ある女商人の苦労話9 元勇者がいるって?
「ごめんなさいねー! ほら、失礼だから戻るわよ!」
「なんでだよ。もうここまで来たんだからいいじゃねーか」
「どんな理屈よ? 迷惑だからやめなさい!」
戦士風の男の腕を魅惑的な美女がグイグイ引っ張ってこの個室から引き剥がそうとしている。ただ、どう考えても倍くらいの体重差があるから、いくら引っ張ったって戦士風の男が動こうとしなければまるで動くこともない。
「なぁ、姉ちゃんたち?」
「……何?」
つい冷たい反応をしてしまった。私がビビってこの居酒屋『冒険者ギルド』に入れなかったのは、まさにこの雰囲気に耐えられるかわからなかったからだ。ミユに出会って個室に入ったからいいものの、もしいきなり大部屋に通されていたらと思うとちょっと血の気が引いてしまう。
「みんなで楽しく飲んで食べて、昔話に花を咲かせるのがこの居酒屋『冒険者ギルド』なんだから、せっかくだから大部屋のほうに行こうぜ」
「だからやめなさいって!」
魅惑的な美女は眉を吊り上げてかなり本気で怒っている。戦士風の男はさすがにバツが悪くなってきたのか、乗り込んできたときは勢い良く持ち上がっていた眉毛がちょっと下がり始めている。私が冷たい反応を返したのも堪えたのかな?
「ジェリカー、この人たち知り合い?」
「どう見ても知り合いじゃないでしょ」
「ふーん」
ミユは半分以上据わった目で私と大男を交互に見ている。あまり興味がなさそうな感じだわ。
「なぁ、本当に来ないのか?」
まだ戦士風の男は私たちを大部屋に呼ぼうとしている。確かにここに来たときと今では考え方も違ってきたし、お酒の力もあってそれも悪くないわ、という気持ちもある。でも、わざわざ行かなくても、もうそろそろミユとの楽しい時間もお開きって感じもあるし、行く必要もないのよね。
「……悪かったな、邪魔して」
戦士風の男はあからさまにガックリと肩を落として、トボトボと大部屋に帰ろうとしていた。そこで、ふと零した言葉に私も反応したし、なによりミユが尋常じゃない反応を示した。
「今日は元勇者も来ているのにな」
元勇者! なにその興味しか引かれない言葉の響き!!
「今、なんて?」
ミユが急に真剣な顔をして背中を向けていた戦士風の男に声をかけた。さっきまで間延びしていた話し方はどこへ行っちゃったの?
「ん? だから、邪魔して悪かったって――」
「その先よ!」
あまりの剣幕に戦士風の男が戸惑っている。隣りにいた妖艶な美女がチラッと大部屋のほうへ視線を向けた。
「あ、ああ、元勇者が来ているって話か」
「それよ!」
ずいと前に身を乗り出すミユ。あなたにとって勇者ってどれだけのパワーワードだったの?
「わたし、その人に会ってみたい!」
「ちょっと、ミユ!?」
「ねぇ、ジェリカ。わたしたちも大部屋に移りましょ!」
「いきなりそんなこと言われても……」
「ジェリカが来ないなら、わたしひとりでも行くけど」
「ちょっと待って! さすがにそれは寂しすぎるわ……」
「じゃあ、行こう?」
ミユは譲る気ゼロだ。確かに私も元勇者には興味がある。勇者って職業自体貴重で、私が現役時代もほとんど見かけたことがなかった。商人ギルドに情報自体は入るけど、そんなに都合良く自分のエリアに来るわけじゃないし。
勇者の冒険譚って売れるのよね。吟遊詩人の語り手も引く手あまただし、自伝を出そうものならベストセラー間違いなし。といっても、過去に勇者と認定された人があまりいないから、前例は極めて少ないんだけどね。
「……わかったわ。店員さんに場所を変えることを伝えてくるわね」
今夜は長くなりそうだ。私はそう覚悟を決めた。でも、それ以上に収穫が期待できそう。私が今の借金を一気に返済できるチャンスが、こんなところに転がっていただなんて。
私は期待に胸を膨らませていた。それは確率の低い話かもしれない。けど、何もなかった昨日までとは違った今日を得て、新しい明日に繋がるかもしれない。
元勇者。あなたは一体どんな人なのかしら。
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