第10話 れもん、ころころ、濃い色は

 昼間だというのに憂鬱が立ち込めたように暗い。

 店内は白熱灯の薄明かりだけが頼りで、雨風を受けてブラブラと揺れては四方八方へ陰を生み出していく。

 じめじめとした空気の中、煙管の煙だけが店内を自由気ままに闊歩する。

 綺麗に製本された洋書が重々しい本棚に並べられた空間が灯りに照らされては陰になり、また一瞬だけ薄明かりに曝されてはすぐ闇に包まれる。

 奥にはさっきまで居なかったはずの店番が大きな口を開けながら退屈そうな顔をしている。

 濃い藍色の作務衣であった。

 まさか、あの男が。いや、年はもっと若かったはず。あれではツバメというより鵜だ。

 ぐるりと店内を見回してみると幾人かの客が居たが、それらは皆和装で、これなら自分たちの格好も馴染みのある衣装ではないかと安堵する。

「あれ、マナちゃんまた着替えたの」

 お色直し再び。

「むふー、この着物なら『よいではないか』『あ~れ~』ができるッスよ!」

「やったぜ」

 いや、やらないよ? 声に出してはいるものの、本当に着物の帯を引っ張ろうものなら憲兵さんが飛んできちゃう。

「文豪と花魁みたいッスね」

 綺羅びやかな髪飾りや博多織の帯なんか確かに花魁風ではあるが。

 あと文豪って聞くと恰幅良い印象だけど、この作者も含め若くして病を患って死ぬ人多いよね。


「落ち着いた雰囲気でこれぞ本屋って感じッスね」

「確かに、今までで一番本屋らしい出で立ちではある」

 店内を散策すると妙に心が安らぐ。

 最初のお店ほど種類が豊富でもないし、灯りも明るくない。

 湿っぽいしよく見るとホコリが落ちている、至って普通の街の本屋。

 しかし、店内の雰囲気だけではない。

 心が揺すられる感覚がするのだが、その理由がわからないのだ。

「へー、懐かしいッスね」

 マナちゃんが一冊本を手に取り読み始める。

「ゲーテの翻訳集か。色々と載っているし、実際に訪れた物語もあったなぁ」

 郷愁にかられて、わたしも本棚から無作為に選び取り読んでみる。

 ああ、懐かしい。

 これも確か以前ティンカーを探すために渡り歩いた物語だ。

 思わず時間も忘れ読み更けてしまった。


 ふと顔を上げると、こちらをじぃっと見つめる視線に気付く。

「……ごめん、待たせたね」

「いえいえ、良いッス。そんなに熱中するほど面白い作品だったッスか?」

「面白いというか、あの時は物語を修復することに一生懸命で、物語自体をゆっくり味わうことができなかったなぁって。本当はもっと面白くて、色んな紆余曲折があったりして、当時は気が付かなかった伏線とかにも出会えたりして、もう一度読み直すとやっぱり良い作品だったんだなって思ったんだ」

「同じ作品でも、成長して見直したりすると新たな発見があったりして面白いッスね」

「そうそう、一度読んで全部を理解したつもりでいるけど、実は全然そんなことはなくて読み返すたびに新しい気付きがあるんだ。それに時間が経つと間違って覚えていることも多々ある。何度も読み直した絵本ですら、そう思うんだろうね。例えば丸暗記した台本とかでも、きっと。……そろそろ雨も止んだ頃かな」

 ふと、激しく打ち付ける音が止み、心なしか外が明るくなった気がした。

 読んでいた本を閉じ、元の場所に戻す。その両隣も知っている物語だ。

 出入り口から外を見ると、最初ほどではないがまだ玉の雨がポツポツと降っていた。

 緩やかに落ちたそれは黄色いビー玉となって転がっていく。

 その内の一つが丸善の店内に向かってコロコロと流れていった。

「あれっ、どこ行くんスかー」

 マナちゃんがそのビー玉を追いかけて再び店の中に入っていく。

 店内へ駆けてくマナちゃんを見て向き直ると、隣に藍色の着物を見た。

 くたびれた、色あせたその色だ。

「後は君が物語を終わらせ給え」

「――え?」

 顔を向けるより疾く、そのツバメは雨上がりの空へ飛んでいった。

 澄んだ水色の空にか細い藍色が飛行機雲のように線を描く。

 呆然と空を見上げていると、後ろからマナちゃんの声がする。

「ビー玉、見当たらないッスね……。あれ、どーしたんスか」

「そうか」

 やっと、理解した。

 この世界がわたしに示したかったことを。

 わたしに見せたかった光景を。

 この物語の、正しい終わらせ方を。

「戻ろうか」

「え? お店の中ッスか」

 きょとんとしているマナちゃんをよそに、わたしは再び丸善の中に戻る。


 あの本棚に入っていた本は、きっと。

 すべて過去に訪れたことのある物語だったのだ。

 懐かしさを覚えたのもきっとそう。

 どんなに絢爛豪華で世界中の本を集めた巨大な本棚よりも、かつて自分が歩んできた物語の詰まった小さな本棚の方が憂鬱な気分を晴らしてくれるのだ。

 梶井基次郎が感じていた気詰まりを理解するのは難しいが、彼のために丸善に爆弾を仕掛けてやろうと、そんな風に思った。

 わたしは人目につかない一角を選び、先程の本棚に入っていた本を取り出していく。

 ああ、やっぱり。

 これね、それも、あれも。

 すべて知っている。

 すべて、知っていた。

 一心不乱に本を積み上げ、最初の丸善で見た本の塔を作り上げた。

「シショーがなんだか楽しそうッス――あれ?」

 マナちゃんが不思議そうに声を上げる。

「空っぽだったはずのラムネ瓶にビー玉が入ってるッス。それも黄色いのが……なんでッスかね」

 まあいいやとさほど興味なさそうに視線をこちらに戻す。

 こちらも完成した。

「あとは仕上げに檸檬を乗せて、っと」

 わたしは前の物語で買っていた檸檬を取り出し、本の塔の上にそっと置いた。

「マナちゃんは許可なく唐揚げにレモンをかける派ッス」

「うーん、ギリギリ許す」

 どちらかというとマリネに入ってるレモンの方が邪魔で許せない派。それを食べずに残すと怒られるのが許せない派。レモンの皮には防腐剤云々。

「さて、それじゃ行こうか」

「行こうか、ってどこに行くッスか?」

「よそよそしい表舞台から、親しみのある裏舞台へ、かな」

 カラン、とガラスのぶつかる音がした。



「――そして何食わぬ顔をして丸善を出てきたら、ここに戻ってきたと。なんと奇天烈なお話ですこと」

「信じるか信じないかはお前次第だよ。白紙の本から栞を抜かなくても戻ってこれるなんて思わなかったけどな」

「いやいやもちろん先輩の言うことですから信じますよ。そんな物語の終わらせ方があるものかと感心していたのです。ちょうど二人が戻ってくる少し前に、差し止め判が消えたんですよ」

 そう言ってコーハイが掲げる『檸檬』の表紙には、確かに差し止め判が消えていた。

「それにしても、ティンカーも居なければ原因もよくわからないまま終わったッスねー」

「主人公を追いかけて、その代役を努めて帰ってきた、ってだけだからな」

「もしかしたら、狸に化かされたとか」

「それはもうやったッス」

「あれ、そうなの?」

「化かされたというか、本当にお化けとか幽霊とか、そんな話だったのかもな」

「……と、言いますと」

 コーハイが意図をつかめないといった目でこちらを見る。いや、よく見るといつも通りのジト目だ。

「物語の亡霊とでもいうのかな。きっと、時間が経って忘れ去られた、眠っている物語を発掘してほしかったのかもしれない。何度もタイムスリップしたみたいで、それは色んな物語を修復していく作業にどこか似ていたし。昔修復してそれっきりの物語もあったし、もう一度読み直したくなったよ」

「そんなものですかー。ああ、そういえば丸善というお店は何度か移転しているようでして、最初は三条麩屋町、次に寺町、そして河原町といった具合に。この『檸檬』は最初の麩屋町にあった丸善を物語の舞台にしていたそうです」

「そんなこと、よく知ってたな」

「最近は文豪を擬人化したソシャゲも数多く出ていますからね。そこから派生した情報はチェック済みです」

 まあ、文豪って元々人間だけどな。

「あ、そうそう、忘れてたッス。センパイにお土産ッス」

 そう言いながらマナちゃんは裾からラムネの瓶を取り出した。

「おお~、美味しそう。ありがとね、マナちゃん」

「えへへー、ちゃんとビー玉入りッス」

「そういえば最初に三本買ってたっけ……」

「よっ、と……ぷはーっ! ひと仕事終えた後のラムネはサイコーだね」

 お前が何をしたよ、と突っ込みたくなったがこれは罠だ。

 そんなことをしたら喜んでしまう。

「でも、ラムネにビー玉って邪魔じゃない? 無い方が飲みやすいなーって」

「お、それには珍しく同意見だ」

「先輩もですか、そう思いますよね」

 マナちゃんがむっとした表情でこちらを見る。

「おふた方、ビー玉は必要ッスよ!」

「えー、そう?」

「そうッス。物語には『箋』が必要、ラムネには『栓』が必要ッス」

 ……なんてわかりにくいオチだ。



 *ちなみに箋(せん)とは今で言う栞のことです。

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