第58話「蠢動」
「だから違うって!」
明美は突然教室に響いた音に驚いた。
声と同時にバン、と机を叩く音もした。
休み時間の喧騒を破るその声に、教室中の視線が集まる。
そこには、机を挿んで向き合う女子生徒二人。
声を出したのは、長い黒髪の少女、姫宮真琴。
「あ……」
皆が注目しているのに気付いて、言葉を噤む。
教室の他の男子も女子も、何事が起ったのか興味津々だ。
何せ声の主は、クラスの注目の的となっているつい最近このクラスにやってきた謎の転校生。
そして既に校内一の美少女の名を冠する、女子生徒。
その真琴が、珍しく声を張り上げるという出来事に、皆何事かと耳をそばだてている。
「ああ、もう」
その真琴は、右手で頭の綺麗な髪をくしゃくしゃとかき乱し、言葉にならない言葉を漏らしながらそして、スカートを翻し立ち上がる。
教室を後にして廊下へと出て行った。
皆呆気にとられながらその様子を見送った。
「ちょっとゴメン、これ頼むね!」
明美はちょうど日直の仕事で黒板を綺麗に消していた作業の途中だったが、それは片方の男子に任せ、真琴を追いかけた。
「どうしたの? 真琴」
「明美か……」
「一緒に行こう、ね?」
「行こうって……」
廊下を歩く真琴の腕を引っ張る。
明美が導いた先は女子トイレへ。幸い誰もおらずほっとした。
だが真琴は何故連れてこられたのかあまりピンとこないようであった。
「なんで用もないのにトイレに来るんだよ」
「いいのよ、女子トイレも、コミュニケーションの場なんだから。特に男子に聞かれたくない話題は……ね」
真琴にとっては女子が一緒にトイレにいって話に花を咲かせるのが理解できないらしい。ただ用を済ませるだけの場じゃないと、明美が何度説明しても真琴は納得しなかった。
「はあ……コミュニケーション、ねえ」
真琴はまだ混乱が収まらないようで、イライラしている雰囲気を醸し出している。
きっと何か悩んでいると明美は推測する。
「どうしたの? 急に声をあげて――。春香もびっくりしてたじゃん」
「わ、悪い。後で謝っとくよ……でも」
「どうしたの? 何か悩んでるの?」
明美の問いかけに、真琴は少しだけ間を置いた後、吐露するように口を開いた。
(そういえば……)
明美も気づいていた。ここ最近の真琴は何か思いに耽っていることが多い。
授業中も休み時間も、窓の外を眺めていたり、沈んでいたり。
転校して以来、しばらく続けていた歴史や街の調べ物もしていない。
「最近眠れないんだ」
「眠れない?」
「あいつのことが、忘れられないんだ。毎晩、気になって気になって仕方が無いんだ」
「真琴……例の男の子ね」
真琴は、明美たちには詳しいことは明かさないが、これまでにもとある男の子の存在を口にすることがあった。
過去のことは、堅く口を閉ざしているが、転校のきっかけもその男子絡みのことだった。
殴ったことまであるらしいけど、憎しみはない。
(一体どういう相手なのだろう?)
「そいつが瞼に浮かんできて、今どうしてるのか何をしてるのか気になって眠れないんだ」
それって恋だよ――。
真琴はその男の子に恋してるんだよ。
喉の奥まで出かかった声を明美は飲み込んだ。
(違う)
真琴を女の子としてみれば、それが解答で問題ない。
「その話をしたら、春香がさ、オレがそいつに、恋をしてるからだとか」
春香が、そう答えたのも無理ないように思われた。。
(私も、同じ意見だから)
☆ ☆ ☆
春香と真琴の会話はこうだった。
「私も真琴さんと、同じ経験をしたことがあるんです。瞼を閉じると、ある人の顔が浮かんで眠れなくなったんです。そして、胸が張り裂けそうになるんです。最初は原因がわからなかったけど、しばらくして気づいたんです」
「お、同じだ。まったくオレも同じようになってる! 胸が熱くて苦しいんだよ」
「はい、だから、きっと真琴さんも、私と同じものに苦しんでるんです。私も最初は、これが何だかわからなかった……」
「お、教えてくれよ、春香。一体何があったんだ?」
「はい、それは私がバスケ部の先輩に……『初恋』したときです」
「は……初恋!? 何、言ってるんだ。オレが男に……!?」
「私も男の子に恋をするなんてことなんて絶対無いと思ってた。男女の恋愛なんて、別の世界の話。でも、練習試合で先輩のかっこいいところを見たときから……」
「ば、馬鹿言え……」
「いいえ、真琴さん。自分の気持ちを認めることです。でないと、苦しみから解放されないんです。初恋は、私達女の子の試練……。でも、それを認めたとき、勇気と力が私達女に生まれるんです」
☆ ☆ ☆
「なあ……どうすればいい?」
明美には目の前の真琴が、迷った幼子、あるいは初恋の乙女のようにも見えた。
(ここは慎重にならないと)
真琴は明美たちが想像するような女子でないことは既にわかっていた。
「何で女っていつもそうなんだよ……」
男の子っぽい口調で明美にも噛み付く。
とびきりの美少女なのに、何故かボーイッシュを通り越した男の子っぽさがある真琴を、明美は好きだった。(他意は無く)
良いか悪いかは、校内で賛否両論で、残念がる子もいるが、そこがいいという生徒が男子も女子も多い。
「オレは、そんな話をしたんじゃないのに、いつもいつも結びつける。男の話すると恋愛だのなんだのとさ」
春香はごく普通の女子生徒だ。
性格も大人しくも悪くない。
その感性は、明美ともそれほど変わらない。
春香の意見は、普通の女の子としての意見と言っても良い。
だけど、真琴は動揺している。
恋をしていることを受け入れられない、
(不思議な子……)
[まるで本当は男の子だったみたい]
真琴には何かにつけてこの枕詞をつけると説明がついてしまう。
真琴は、なんだか幼女、思春期の少女、女子校生、そんなのがいっぺんに来てる。
本来は女の子として生まれた子が年月をかけて通過していく色んなイベントを一気に体験している、そんな感じだ。
初恋は、思春期の女の子にとって、自然に訪れて、乗り越えていくイベント、ほんの甘酸っぱい思い出の一部なのに……。
真琴は、それを乗り越えられない。
(男の子だったから?)
でも、今はそこまで詮索している余裕は無かった。
「ええと……」
適格なアドバイスをしようと思うが、なかなか思い浮かばない。
真琴は「実は男だった女の子」で、「恋をしてるかもしれない」。けれども本人はそれを否定していて、でもやっぱり気になっていてアドバイスを求めている――。
明美は真琴に対し恋、という語句は使わない方がいいと思った。
今の真琴では動揺をさらにさせてしまうからだ。
「悪い、明美。変な相談しちまって。オレも何が何だかわからないし」
「ううん……私も上手く言えないけど」
「自分に素直になればいいと思うよ」
「素直に?」
「そう、自分の気持ちにまっすぐ向き合えば、やるべきことが何か見つかると思うよ。そうすれば胸のモヤモヤもすっきりすると思う」
「素直に……まっすぐ……」
何度か口の中で、明美の言葉を繰り返す。
何か真琴の心を捉えたようだった。
「難しく考えちゃ駄目。真琴が今やりたいこと、やるべきことをやればいいのよ」
「オレがやりたいことか……」
しばらく真琴は浸潤する。
混乱していた真琴の表情が落ち着きを戻していく。
どうやら、明美の言葉が届いているようだ。
「気負いすぎないで頑張ってね」
「気負いすぎか……姉貴にも同じこと言われたな。ありがとう明美、少し話したら楽になった」
「せっかく来たから、済ませてから教室に戻るよ」
そう言って個室のある奥へと向かった。
気がつくと休み時間はあとわずか。
真琴がトイレに行くとき、スカートの中で太股擦り合わせる癖がなくなったようで、明美は心で笑った。
(天聖館高か……)
あの場所には妙な近寄り難さがあった。
何か神様の結界でもありそうな気がした。
綺麗なのはもちろん、神秘的な子ばかりで、真琴のように不思議な子ばかりなのだろうか。
☆ ☆ ☆
「何かの間違いよね、清久。清久は女の子に暴力振るう子じゃないもん」
純は椅子に座っているその人物に語りかける。
自分の声が届いてない。
そこに座っているのは、清久だった。本来は純の大事な幼馴染。
だが今は制服は乱れて髪もぼさぼさ。
小さなひっかき傷も腕にあった。
だが、酷い状態も気にも留めず、夢の中にいるみたいに視線を宙にやっている。
「ねえ、聞いているの? 清久君。純ちゃんが尋ねてるでしょ?」
いらだたしそうに、生徒会長の環ちゃんが畳み掛けた。
やはり反応はなかった。
「もう……自分が何をしたのかわかってるのかしら……」
清久が生徒の一人に乱暴をした。
悲鳴を聞いて、純が環を伴って現場に駆けつけた時には、相手の子に抱きついて押し倒していた。
騒ぎに集まった皆が引き離そうとしても、男子の力に抗うのは難しく、何人もの力を借りてようやく引き離していた。
抱きつかれた子は失神してしまった。
真琴に容姿、背格好、雰囲気が似ている子だった。
事件の噂は校内中に駆け巡った。
退学にしろ、とか、レイプ魔、犯罪者。容赦ない言葉を投げかけられた。
なんとか環が場を治めたけれど、次に起こしたら一体何が起るのか……。
「やっと会えたと思ったのに、真琴じゃなかった……」
さっきからずっと清久は同じことを繰り返すばかり。
「う、うう……」
純の眼から涙がポタポタ落ちる。
「真琴……真琴に会いたい」
「清久、真琴ちゃんはもうこの学校にはいないの」
清久は顔をしかめて怒りの表情を浮かべた。
怖い――。
(こんな顔つきの清久、初めて)
「純、今すぐ会いたいんだ! 真琴! 真琴!」
「きゃっ!」
突如立ち上がって、純の胸をドン、と押した。
清久の力強い乱暴な押しに突き飛ばされて、転ぶ。
「純ちゃん!」
「だ、大丈夫、転んだだけだから……」
「清久君! 純ちゃんは女の子なのよ」
「タマキちゃん、いいの」
今の清久は女性恐怖症などでもなく、女の子の格好をするのも、女の子に触れるのも平気だ。
(だけど……)
女の子が大の苦手で、純が女の子になったその日から、話しかけるとドギマギして、触るとドキっと驚く。
手を握ったら、大袈裟なぐらいに驚いて、体を寄せると顔も体も真っ赤になってしまう。
純はやっと気づいた。
そんな純粋な清久が好きだった。
清久もこっちの世界に来れば、もっともっと綺麗な心になると純は思った。
だが――今は後悔の念ばかりだ。
「真琴、本物の真琴に会いたいんだ」
清久に穿かせたスカートが揺れる。
思わず顔を背けた。
「ねえ、純ちゃん。真琴ちゃんに来てもらいましょうよ。ね、清久君の願いとおり」
「駄目……清久に会ったら、真琴ちゃんが犯されちゃ――きゃっ」
清久が純に抱きついてきた。
汗の臭いが鼻先に漂う。
もうずっと離れていたこの臭い。忘れかけていた男子の臭いだ。
清久でなければ気が遠のきそう。
「純、真琴と三人でー」
「三人で……何をするの? 駄目! スカートの中は駄目!」
清久の手が太股に触れていた。
振り払おうとしても力が強くて、防ぐのがやっと。
もう抑えきれないかも――
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