12.友達でいてくれますか? 二

 ふたりのメイドの背中を見送ると、ぬいぐるみは大きな息をついた。頭を重たげにふりふりしてから、リーゼロッテに向き直る。


「パルム、おこったの?」


 リーゼロッテがそう問うと、パルムは首をかしげてみせた。


「怒ったというほどではないですよ。ですが、パルムの心も石でできているわけではないのです」


 冗談めかしてそう言う口調は、いつもの彼らしいものだった。


 それからパルムは、場の空気をきりかえようと考えたのか、「そういえば、リーゼは魔法でなにをしたいのですか?」と、はきはきした明るい声でたずねた。


 リーゼロッテは、少しだけはにかみながらうつむいた。

 あの願いを……ここでパルム本人を目の前にして口にすると思うと、ちょっと照れてしまう。

 なにも言いにくいことではないけど、ひとりでそっと胸にひめていたことを打ち明けるのは、なんだか気恥ずかしい。

 彼はどんな反応をするだろう……?


「パルムがね……。ずっと、わたしといっしょにいてくれるようにって、おねがいしたかったの」


 それは、たくさんある願いの中で、いま最も切実に叶えたいものだった。


 新しくできた大切な友達は、リーゼロッテに新鮮な喜びとともに、新たな不安をももたらしていた。パルムとたくさん遊んでおしゃべりして過ごす楽しい日々。こんな毎日は、いつまでつづいてくれるのだろう……?

 母のようにパルムがある日、いなくなってしまったら……と想像すると怖くなってしまう。


 ずっと一緒にいるのだと信じていた母の死は、リーゼロッテの心に深い傷を刻んでいた。パルムが現れてからは、ちいさなしあわせに満ちた日常をおくれてはいるが、喪失の痛みがすっかり癒えたわけではない。


 パルムはどうだろう? いつまでもリーゼロッテと一緒にいたいと思ってくれているのだろうか? 

 考えてみたら、リーゼロッテは彼の素性も事情もなにも知らないのだ。

 もしかしたら突然現れたパルムだから、ある日、突然消えてしまうのではないだろうか?

 いつの頃からか、じわじわとそんな不安が胸の一角を占めるようになっていた。


 最近の彼は、リーゼロッテの夕食が済む頃には、「では、また明日」とどこかへ帰って行ってしまう。そうして、次の日の朝食の頃になると、何事もなかったような顔をして「おはようございます」と言いながら、またひょっこり現れる。


 ときどき、心配してしまう。パルムが魔法のぬいぐるみ猫の国に帰ったまま、二度と現れない日が来るのではないかと。そんな光景を想像すると、世界が明けない夜につつまれるような気持ちになる。


 リーゼロッテの言葉は、ぬいぐるみに動揺を与えたようだ。彼は、しばし無言になった。 

 そして低い声で、絞り出すように言った。


「僕が……?」


 どこか苦しげにも見える。


「そうか……」


 その回答は、パルムにとって意外なものだったらしい。それ以上の言葉を紡ぎ出せないまま、ひとりで考えているようだった。


 やがて、てちてちと歩いて近づいてくると、彼はリーゼロッテのちいさな手を取った。大事そうに、両手で、身体全部で、包むように抱きしめる。

 それはまるで、祈りのポーズにも見えた。


「魔法なんてなくたって、僕はリーゼのそばにいます。あなたが望んでくれる限りは、ずっと」


 頭上の木の葉が揺れてさわさわと音をたてた。牧草地のほうからは、空高くヒバリの声が響いている。ときどき、牛が低い声でぼおぉと鳴くのが、かすかに聞こえてくる。


 なめらかに生えそろったふわふわの感触を両手に感じながら、リーゼロッテはパルムの言葉をかみしめていた。

 

(パルムも、わたしとおんなじように、おもってくれてたんだわ)

 

 よかった……。じゃあ、これからもずっと……。


 そう胸をなでおろしたのも束の間だった。


 パルムはまだ考えこんでいるようだった。やがて彼は、すっと手を引くと立ちすくんだ。

 そうして、視線をそらすようにうつむいた。


 リーゼロッテは小首をかしげた。

 ようすがなにか、変だ。


 パルムの姿は、なにか言いにくいことを言おうか、やめようか、迷っているように見える。


「たとえばの話ですけど……」


 ようやく心を決めたのか、ぬいぐるみがリーゼロッテを見あげて声を発した。

 瑠璃石のような瞳が、太陽の光を反射してきらめいた。


「もし……もしもの話ですけど……。僕にかかっている魔法が消えてしまって、このふわふわの愛らしい姿でなくなったら、リーゼはどう思うでしょうか?」


 胸がざわついた。

 パルムの声には、かくしきれない不安がにじんでいた。同時に、重い心をようやく動かしたかのような決意もあった。

 いつもの彼じゃない。まるで見知らぬ誰かがそこにいるような気がして、リーゼロッテはとまどいをおぼえた。


 少し前に、重いカーテンのひかれた薄暗い母の部屋で、絵画を眺める彼のちいさな背を見た時のことを思い出した。捨てられた子猫のような、頼りないさみしげな姿。    

 自分はパルムのことを、本当はよくわかっていないのかもしれないと感じた、あの時と似たような気持ちになる。


 見あげてくるぬいぐるみの視線を受ける。くりくりした瑠璃色の瞳はいつもと同じはずなのに、どこか余裕を失った声色のせいだろうか、瞳も不安でゆれているように見える。

 

「魔法がとけて、かわいくないパルムになってしまったら、いやですか?」

 

 パルムの口調は、冗談を言っているようには聞こえなかった。


 リーゼロッテは口を少しだけ開けたまま、浅い呼吸をした。言葉は出てこなかった。


 パルムは重ねた。


「僕にとってあなたとすごした日々は宝物です。その気持ちにうそはありませんし、どんな姿になろうと心は変わりません。あなたのことが大好きです。この姿が変わっても、友達でいて欲しいと願っています」


 リーゼロッテは自分なりに、彼の言葉を理解しようとした。

 魔法がとけて、かわいくないパルムになるって……それはどういうことだろう?


 いままでに「魔法がとけてかわいくなくなった人」を見たことがない。

 おとぎ話の中でなら、そんな出来事もあった気がする。でも、逆だ。魔法のとけたお姫様や王子様は、美しい元の姿に戻ってしあわせになっていたはずだ。


 パルムの声とまなざしがいつになく真剣なのも、じわりじわりと焦りを加速させる。その焦燥が、より思考をまとまらなくする。


「えっと……」


 はやくなにかいわなくちゃ。


 でも……。


 愛らしいパルム、やさしいパルム、ふわふわパルム。

 大好きなその姿が見られなくなってしまうの……?


 いやだ。いなくなるなんて絶対にいや。

 

 でも、いなくなるとは言わなかった。姿だけが変わるのだと……。


(どういうこと?)

 

 かわいいぬいぐるみとかわいくないぬいぐるみなら、かわいいほうがいい。

 だけど、パルムはただのぬいぐるみじゃない。

 世界にただひとりのパルムだ。リーゼロッテがそうであり、アリーシャがそうであったように。エステルやカティヤやミアだって、たぶんそうなのだ。

 

 それは、なぜだろう? どういうことなのだろう?


 答えがつかめそうで、でもぼやけた思考はいまだちゃんとした言葉にならなくて、リーゼロッテは目を伏せた。あまり減っていない紅茶を見つめながら考える。 


 パルムの魔法が解けて姿が変わって……変わるものは……。

 そして、変わらないものは……?


 胸の中にうずまく感情を懸命に追いかけて、言葉にしようとした。パルムの不安を消してあげたかった。そんなこと、なにも気にする必要はないのだと。

 絶望の淵から明るいところに引きあげてくれて、絶え間なくリーゼロッテを元気づけてくれた大切な友達に、そう伝えたかった。


 だけど、それは簡単なことではなかった。身近なひとの姿が消えるという想像は、幼い少女に死を連想させた。

 親しみのあるパルムの姿が消えてしまうことを考えると、リーゼロッテの脳裏には母の死の前後の光景がよぎり、自然と身体に鳥肌がたっていた。怖い。どうしよう……。


 ちがうのに、パルムはしんでしまうわけじゃないのに。

 でも、こわい……。


 沈黙は、いつまでもはつづかなかった。


 パルムが、ふふっと笑い声をたてた。

 張りつめていた空気が一気に緩んだように感じられた。


「変なことを言ってごめんなさい。ちょっと聞いてみたかっただけなんです」


 紅茶がさめてしまいましたねぇ、とパルムは言った。のんびりと。


「クッキーはもういいですか? このお皿の小鳥の絵は、本物そっくりで愛らしいですね。さすが、このおうちの食器はどれも見事なものばかりですね」


 そんなことを語りながら、クッキーののった皿に近づいて、覗きこむように見つめている。


 枝葉の間からこぼれ落ちてくる陽射しがまぶしい。

 空色のぬいぐるみの動作のひとつひとつが、やけにゆっくりしたものに感じられる。

 白いテーブルに落ちる木漏れ日を、チラチラさえぎるパルムのちいさな影。

 そんな光景が数枚の絵のように、リーゼロッテの脳裏に焼きついて、いつまでも残りつづけていた。


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