track:14 ウォーンドエフェクト(傷心症ver.) [Aoba]
自分はまだ大丈夫だと思いたくて、賑やかなテーマパークを一周してみた。
近日中に内面を立て直さなければ、そのうち本当に声が出なくなりそうだ。
この螺旋のような憂鬱から抜け出せる気がしない。夕暮れの色が内側に入り込んでくる。
泣いている足を労わる余裕すら持てないまま帰りのゲートをくぐった。
『
帰路の半ばを過ぎた頃、背後に迫る不審な気配を察知した。閑散とした歩道で一定を保つ不自然な距離感。明らかに追跡されている。
振り返るべきだろうか。それとも気づかないふりをして遠ざかるのが最善か。
迷っているうちに判断を誤り、知らない脇道に逸れてしまった。
走ろうと決意した次の瞬間、乱暴に腕を掴まれて街並みが歪む。喉元を冷やすナイフの感触。
「動くな」と男が言った。視界に映る荒くれた爪。音楽をやっている者の指ではない。
引きずられるようにして向かいの研究所跡地に連れ込まれる。扉に鎖が巻かれていて建物には入れない。男はヘルメットで頭部を隠したまま苛立ちを吐き捨てる。
目立ちにくい庭の奥で手錠を渡された。
逆らったら喉にナイフを刺して、二度と歌えないようにしてやるという意味か。
「早くしろ!」
「ぼくが」
「黙れ! おまえに恨みはない」
多少の不服感を滲ませながら、本物か疑わしい銀色の輪を左右の手首に嵌める。
直後、隣の大木に身体の前面を押しつけられ、一切の予告なしに背中を切られた。
「……っ!!」
縦横に走る線状の熱。恐怖に抗えず、強く目を閉じて息を止めた。
襲撃を終えた男がナイフを捨てて離れていく。追いかけても無駄だろう。おそらく雇われただけの人間だ。裏で操っている者が顔を晒して直接指示を出したとは思えない。
膝を着いて痛みに耐えていると、少女の悲鳴が耳を貫いた。普段なら靴音を拾えたはずだが、朦朧とした意識のせいで感覚が鈍くなっている。
手錠の鎖は少女が持っていたハサミであっさりと断ち切られた。
親切な通行人に礼を言い元のストリートに戻ったが、この身体では長く歩けそうにない。靴の中にまで生温い血が遊びに来ている。
メンバーに連絡しようと立ち止まった刹那、ふと躊躇いが生じた。仲間を慕う気持ちとは裏腹に見捨てられる覚悟をしている。正常ではないとわかっていながらも、肯定とは真逆のことをしたがる思考の癖を正しくできない。
痺れに似た痛みと失血で視界が揺れている。奇妙な寒気がして先が危うい。
縋るように周囲を見回すと、以前呼ばれた
通話の後、迎えに来てくれた風上峰と曲がり角で再会し、見覚えのあるレトロな洋館に
ランプの色に染まった室内は綺麗に片づいていて、父娘ともに余計なものを持たない主義のようだ。
道具箱の工具を使って血塗れの手錠を外す。
彼女は遠慮がちにパーカとTシャツを捲り、中を覗き始めた。
「梯子みたいな形の線……。何かしら。切り方からは殺意が感じられないし、この傷自体に意味があるのかもしれないわ。怪我のこと、ノートに書いても構わない?」
「はい。……ぼくが油断していたせいです。すみません」
一度側を離れ、紙とペンを運んできた彼女が、破れたぬいぐるみを抱き上げるような表情でこちらを見ている。
「どうして自分を責めるの?」
「いつもそうしているからです」
記録を済ませ、傷口に薬を塗る風上峰の指先に加矢間詺の潔白を重ねた。
・
借りた服に着替える前に、貼って貰ったばかりのガーゼを剥がしてみる。切りつけられた背中を洗面台の鏡に映した。薬が効いたのか、受傷直後ほどの痛みはない。
肌をキャンバスにして若干斜めに傾いた線は、確かに梯子のような形をしている。
酷いことをされたはずなのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。感情が死にかけていて、楽しみにしていたコミックの新刊もしばらく開けそうにない。
あの男は、こちらが声楽科の生徒であることを知っていたから喉にナイフを向けてきたのだろう。最低な脅迫だ。
気に入っていたパーカも、インナーに着ていたTシャツも滅茶苦茶に引き裂かれている。
適度に穏やかだった日々が懐かしくて切ない。
渡された部屋着に着替えて戻ると、風上峰が音を立てずに本を閉じた。白百合のようなセーラー服にスカーフを結び、緩く巻いた髪をポニーテールにしている。
「サイズが合ってよかったわ。父が作った服で申し訳ないけど。……今夜は泊まってちょうだい」
「えっ」
「心配だし、わたしは朝まで起きてるわ」
彼女が気遣ってくれるのは、大切な幼馴染の仲間であり、後輩だから。それだけだ。迷惑も面倒もかけてはいけない。丁寧に慎ましく辞退すべきだ。
「帰ります。ありがとうございました」
「青葉くん」
しっかりと引き留められ、ソファで眠るよう促される。すでに厚手のブランケットも用意されていた。
風上峰は、加矢間詺と同じ成分を内包している。
「遠慮しないで。もう遅いから」
傷の形状は、犯人に繋がる何らかのヒントかもしれない。そうだとしたら、いくつ集めることになるのか。
警察に被害を届け出ても事態が好転するとは思えない。
夜食を受け取ったとき、他のメンバーも狙われる危険性が高いので速やかに連絡するよう説得され、通信係のヨエルに事情を伝えた。
「似てるんですね。加矢間先輩と。ここにいたら同じことを言われたと思います」
「そうかしら。でも、詺の方が信用できる人間よ」
頭の中で彼の曲を再生する。微かに緊張を帯びた歌い出しから、少しずつ情景を孕んでいく切なげな美しさ。透明な紺と青。
「ぼくに償えることはありますか」
すべての事態は、彼が意識不明にならなければ防げた。
風上峰のあたたかい手が肩に置かれる。
「大丈夫?」
自分でも判断できない。すでに壊れているのかもしれない。
嫌われないよう、過ちを見つけて自分を責める快楽が麻薬化してしまった。
それでも声楽科の生徒から疎まれている。死ねばいいと思われている。
「あの日、もっと早く部屋を訪ねていれば、加矢間先輩は大事に至らなかったはずです。なのに、無期限の出席停止を言い渡されて喜んでいる自分に気づきました」
唇から零れたいくつかの言葉が、小さな孤独を描いて夜に沈もうとしている。
「許せなかったら殺してもいいですよ。ちょうど弱ってるので」
彼女は悲しい目をこちらに向けていた。
「どうして笑ってるの?」
「わかりません。……心が読めるなら教えてください」
命を手放せば『off the lights』からは除名され、自分の歌を聴いてくれる人もいなくなるだろう。
忘れられないステージの灯りが、記憶の裏で二度瞬く。
track:14 end.
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