第五話 解析 弐

かんなは、唐突に現れた揺らめく人型の影を見て、草履ぞうりの縄を解こうとしていた手を止めた。

人間ではない。影は炎のように揺らめき、小間物屋の商品の陳列棚が後ろに透けて見える。

かんなは草履の縄を解くのを止めて、素早く立維の側に下がった。耳飾りイヤホンに手を当てると、司令官コマンダーに報告する。

司令官コマンダー、たった今妖怪マルウェアが出現しました」

『おう、場所は』

「小間物屋の陳列棚の前です。先ほど、丁稚が隔離装置サンドボックスを落とした拍子に、メールが外に出てしまったのが原因かと」

妖怪マルウェアの種別は』

「分かりません、確認します」

そうかんなが応えた時、人型の影を中心に風圧のようなもなが周囲に発生した。

帳場にいた市破はヒイと声を上げて立維の方に飛ばされ、土間に落ちて尻餅をついた。

雁の小さな体も軽々と飛ばされて、家の柱に激突した。そのまま意識を失ったかのように床に崩れ落ちる。

立維は上半身を低くして風圧に耐えていた。すかさず右半身の体勢で抜刀する構えをとる。

そして左手を刀の鞘に添えると、つばを親指で押し出した。

一瞬、鞘から様々な色の細い光が四方に放たれ、刀の刀身が少しだけ顔を覗かせる。

『魔法安全装置を解除します』

少し雑音の入っていたが、きれいな女性の声が刀の柄から聞こえ、かんなはギョッとして立維の腰まわりを見た。

「立維さま、それは」

「その話は後だ。どうすればよい、を」

鯉口を切った状態で不気味な影を見据えたまま、立維はかんなに聞いた。

『おい動向調査員リサーチャー、状況を報告しろい』

かんなは逡巡した。妖怪マルウェアの種別は不明、もう調べている余裕は無い。しかももし新種の場合には対処方法が分からない。

かんなは立維を見た。立維は刀の安全装置を外した。己の魔法は武士にとっては秘中の秘だが、それを考慮しても、この危険への対処を優先したのだ。

かんなも覚悟を決めた。

司令官コマンダー、今から立維様が戦闘に入ります。立維様、お願いします!」

立維は頷くと、ついに刀を鞘から完全に抜いた。切先を上に向けて顎の位置まで柄を上げる。先ほどの右半身から、逆の左半身に構え直す。

「リバース…」

八相はっそうの構えをとった立維はそう呟くと、柄の縁が発光し、その光で刀身が薄く輝いた。

開店準備中の少し薄暗い小間物屋の部屋の中で、立維の刀身の光が怪異を浮かび上がらせていた。

「エンジリアニング!」

立維が魔法を発動させた瞬間、かんなの視界は白と黒の二色となった。そして周囲の急な変化に目眩のようなものを感じた時、周囲は何事も無かったかのように元の状態に戻っていた。



かんなは以前、口入れ屋の婆から不審なメールの調査をこなしている牢人がいると連絡を受け、密かに立維の身辺調査を行なっていた。

しかし、立維がどのような手段で調査をしているのかは、不明なままだった。

今回の事案対応でインシデントレスポンス、立維の調査方法を目の当たりにできるかもしれない、そう思っていたかんなは、立維の魔法の発動を食い入るように見ていたのである。

しかし、先ほど発動したと思われる魔法は、何の効果があったのか。

目の前の妖怪マルウェアは倒れることなく蠢いているし、周囲を何か変化させたようにも見えない。

「立維様…?」

「なんだ」

「あの〜、妖怪マルウェアを倒せたのでしょうか」

「あれはまるうえあと呼ぶのか。もちろん、あの通りピンピンしておる」

かんなは戸惑った。では全く効果が無かったのか。

だが、立維は八相の構えを解くことなく、妖怪マルウェアを見据えて言った。

「かんな殿、これからあの妖怪マルウェアの動きを解析する。それがしもあのような怪異に使うのは初めてなので、協力して欲しい」

「動きを…解析?」

立維は頷くと、刀をへその位置まで下げて正眼に構え、切先を妖怪マルウェアに向けた。

「あの妖怪マルウェアは、いま目立った動きをしていない」

「はい、理由が分かるのですか?」

「おそらくは、外部との魔力通信ができていないからであろう」

「外部との通信ができていない…?」

いきなりの話に、かんなは理解できなかった。

立維は構わず説明を続ける。

「それと、先ほどの風圧だが、雁と市破は吹っ飛ばされたが、某は耐えられたし、かんな殿には届いていない。おそらくはこれがやつの攻撃の『間合い』なのだ」

間合い。侍ならではの考えだ。かんなは無言で頷くと話の先を促した。

「そこで、いまからやつの間合いを確認する」

そう言うと、立維は正眼の構えのまま、妖怪マルウェアとの間合いをじりじりと詰めていった。

半歩…一歩…そして立維の右足が板間に辿り着いた時、風圧が発生して立維の刀の切先が押し飛ばされた。

かんなが悲鳴を上げるが、立維は押された力を受け流し、右足と右上体を後ろに下げて左半身に切り替えると、上に流された切先をそのままに八相の構えに居直った。

「大丈夫、切先が吹っ飛ばされただけだ」

立維はふうと深呼吸をすると、刀を降ろして構えを解いた。

かんなはほっと胸を撫で下ろす。

と、同時に心に余裕ができたのか、かんなは司令官コマンダーへ状況報告を行っていないことを思い出した。

しかし、耳飾りイヤホンに手を当てて通話を試みたかんなは、耳飾りイヤホンから何の応答も無いことに気づいた。

「立維様、私の耳飾りイヤホンが故障したようです。立維様の方は魔力通話できますか?」

立維は事も無げに言った。

「いや、ここでは使えぬ」

「は、いま何と」

「かんな殿、すまぬがあまり時間が無い。彼奴あやつの倒し方を見つけるのが先だ」

立維はそう言うと、土間に置いてあった下駄を拾った。

「間合いは分かったが、攻撃速度が分からぬ。それをいまから確認するが、一番の問題はあの化け物の弱点だ。かんな殿、何か知恵はないか」

「は、はい…そうですね、風圧については、多分、魔力で空気の圧縮と展開の命令APIを組み合わせて実現させていると思います。他の妖怪マルウェアで似たような挙動を見たことがあります」

なるほど、と立維は呟くと、拾った下駄を妖怪マルウェア目掛けて投げつけ、それと同時に正眼の構えで妖怪マルウェアに突っ込んだ。

「突きいいい!」

立維は気合と共に草履を履いたまま土足で板間に上がり、左足で床を蹴ると、刀の切先を妖怪マルウェアの喉元に向けて突きを放った。

かんなに見えたのは、立維が投げつけた瞬間に風圧に吹き飛ばされた下駄と、切先が妖怪マルウェアの喉元まであと数寸というところで風圧を胸に受けてよろける立維の姿だった。

立維は右手で胸を押さえて呻きながら後退した。少し時間を置いて片手正眼に構えていた刀が更に吹っ飛ばされる。立維は刀を離さないようにかろうじて左手で握りながら、かんなの元に後退した。

「立維様、お怪我は」

「大丈夫だ。この『仮想空間』で某が怪我をすることは無い」

「仮想…空間?」

「そうだ。いまこの部屋は、某の仮想空間に閉じ込めている。この空間は外と完全に隔絶される。外からは入れないし、中から外にも出られない。この空間で起きたことは現実には無かったことになる」

かんなは土間に転がり落ちた市破を見た。市破は表通りに逃げ出そうとして、戸から先に進めずにもがいている。

かんなは鼓動が早まり、鳥肌が立つのを感じた。仮想空間。

かんなは自分の声が震えるのを自覚して言った。

「た、立維様…魔法とは魔力を使って様々な自然の法に従い、理を組み立てて造るもの。これはそのような物には見えませぬ」

「かんな殿、先ほども言ったが時間が無いし、ここでの会話や記憶は現実世界には残らぬ。それよりも、弱点は分かるか、動向調査員リサーチャー殿」

かんなは立維に『動向調査員リサーチャー』と呼ばれてハッとした。以前話してくれた司令官コマンダーの説明が頭をよぎる。

(『かんなよ、動向調査員リサーチャー事案インシデントの情報収集と、分析を担当する』)

(『てめえが事案インシデントを解決するんじゃあ無えぞ。裏方に徹し、組織としての解決に貢献するのだ』)

かんなは改めて妖怪マルウェアを見据えた。

(そうだ、今は立維様を信じて、情報収集と分析に徹底するのだ)

妖怪マルウェアは影のような体を揺らめかせたまま、先ほどから一歩も動いていない。

かんなはその妖怪マルウェアの全身の部位をひとつひとつ確認し、手のひらのような部位が他の部分よりも黒く、透き通っていないことに気づいた。

かんなは妖怪マルウェアの手のひらを、更に目を凝らして見た。薄い、板のような形のある物体が見える。これは以前の妖怪マルウェアでも見たことがあった。

「立維様、恐らくですが分かりました。妖怪マルウェアの右手の甲です。そこに板のような物体があります。それに妖怪マルウェアを動かすための魔法が注入さインジェクションれている可能性があります」

「右小手か」

「はい、それを破壊してください」

「あいわかった。最後にそれを試すのが限界だ。かんな殿、そこに残っている下駄を彼奴に向けて投げてくれ。それを合図に仕掛ける」

かんなは頷くと素早く下駄を手に取った。立維は太刀を左手で持つと、右手で脇差の柄を握り、一気に鞘から引き抜いた。そして左半身の体勢で右手の脇差で片手脇構え、左手の太刀で片手正眼の構えを取った。その体勢でかんなの合図を待っている。

かんなは意を決して立維に合図した。

「行きます。参、弐、壱」

そして下駄を真っ直ぐに妖怪マルウェアに向けて投げつける。

その下駄が妖怪マルウェアから放たれた風圧に弾かれた瞬間、立維は右手の脇差を宙に放り投げた。

脇差は弧を描き、妖怪マルウェアの頭上に落ちてゆく。かんなは脇差の行方に気を取られていたが、視界の端で立維が八相の構えから一気に妖怪マルウェアに向かって飛び出すのに気付き、慌てて立維の動きを目で追った。

一瞬間を置いて、妖怪マルウェアが頭上に落ちてきた脇差を風圧で弾き飛ばす。

(立維様っ!)

その時、立維は既に妖怪マルウェアの目の前に肉迫していた。

(いけっ!)

かんなは心の中で叫んだ。

あの間合い、打ち込みの構え。必中の体勢だった。

「小手えええ!」

立維の気合に、かんなの身体が震える。

振り下ろされた太刀は、見事に妖怪マルウェアの右手の甲を直撃した。

次の瞬間、太刀が直撃した部分がボロボロと崩れ落ちてゆく。

それと同時に、妖怪マルウェアの揺らめく影全体が薄まり、音も無く霧散した。

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