第158話 ごめん、ちょっと遅刻した

 アスカががっくりと首を垂らしてその瞬間を覚悟した時、ビチャビチャという水が撥ねる音がアスカの意識を呼びさました。

 なんの音?。

 アスカが顔をあげた。

 そこに右腕を力強くつきあげているヤマトの姿があった。

 その手には根元から引きちぎられた静脈チューブ。切断面から青い血がふきだし、床にあふれ落ちていた。

「タケル……」

 ヤマトはアスカのほうをむくと、懸命に笑顔をつくってみせた。


「助けるって、誓ったろ」


 アスカは不思議そうにヤマトの顔を見た。

 なんでタケルはここにいるの?……。

 ヤマトのからだは全身ずぶ濡れだった。超撥水生地の制服には水滴ひとつなかったが、生身の部分は濡れそぼって、髪の毛からは水滴がしたたっていた。

 さっき聞こえてきたブライトとのやりとり……。

 あぁ、タケルは外のタラップをつたって、ここまで昇ってきたんだ。

 ヤマトは静脈チューブを無造作に放り投げると、アスカの操縦席に近づき、頭上にあるいくつかのスイッチを押して、手元のコンソールパネルを操作した。作業をするヤマトの顔が、すぐ目の前に近づいてくる。

「タケル……、あんた、遅すぎよ」

 まだすこし意識がはっきりしなかったが、アスカは精いっぱい虚勢をはった。

「ごめん、ちょっと遅刻した」

 アスカの両手首に刺さっていた穿刺針が抜けていく。

「これで、もう大丈夫だ」

 ヤマトがアスカの方へ手をさしだした。

 アスカはあたり前のようにその手に手をおくと、シートから体を持ちあげた。

 意識はしっかりしていたが、からだはまだおぼつかなかった。

 アスカは床に足をつけるなり、よろめいてその場に崩れおちた。あわててヤマトがその体を支えようとする。が、受けきれず、ふたりは抱きあったまま床に倒れ込んだ。

 気づくと、ヤマトにうしろから抱かれるような状態で、アスカはからだを預けて倒れていた。床からつたわる下半身の冷たさと、ヤマトの胸に抱かれた上半身の暖かな感覚が、アスカにはとても不思議に感じられた。

 アスカは顔をあげた。すぐそばにヤマトの顔があった。心配そうな目をしていた。

 アスカは心のなかで臍を噛んだ。

 自分はそんな思いを受けるだけの人間じゃない。あなたとの誓いを破ろうとした——。 ただやりそこねたから、今、ここにいる。

「大丈夫?」

「あ、あったり前でしょ。ちょっとふらついただけ……」

「よかった」

 そう言うと、ヤマトはアスカの頭に手をそえて、やさしく自分の胸におしあてた。

 ヤマトの鼓動がきこえてきた。

 とても早い鼓動。

 平静を装ってるが、ヤマトが心臓が張り裂けんばかりの勢いで、自分を救いにここまで駆けあがってきたのだとわかった。

 ヤマトがおだやかな目でアスカにほほえんだ。

「ねぇ、タケル……」



「もう、泣いていい?」



 ヤマトがやさしく頷いた。

「アスカ、よく我慢した」


 とたんにアスカは大声をあげて泣き出した。ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちるのをとめられなかった。


「あたし……、お兄ちゃん、殺しちゃったぁぁぁぁぁ……」


 ヤマトはなにも言わなかった。アスカを抱きしめる腕に、ぎゅっと力をいれただけだった。

 

 アスカはヤマトの胸に顔をうずめて、ずっと、ずっと泣き続けた。

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