ある魔法使いの苦悩87 戯れ

「潮の匂いがしてきたな……」


 移動馬車での道中も五日目を迎え、順調だった行程も終わりを迎えようとしていた。


 目的地が港町だけあって、いよいよ近付くにつれて海の匂いが自然と漂い始めた。


「海なんてあたしもしばらく来ていないですね」


「私は初めてだ。森から出たことがないからな」


 懐かしそうな顔を浮かべるアメリア君に対し、なぜかシンクは自慢げだ。


 いつも思うが、シンクの凄さは苦手や無知を誇ることができるところだ。なんだって前向きに捉えるからこそできる芸当だろう。


「わたしも海、初めて見る」


 サラも海には行ったことがないようだ。私と出会ってからは一度も機会がなかったが、それまでもなかったのだろう。


「もうすぐ着くぞ。港町に着いたあとはこいつらを休ませたいから俺はしばらく滞在するつもりだ」


 ゴードンさんは軽快に走り続ける芦毛の馬のお尻あたりをそれぞれ軽く触れた。慣れたものか、馬たちは何も気にすることもなく淡々と走り続けている。


「帰りもおまえたちを送り届けるつもりだ。あまり長くかかったらあいつに追加料金を請求しないといけないがな」


 がっはっはっ、とゴードンさんが豪快に笑った。こういうところも所長に似ている。


「よろしくお願いします。私たちが玄武を救助するまでにどれくらいかかるかは正直わからないので、待たせてしまうことになるかもしれないけど」


「構わんよ。こいつらの餌がないと困ることになるが、港があるからそのあたりの心配がない。王都からは遠いが、この辺りは港町が中心みたいなものだ」


「なるほど。それなら私たちが泊まるところも大丈夫そうですね。旅の資金があっても泊まるところがなければ野宿ですからね」


「違いない。もしそんな場所だったら俺はすぐに直帰しているさ。俺はまだしもこいつらが耐えられん」


 自分たちの話をされていることはわかっているのかわかっていないのか。見事な毛並みの馬たちは自分の仕事を完遂すべく、目的地への距離をどんどんと縮めてくれている。


 王都から離れているとは言え、私たちが向かっている港町はそれなりに大きい。行き来に時間がかかるため、鮮度の良い魚介類は氷魔法を付与した魔導具で保存しない限り王都へ届けることができない。数には限界があるので多くは地産地消される。王都ではあまりお目見えしない種類の魚や、痛むのが早くて現地でしか食べられない部位とかもある。


 それほど大きい町を津波から守ったのが玄武だ。いや、確定しているわけではないがきっとそうだ。おかげで港町は正しく発展し、交易の場として栄えていると聞く。


 そんな中で玄武の情報を集め、玄武を救う必要がある。鍵を握るのは玄武の生まれ変わりと言われている少女だ。


「ねぇ、ファーレン。海ってお魚たくさんいるんだよね?」


「ああ。そこらじゅうを泳いでいるはずだよ。もっとも、浅瀬にはあまりいないから簡単には捕まえられないかもしれないけどね」


「わたしはどっちかと言うと新鮮なお魚料理を食べてみたい」


「そっちか。やっぱりサラは食いしん坊だな」


「だって、お魚好きなんだもん」


 私がからかうように言ったからか、サラがかわいらしく頬をぷっと膨らませた。表情も豊かになってきたが、こんな感情の表し方もできるようになってきたんだな。


 その顔が愛おしくなり、私は膨らんだ頬をツンとつついた。サラの口からぷっと息が吹き出す。


「なにするの、ファーレン」


「いや、なんか押したくなっちゃって」


「……」


 無言でサラがもう一度頬を膨らませた。でも、さっきまでと比べると不満な様子は見られない。口を閉じたまま「むー、むー」と言っている。


「あはは。サラちゃんもう一回やってもらいたいみたいですよ、ファーレンさん」


 アメリア君がおかしそうに笑顔で言う。


「えっ? これってそういうことなの!」


 うんうん、とサラが頷いている。てっきり嫌なのかと思ったけどまさかのアンコールとは。


 私はサラの要望に応え、膨らんだ頬をツンとつついた。またもやぷっとサラの口から息が吹き出した。


「なにするの、ファーレン」


「そこももう一回やるの!?」


 あはは、とサラが笑った。私たちの様子を見ていたシンクがふっと穏やかな笑みを浮かべた。ゴードンさんは、がはは、と大きな声で笑った。


「私たち、ちょっとリラックスしすぎじゃないかなぁ?」


「いいんじゃないですかね。堅苦しいだけじゃ楽しくないじゃないですか」


「それはそうだけど……まぁ、いいのかな?」


「いいんですよ。ファーレンさんも今はもっと肩の力を抜いてください。力を入れるのはこれからにしましょう」


「そうだね。やることはいっぱいありそうだ。今から力み過ぎたらうまくいくものもうまくいかない。サラのように息を吐いて力を抜かないとね」


「そうだよ。ファーレンにもやってあげようか?」


 サラが自分の両のほっぺたを両手の人差し指でツンツンとつついている。そして指を当てたままニッと笑った。


「せっかくだからやってもらうか」


 私は子供がやるように頬に空気を溜め込んだ。女の子がやるならいいけど、私みたいな成人男性がやってもかわいさの欠片もないだろうな。


 案の定アメリア君がお腹を抱えて笑い出した。シンクは見なかったことにしたのか既に目を逸らしている。


 サラだけがニンマリと笑い、私の膨らんだ頬に手を伸ばしてきた。ビシッと結構な勢いで指が頬に突き当てられた。その勢いで、ぶふっ、とサラとは違ってまったくかわいさの欠片もない形で息が盛大に口から漏れた。


 アメリア君の爆笑はさらに大きくなり、よく見るとシンクの肩が震えている。サラも、あははと大きな声で笑った。


「本当にこれでいいのか……?」


 笑いの的になった私は不満口のまま軽く首を傾げた。


 外は快晴。


 小さくだが波の音も聞こえてきた。

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居酒屋『冒険者ギルド』 ヒース @heath-b

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