をよく飲んでいました」


 この中のラインナップでは冷たい無糖紅茶かホットのミルクティーしか選択肢がないな。じゃあここを押してというと、アリスはそーっと形のいい指先でボタンを押した。


「きゃっ!?」


 ガコン、と飲み物が落ちてきた音に驚くアリス。俺は取り出し口からミルクティーのペットボトルを拾い上げて「はい」と渡す。ついでおつりも回収する。


「あ、ありがとうございます。温かいのですね……」


 アリスは男物のコートの袖口から指先だけ出して、両手でボトルを包み込んだ。ホッとした顔を見せたのも一瞬だけ。キッとした目で自販機の方を睨む。


「それにしてもなっていませんね。お金を支払った客に対して乱暴に商品を落とすとは。中の者は一体どんな教育を受けているのでしょう」


 やべえ、超かわいい。

 不満を漏らすアリスがツボに入ってしまった。

 俺は顔を反らして肩を震わせる。


「伊織様?」


「いや、なんでもない」


 今教えなくてもいずれ気づくときがくるだろう。その時になったらひとりで恥ずかしがるがいいさ。俺は冷たい緑茶をササッと買うと再び歩き出したのだった。


 *


 環状線を跨いで住宅街を少し抜けると、大きな坂がある。坂の下には東十王寺駅があり、十王寺駅とは海抜で差があるため違う路線が走っている。東十王寺駅の隣が十王寺駅だろう、なんてザル勘定で電車に乗ると全然違う駅についてしまうから要注意なのだ。


 そしてここ十王寺公園は台地の崖地を活かした高低差のある公園になっている。今俺たちが立っている場所が台地のてっぺんで、坂になっている遊歩道を降りていくと長い滑り台や人工渓流などがある。


 時刻は16時を少し過ぎたばかり。園内にヒトはまばらだ。それでも子どもたちの遊ぶ声や、遊歩道には家族連れの姿がある。


「とても立派な憩いの場ですね。こちらを利用するのになにか特別な資格が必要なのでしょうか……」


「まさか。誰でも使えるよ。なにかよほど迷惑なことをしない限りは」


 園内はぐるっと一周できるようになっている。台地の下は遊具があるのでとてもヒトが集まりやすい。俺はそれとは反対側、あまり人気のない東屋の方へと足を向けた。


「素敵ですね、この世界は。民が圧政に苦しむことなく、あんなに楽しそうにして……。私の国とは大違い」


 東屋には簡易のベンチがあって、そこに俺が腰掛けると、アリスはちょっと躊躇っている様子が見えた。ああ、なるほど。


「どうぞお姫様」


 持っててよかったハンカチーフ。懐で温めていたそれをベンチに敷くと、俺は立ち上がり、気取った仕草で手を差し出した。


「ご苦労」


 アリスもまたクスッと笑いながら俺に付き合ってくれる。俺に手を取られながら優雅に腰を下ろす姿は、確かにお姫様なのだと実感せざるを得ない。


 お互い隣り合って座りながら、俺は彼女からミルクティーのペットボトルを受け取り、ブキっとキャップを開ける。それを笑顔で受け取ったアリスがそっと唇をつけ、音もなく静かに飲み下す。すぐ目と鼻の先で、白い喉が小さく動いた。


「あの時は、大変申し訳ありませんでした」


 ほうっと甘い吐息をついたアリスの第一声は謝罪だった。


「あの時って……」


「伊織様の寝所に忍び込み、端なくも寝屋を共にしたあの夜のことです」


 なにやら雅で古風な言い方だが、要するに夜這いをしてきた日のことだ。俺はぐっすりと眠り込んでしまって、まったく当時のことを覚えてはいない。


「覚えてらっしゃらないのも当然です。伊織様は私が部屋に入っても、布団を捲っても、隣に横になっても、お鼻を摘んでも起きませんでしたから」


「鼻? 本当?」


「最後のは冗談です」


 そう言ってアリスはクスクスと笑った。

 口元に手を当て、静かに肩を揺すっている。

 そうしていると本当に年相応と言うか、こんな可愛い子が現実にいるなんてウソみたいだ、と思ってしまう。


「誓って、あなた様は一切私に手を出してはおりません。寝ている間に温もりを求めて、私を抱きしめてくださいましたがそれだけです。やましい処など何もありませんでした」


「それはそれで驚愕の事実なんだけど……」


 そういえば芽依に起こされる直前、とてもいい気分で寝ていたような……。こんな子(しかも裸)を抱きしめて眠れたならそりゃあ夢心地だったろう。


「それなのに私は私の一方的な都合で、あなた様を利用しました。同衾し、事後であるように見せかけ、あわよくばそれを既成事実化しようとしました。女として、いえ、ヒトとして恥ずべき行為です。大変申し訳ありませんでした」


 アリスは身体をグイッと寄せると、真摯に俺の瞳を覗き込みながら頭を下げてきた。お姫様が頭を下げてまで謝るのだ。本当に心の底から反省しているのだと知れた。


「うん、わかった。でも、どうしてそんなことをしたのか、と聞いてもいいかな」


「はい……」


 アリスの表情が強張り、沈んだものになっていく。

 確かにそれは触れてほしくないことなのだろう。

 一瞬俺は、このまま謝罪だけを受け入れて、彼女とふたりアパートに帰ろうかとも思った。


 メリアとリオ、ティア、そして芽依にはすべてが誤解であったことを伝えて、アリスが俺の布団に忍び込んできたのは、冗談の一種であったとか、そんな適当なことを言って誤魔化してしまおうと思った。


 だが、それでは解決しない。アリスが抱えている問題は何一つ解決せず、みんなに対して嘘をつくことになってしまう。


 家族みたいになりたいんだ、などと言った俺が、彼女たちの問題に正面から向き合わないでどうするんだ。受け止めると、責任を取ると誓ったはずだろうに。


「リオさんは気づいていたようです。ティアさんも先程の会話で察したかも……伊織様もおそらくは」


 俺は答えず、ただ彼女の言葉を待った。

 アリスはもう何度も視線を彷徨わせ、口を開いたり閉じたりをしている。

 彼女の告白はそれくらい重いものなのだ。

 そしてとうとう、途切れ途切れのか細い声で、アリスは言った。


「私、アリス・エル・エブロスは……純血ではないのです。この身はもう……穢れてしまっているのです」


 夕日に照らされたアリスは、今にも消えてしまいそうなほど儚いものに見えた。


 *


「事実上、エブロス領は――私のせいで滅んだと言っても過言ではありません」


 日が傾きつつある公園の東屋で、アリスは驚くべき言葉を口にした。

 自身が純血――つまりは処女ではないのだと。

 俺には想像することしかできないが、彼女がいた世界ではとてもとても重い罪なのだろう。

 未婚の女性が婚姻相手以外と密通してしまうことは。


「私は人類種ヒト種族の侯爵家の一人娘として生を受けました。伊織様にはわからないかもしれませんが、王都ラザフォードのオットー・ハーン・エウドクソス14世の覚えも明るい大変な家柄だったのです」


 うん、確かに全然わからない。

 でも相当に高貴な家柄であったということだけはわかる。


「強く逞しい父と、聡明で美しい母。自慢の両親でした。ですが母が流行病で亡くなってしまってからすべてが狂っていったのです……」


 東屋には遠くから子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。

 だがその声も、帰宅を促す17時のチャイムにかき消される。

 物悲しいメロディが終わるのを待ってからアリスは再び話し始めた――


 *


 アリス・エル・エブロス。

 魔法世界マクマティカはプリンキピア大陸人類種領。

 ヒト種族最大の国家、王都ラザフォード。

 オットー・ハーン・エウドクソス14世の治世で栄華を極める反面、エブロス王の治める侯爵領は衰退の一途を辿っていった。


 その原因は王妃の死を発端とする王の心労によるもの。

 愛する者の死に耐えきれずアリスの父、エブロス侯爵は次第に心を病んでいった。とても人前に出せる精神状態ではないとして屋敷内に隔離されてしまったという。


「そして、父の代わりに政務を行うべく派遣されてきた代行官は人類種神聖教会アークマインの神官様でした」


 アリスは教えてくれる。

 人類種神聖教会アークマインとは、王都に迫る繁栄を誇った宗教国家の国教であり、ヒト種族以外の他種族排斥を謳っていた宗教だと。


 人類種神聖教会アークマインの神官がアリスの父の名の下に政務を務めるようになると、たちまち重税を敷き、民たちを苦しめるようになっていった。不満は内外に積もり積もって爆発寸前だったと。


「代官はやりたい放題でした。どんなに悪政を行っても、全てはエブロス王のご意思だと言って父に全ての罪をなすりつけました。そしてそんなことが許されてしまうほど当時の人類種神聖教会アークマインというのは常軌を逸して民衆から支持を得ていたのです」


 どうか、どうか今は耐えてほしい。この苦しみは一時のもの。必ずやエブロス王を改心させてみせる。人類種神聖教会アークマインの名に誓って。代官はそう言ってエブロスの領地から富を吸い上げ、せっせと利益を本国に送金していたのだという。


 そうして民衆から憎悪を向けられたエブロス家は、ひとり、またひとりと家臣が離れていき、最後はアリス自身が病んだ父親の看病をするようになっていく。そして悲劇が起こった。


「父の心は壊れていました。成長した私と亡くなった母との見分けがつかなくなるほどに……」


「え……、それじゃまさか……!?」


 なんてことだ。

 アリスの純血を奪ったのは、アリスを妻と見紛った実の父によるものだったのか。そんな驚愕の事実がアリスに隠されているとは思いもよらず、俺は言葉を失っていた。


「ふふ……ふふふ」


 俺が絶句していると、アリスは笑った。

 今の話のどこに笑える要素があるというのだろう。


「ごめんなさい、思い出してしまったらおかしくて」


「お、思い出すって、な、何を……?」


 恐る恐る、問いかける。

 言葉を選びすぎて舌が回らない。

 他人を理解することはこんなにも難しい。怖い。

 でも今引くわけにはいかない。


「だって、小さい頃はあんなに大きくて逞しくて、まるで世界すべてと言っても過言ではなかった父が、あんなに痩せこけた腕で私を抱きしめて、みっともなく涙を流しながら母の名前を呼ぶんです……。もう私、それだけでたまらなくなってしまって」


 勝手に病んで、勝手に壊れて。

 あなたが呆けている間に伝統あるエブロス領はもうメチャクチャ。

 いいように利用され、全ての罪を背負わされて。

 挙句の果てに淑女として最も守らなければならない純血さえも散らされて。


 アリスが笑ったのはきっとそんな何もかもに疲れてしまったから。

 かつては太陽のように燦然と輝いていた王は、ただの心の弱いヒトで。

 そして外からやってきた為政者に全てを奪われてしまった。


「翌朝、父は自害していました。私に対する贖罪のつもりだったのか、改めて母がもうこの世にいないことに絶望したのかはわかりませんが」


 エブロス王崩御の報は全く話題にもならなかった。

 何故ならそれから間もなく聖都が滅亡してしまったからだ。


 滅亡の理由は諸説あり、たった一人の魔族種によるものであるとか、教皇クリストファー・ペトラギウスを裏で操っていた者の仕業であるとか、四大精霊の怒りに触れたなどなど。未だにハッキリとはしていないのだという。


 とにかく人類種神聖教会アークマインは速やかに衰退し、民衆からの支持を失い、そうしてようやく代官の悪事が明るみになり、本国――王都が介入してきたのだという。


「私も本来ならば侯爵家の子女として、自国領を守れなかった罪を被り処刑されるはずでした。ですがそれだけは恩赦が与えられました。オットー14世のご息女、レイリィ王女殿下の口添えがあったと聞いています」


 だがその代わりに伝統あるエブロス侯爵家は取り潰し。

 領地は接収され、分割して王都によって統治されることとなった。

 アリスはもうお姫様でもなんでもなく、生きていく術を何も持たない、世間知らずの女の子。

 どこかの貴族や富豪の妾になろうにも、曰く付きの元侯爵家令嬢など誰ももらってはくれない。


「そんな折、私の前に魔族種根源貴族を名乗るお方とアキヅキ様が現れました。違う世界で一から人生をやり直してみないか、と。特に行く宛もなかった私は、その誘いに乗ったのです」


 それが彼女が異世界嫁になった経緯のすべてだった。

 滅亡したエブロス領に、俺の寄附した金がどう役立ったのかはまったくわからないが、第七特殊地域のコーディネーター秋月さんと、そしてメリアも口にしていた根源貴族という男が関わっているらしい。


 それにしても、とてつもない話だと思った。

 今更ながら彼女が地球とはまったく異なる世界――異世界の住人なのだと思い知らされた。


 正直あまりにも重すぎる話に、俺は何も言えずにいた。

 だってそうだろう。この日本で20年間何不自由なく暮らしてきただけの俺が、今の壮大な話のどこにモノを言えるというのか。


「私が伊織様の寝所にお邪魔したのは、すべては保身のため。いずれ夜伽を仰せつかる時、この身の不義が露見することを恐れたからです」


 アリスは無言の俺を見て、フッと寂しそうに笑った。


「ですがそれももうおしまいですね。この身体はどうしようもないほど穢れてしまっています。伊織様も私のような端女には興味が失せたでしょう」


 いや、いやいやいや……。

 この子はなにを言ってるんだ。


「ご心配には及びません……。幸いにしてこの世界は豊かで、仕事には困らなさそうです。もっとも私のような無能な女が活かせるものと言えばこの肉体くらいのものなのですが」


 やめろ。

 それ以上口を開くな。


「この憩いの場に来るまでの間、遠慮ない殿方の視線を感じました。であればまだ望みはあります。結局はどなたかの情婦になるしかないでしょうが、決してあなた様にはご迷惑にならない、どこか遠い場所に参りますので――」


「黙れ。もういい」


 もういいから。


「はい? 何がでしょうか?」


「そんな風に泣きながら自分を傷つけるな」


「え」


 本当に今気づいたというように、アリスが自分の顔に触れる。

 決壊した涙が一筋、頬を伝っていた。


「申し訳、ありません……卑怯ですね、私は」


 おそらく、ずっと涙を見せまいと我慢し続けていたのだろう。

 でもそれも限界だったのだ。


 一度壊れてしまった心の防波堤は、もう二度とは戻らない。

 氷のようだったアリスの頬に赤みが差し、熱い涙が次から次へと溢れてくる。


「う、あ……、どうか放っておいてくださいまし。す、すぐにおち、落ち着き、ますので……」


 両手で顔を覆い、アリスは懸命に泣くのをこらえようとする。

 でも、そんなことは全然無駄で。我慢しようとするたびに噎せてを繰り返している。


 限界といえば、俺も同じだった。

 もうこれ以上、目の前の女の子が泣いているのを放ってはおけなかった。


「アリス。嫌だったら抵抗しろよ」


 そっと肩に手を回して抱き寄せる。

 ひどい目に遭って、もしかしたらこういうことに嫌悪感があるかもしれない。

 でもアリスは、迷うことなく俺にもたれかかってきた。


 羽ばたくのに疲れた小鳥が休める枝葉を見つけたような。

 まるで縋り付くように俺の胸に顔を埋める。

 それでもまだ声を抑えようとするので、俺は優しく囁いた。


「いいよ、思いっきり泣いちゃいなよ。誰に見られてもいいさ」


 ビクン、とアリスの肩が震えた。

「あ、あああ……!」と声が上がる。

 彼女の頭を優しく撫でると、火がついたように泣き始めた。


 まばらに残っていた公園の利用者が遠目に俺たちを見ている。

 でもそんなことなど気にならない。

 アリスは俺の服をも握りしめると、全身の力を使って泣いて泣いて泣いた。


 抱いた肩や頭が着火したように熱くなった。

 触れた部位の全てが燃えているようだ。


 きっとこの子はずっと泣けていなかったのだ。

 次から次へと不幸が襲いかかり、親しいものは誰もいなく、心許せる環境もなくなってしまった。


 彼女の身の上に、俺ごときが同情するなどおこがましい。

 ならこうして胸を貸すことくらいしかできることはない。

 泣きじゃくるアリスの頭を撫で続けてやるしかない。


 日も沈み、完全に夜の帳が降ちてもなお、俺は赤ん坊にするようにアリスをあやしてやるのだった。


 *


 辺りは真っ暗だった。

 公園の外れにある東屋に、すんすんと鼻を啜る音が響く。


「も、申し訳……」


「ほらティッシュ」


「は、え?」


「鼻かんでみ?」


 俺の胸から顔を上げたアリスは、案の定酷い顔だった。

 もしかして十年分くらいないたのではないだろうか。

 目は真っ赤に腫れ、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。

 もちろん俺の服もたっぷりアリス汁を吸っていた。


「なんだなんだ、お姫様は自分で鼻もかめないのか?」


「そ、そんなことはありません……ひとりでもできます」


 俺からポケットティッシュを受け取ったアリスは、封を破ってないそれを見て、まるごと鼻に押し付けようとする。


「馬鹿か。ポケットティッシュも知らないでよくひとりで生きていくなんて言えたな。貸してみろよ」


「な、なにを。今はまだこの世界の常識を知らないだけで」


 俺はパリッと封を破ると取り出した一枚を広げてふたつ折にする。


「ほら、ちーんって」


「こ、子供扱いは」


「ほら、垂れちまうぞ鼻水」


「うう」


 恥ずかしそうに目を瞑ったアリスがツっと顎を上向ける。

 ジュルッと鼻をティッシュ越しに摘んでやると、あろうことか彼女は全力でかんで来た。ゲル状の粘液が波動砲の如く発射される。


「わ、バカ!」


「あ、ごめん、なさい」


 俺の胸元とアリスの鼻が架け橋で繋がっていた。

「ぷっ」と俺は笑い、アリスもこらえ切れず笑った。


 鼻水を綺麗に拭いて、冷めきったミルクティーと緑茶で喉を潤してから、俺は口を開いた。


「とりあえずさ、焦って出ていったりする必要はないよ。まだこの世界に来たばかりなんだから」


「は、はい……」


 アリスが沈んだ表情になったので、俺は慌てて言葉を足した。


「いや、いずれ出て行けって話じゃないんだ。キミが望むならいつまででもあのアパートにいてくれていいんだ」


「ですが、それでは伊織様になんの益もありません……私はもう、あなた様の妻になる資格は――」


「アリス」


 俺は少し苛立った風に彼女の肩に手をおいた。

 怯えた顔をするアリスの目を覗き込みハッキリと告げる。


「キミは綺麗だ。少しも穢れてなんかいない」


「え………。お、お戯れを――」


 顔をそむけようとするアリスの肩に力を込める。


「ふざけてなんかいない。俺はキミが純血だろうがそうじゃなかろうが妻にしたい」


「え――!?」


 驚きに目を見開くアリス。

 いや、ちょっと待て。

 俺は再び言葉を足す。


「今のは違う! って、違わなくもないけど。妻にしたいくらいに綺麗だって、そう思ってるって意味だから!」


 かあああっとアリスは顔を赤くし、俺も釣られて赤くなってしまう。

 日も暮れてだいぶ寒いんだけど、俺達だけは湯気が出るほどホットだった。


「それから、異世界はどうだか知らないけど、現代日本の性事情はかなりおおらかなんだ。多分、結婚するまでに童貞だったり処女だったりする男女ってのはまずいない」


「そ、そうなのですか?」


 もっと高貴な身分――世界中に目を向ければそういう風習を大事にしてる家柄があるかもしれないが、少なくとも俺はしらない。

 

「だから例えキミの事情を知らないまま――その、そういう男女の状況になったとして、キミが初めてじゃないとわかっても、俺は全然気にしなかったと思う」


 なかなかこっ恥ずかしいことを言っているとは思うが、嘘偽りのない告白だった。


「何故、どうしてですか? 自分の妻が、夫以外の男性と関係をもったことがあるとして、どうして伊織様はそれを許すことができるのですか?」


 アリスの問いかけは必死だった。

 理解できない異世界の常識――というわけではないか。

 あくまで考え方の一端に触れて戸惑いもあるのだと思う。

 そしてその考え方は、純血と貞淑を重んじる貴族のお姫様には信じられないものなのだろう。


「うーん。多分根本が違うんだと思う。キミのいう婚姻っていうのは、家柄同士の結びつきであるとか、政略的なもののことを言うんだろう」


「そう、ですね……」


 貴族の子女であればそれ以外ないといい切れるだろう。

 ましてや一人娘ともなれば、結婚相手を自由に選ぶなど考えたこともないはずだ。


「そういうのじゃなくて、純粋に相手のことが好きになったから……。このヒトとずっと一緒にいたいから、このヒトとの赤ちゃんが欲しいから、だから結婚をするのであって、そういう契的な行為って感じなのかな」


「は、はあ……?」


 アリスは段々と混乱してきたようだ。

 これ以上胡乱な言い回しをすると伝わらないかも。

 ここは思い切ってストレートに行こう。


「例えば俺がアリスのことを無茶苦茶好きになって、アリスも俺のことをすごく好きになってくれて。そうしてお互いの過去を全部赦し合って、未来に約束する行為がセッ…………情を結ぶってことなんだ」


「お互いの過去を赦し合う…………?」


「そう。大切なのは今とこれから。そのヒトが過去にどんな傷を背負っていても、俺には同情してやることしかできない。ならせめて今と未来のことでそのヒトが幸せになるように助けてあげたい」


 時間はいつだって未来にしか進まない。

 後ろばかり振り向いていては立ち止まってしまう。

 将来を誓いあったふたりが、お互いを信じて進んでいけば、きっと赦されないことなどないのだ。


「幸せに、なれるのですか? 私のような者が……?」


「なれるよ。絶対に」


 その役目は俺でなくてもいいのだ。

 誰か別の――きちんとアリスの過去を知っても受け止めてくれる男なら誰でも。


「いいえ、いいえ……。そのような殿方など、私の前には二度と再び現れません」


 アリスはゆるゆると首を振った。

 これだけ言葉を重ねても、ヒトの心を動かすことは難しい。

 そう痛感していると、アリスは何故か憮然とした顔になった。


「勘違いなさらないでください。二度と再びと言ったのは、もう既に出会っているから、これ以上は必要がないという意味です」


「え――、それってどういう」


「こういう意味です」


 声と共に吐息が唇に触れた。

 それは、親愛を表すための拙いキスだった。


「ア、リス……?」


「唇を許したのは正真正銘、あなた様が初めてです」


 いや、俺の話を聞いていたかな。

 俺はあくまでキミたちを自立させてこの世界で生きていけるようにするために――


「ええ、もちろんこの世界の常識を学びながら努力は続けていきます。ですが、もう私は、あなた様なしでは生きられない、と思うのです……」


 一瞬、俺の頭の中に見苦しい言い訳がごまんと沸く。

 でも思い出す。責任は取ると、受け止めると誓って彼女と向き合ったのではなかったか。その結果がこの答えなら、俺には反故にする権利はないのではないだろうか。


「伊織様、私、この世界に来れてよかったです……」


 眩しい笑顔だった。

 綺麗だな、と思った。

 目は腫れ気味で、鼻も赤くなっているが、無性に可愛いと思ってしまう。


「ああ、俺もキミたちに――キミに出会えて嬉しいよ」

 

 春先とはいえ夜は冷える。

 でも俺達はお互いさえいれば凍えることはないだろう。

 それくらい心と身体が熱く、つながりあっていた。

 少なくともアパートに帰るまでの道中、この腕が解かれることはない。


 異世界嫁、アリス・エル・エブロスの心を、俺は確かに受け止め、救うことが叶ったのだった。


 続く。

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