私は動物園を楽しみました。

 現在地、俺の住むアパート:グリーンハイツの門の前。

「女王の面倒を見て下さって、ありがとうございました」

 門の前で俺たちを待ち構えていた美女が頭を下げた。

 彼女はなんというか……”妖艶”という表現がぴったりの女性だ。

 動物園で大いにはしゃぎ、そして到着するなり眠ったカトレアさんを抱っこして微笑んでいる。

「あ……いえ。どういたしまして……」

 どぎまぎする俺の挙動不審さを前にしても、にこやかな表情を崩さない。

「お父様にお姉様。ひいてはミズリ様にもお礼申し上げます」

 続けて、傍に居たオウキさんたちにも会釈する。

「近いうちに遊びに行くって伝えておくれ」

「私も、チョコ贈るって伝えてほしいな」

「どういたしまして」

 女性は『では』ともう一度お辞儀して――巨大な獣のような姿に変わり、一瞬で消え去った。

「……」

 その場には、一陣の風が残る。

「ほんとに魔獣だったんですね……」

「あの人はメリザさん。サリーのお父さんの代から王家に仕える世話役なんだよ」

 オウキさんがそう言えば、ミズリさんが呟く。

「俺と同い年かそれくらいだったかな?」

 年齢が全く分からないので、基準にならない。



「それでは楽しい勉強たーいむ。頑張ろうね」

「……おー」

 楽しい時間の終わりである。

 翰川家のリビングをお借りして、数学の教材を広げている。

「あっはっは、目が死んでる」

「オウキさんは楽しそうですね……」

「楽しいよ? ウチの研究生を思い出す」

「……どんな感じなんですか」

「好奇心が強くて多趣味。サークル活動、課外活動で活躍する子が多いかな。で、本業の大学で単位取り忘れて留年寸前☆」

 自分の生徒が留年瀬戸際だという話をしているのに、なんて楽しそうなんだろうかこの人。

「止めてあげましょうよ……」

「俺はちゃんとメーリングリストと連絡掲示板で注意を出してるよ。見もしないのが悪いよね。ちゃんと追試の連絡も回してるのにあいつら見ないんだよ」

 ……ちょっと恨んでいるらしい。

「ペーパーテストもあるんですね」

「そりゃああるよ。文系理系とは内容が違うけど」

 想像がつかない。

 中高の技術・家庭科・体育あたりのテストのようなもんだろうか?

「基本的なデッサンとか、構図とか書いたり……美術史の講義受けたらそれもあるかな。美術工芸に必要な基礎学習だよ」

「美術大みたいだ」

「作品を作るとなれば、自分の頭の中を紙に描く技術は必ず役に立つから。その他は、魔術工芸というだけあって魔法陣の基礎とか、かなあ」

「魔法陣」

 ふと目線を下に落とすと、手元の数学の教科書にはシンプルな図形で作られた魔法陣が描かれている。因数分解に使うらしい。

「それは、シェルたち魔法使いの天才組のを採用したやつだね」

「何でこんなまどろっこしい……普通に因数分解すればいいじゃないすか」

「お絵描き覚えるだけで数式がほどけるんだから、そりゃあ教える方にとって簡単でしょうよ」

「…………」

 そんな理論で、俺は今まで……

「ま、まあまあ。気を取り直して数学を頑張ろう。ひぞれとリナリア、シェルにそれぞれ教わってきたなら基礎はばっちりなはずなのだし」



 練習問題を解いては、それに関連する寛光の過去問を解いてみる。

 大問1は関数と微積分。そこそこ解きやすかった。

 計算ミスと解く手順のミスで答えは間違ってしまったが『これはもう慣れだね。考え方はよくできてる』と言われたので安心する。

 大問2のベクトルもそれなりに解きやすかった。これはほぼ満点を取ることができた。

 大問3――確率。

「……オウキさん、確率の問題がものすごい独特なんですが」

「ああ、確率は毎年独特だ。でも、『ギャンブル性最高』って呼ばれてるそれを攻略すれば他の受験生と差をつけられるよ!」

「いえあのこれ。なにこれとしか言いようがない……」

 問題文を読み上げよう。

『大問3:1年を通してあなたが昼食にご飯を食べている確率は?

 なお、ここで言うご飯とは、白米・玄米・五目米等一般的に米とみなされるものとする。

 注:米に当てはまるかわからなかったら手を挙げて試験官に質問すること』

「…………」

 オウキさんが沈黙する。

 しばし悩んでから、顔を上げた。

「光太は確率の意義ってどこにあると思う?」

「え。……サイコロとか、くじ引き?」

「それも確率だ。確率が一定に成り得る確率だ。何が起こるかは決まってる」

「?」

「じゃあ、交通事故に遭う確率ってどうやって出してると思う?」

「……………………。日本の人口で、事故った人数を割る?」

「でも、事故の人数は年代や地域によって変動していくし、人口もそうだ」

「……テレビとかで、確率は出てますよね」

「実を言えばキミの方法でも出せるんだけど……超厳密にいえば、すべての日本人を一斉に観察して、期間を決めて事故の回数を見ないと完全な確率にはならないよね」

「無理じゃないです?」

「うん、無理。だから、統計的に確率を出す。統計とは、大雑把に言えば『全人類に対して調べなきゃだけど、出来ないから何人かをランダムで抜きだして確率を求める』ことだ。この問題で測りたいのは、『統計に挑む心構えがあるか?・未知の問題に対して様々なアプローチが出来る手数はあるか?』とか、そういうことじゃないかな」

「なるほど!」

 この問題では、自分が昼ご飯に白米を食べている確率を統計的に求めるという訳か!

「全くアプローチが思い浮かびません!」

「だよねえ。その問題、4割くらい白紙だったし」

 じゃあ何でこんな問題出したんだ。

「白紙じゃないだけで10点くれるんだから挑めばいいのにねー」

「予想以上にサービス問題……」

 寛光の数学がわからん。

 寛光大学に所属するオウキさんですらツッコミを入れながら、寛光の問題に挑んでいく。



 数学が終わり、物理に入る。

 物理に関しては翰川先生が常日頃はしゃいで教えてくれることもあって、意外と正答率が高くて自分で驚いた。

「基礎が出来てるね。これなら、コードの計算式にそろそろ入れるんじゃないかな」

「う……必要なんですか」

「必要だよ。物理の点数の半分がそれに費やされるんだから」

 彼は『それに』と含みを持たせたような表情とセリフで言う。

「良いことがあるよ」

「?」


「キミが『勉強したいです』って言うだけで可愛いひぞれが見られる。ましてや先に予習をしていたって知れば、ひぞれは究極可愛いよ」

「頑張ります!」

 反射的に答えた。



 あれこれと教わっているうちに、聞いていなかったことを思い出した。

「オウキさんの神秘分類って、何ですか?」

「そういえば教えていなかったっけ」

 現在、休憩時間中である。

「俺のアーカイブはリソースだよ。科学と魔法の両面を持つ神秘だ」

「具体的に言うと……」

「モノに魔法を根付かせたり、科学と魔術を共存させたものを作るのが得意な神秘。……キミが知ってるかわかんないけど、折り畳み自転車は俺と親戚が開発したんだよ」

「! 知ってます。持ってますよ、それ!」

「わー、なんだか嬉しいな」

「今の若者のほとんどが持ってると思います。なんか、こっちこそ開発者さんと会えるなんて……感動しました」

「いやいや……製品の形まで持って行ったの他の人だし。俺は設計図と原理を放り出しただけだよ」

「俺にとっては感動だったんですよ」

 手の中に納まる神秘の感動は忘れられない。

 自分が使える最も身近な神秘である折り畳み自転車は、高校の入学祝に母親が買って送ってくれたものだ。

「あ……そっか」

 オウキさんは照れ臭そうに笑った。

「……若者に感動を与えられたのなら、光栄だね」



 空が夕焼けに染まり始めたころ、オウキさんがふと呟く。

「ミズリ、遅いね」

「……ですね」

 動物園から戻ってきてすぐ、ルピナスさんは『ルピネちゃんに会いに行く』といそいそと出かけて行ったし、ミズリさんは『ひぞれのところに行ってみるよ』と出かけて行った。

 俺たち二人は留守を預かっている訳なのだが……帰ってこない。

「ルピィは、ルピネちゃん大好きだから帰ってこなくても心配ないけど。……ひぞれがリナリアのところに行ったままなのが気になるなあ」

「……」

 ルピネさんはしっかりものだから、娘さんを任せて大丈夫だという信頼があるのだろう。

 息子さんも気にかかるのかな。

「サリーから預かった鹿肉届けたい……って、ごめん。関係ないことべらべら喋って」

「大丈夫ですよ。俺は翰川先生と向き合ってるんですよ?」

 完全記憶の天才は、脱線をつづけた末に本題に戻ってくる話を毎日している。

「頼もしい」

「ついていけはしませんが、まあ、フィーリングで……」

「きっと、キミは寛光でもやっていけるよ」

「嫌な予感がしてます」

「だろうねー。魔工は俺の親戚の巣窟だし、数理はひぞれとシェルたちと類友」

「……ぶ、文系は?」

 俺が狙う学部は社会学部だ。歴とした文系である。


「…………。人生、生きてればいいこともあるよ」

「うわああ絶対ダメなパターンだこれ‼」

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