私は動物園に行きたいです。

「ところで光太。お腹空いてない?」

「……あ」

 ミズリさんにそう言われて胃のあたりに意識がいくと、空腹を自覚する。

 どたばたしているうちに朝食を食べ忘れていた。

「すみません、ちょっと家戻って食ってきます」

「いや。俺作る」

 カトレアさんがソファから立ち上がる。

「ミズリ、後でお金渡すから食材くれ」

「いいよ」

「ちょっ……だ、大丈夫ですから。そんな」

 俺は軽い気持ちで翰川家に押し掛けて来ただけだ。申し訳ない。

「お詫びだ。受け取ってくれよ」

 カトレアさんがふんわりと笑う。超美人。

 あの暴力的なスパルタ数学マシーンと同じ顔なんだよな、この人。

 先入観なく顔を眺めたのは初めてかもしれない。 

 ぼうっとしているうちに、カトレアさんとミズリさんはキッチンに立って食材の下ごしらえを始めた。

「すぐ出来るから待ってろよ」

「……カトレアちゃんは、世話をかけても面倒見が良いね」

「若者が空腹でいるのはよくない」

「ああ、それって、すっごく悪竜兄弟らしいセリフだ」

「うっせーバーカ」



 用意されたのは紅葉鍋。口には出さなかったが、『朝から重い』と思っていた。

 しかし――

「……! 美味い」

「良かった」

 野性的な味もあるが、ピリっとした辛味と香草が互いを引き立て合っていることで帳消しだ。

 むしろ、食欲を刺激するやみつきの味わいに仕上がっている。

 鹿肉こそ強い味付け。一方で、鍋に入れられた他の食材は噛めば出汁の風味が優しく広がる。

 その対比が新たな美味しさの発見につながるのだ。

 葉野菜・根菜のみならず、トマトまで入っていて美味しい。

(……ちょっと夏バテ気味だったから、嬉しい、かも)

 人が作った料理を食べることは新鮮で、自分にとっても勉強になるものだ。

 鍋にまでは鹿肉の野性味は染みていない。

 おそらくこれは、肉に先に火を通してから、絶妙なタイミングで鍋に投入したことによって、味のバランスを保ったお陰なのだろう。

「鹿肉ってもっと生臭いのかと思ってました」

「処理をきっちりして、調理方法を工夫すれば酷くならない。牛・豚・鶏だって、手順を踏んで処理しないと血生臭くなるんだぞ」

「じゃあ、スーパーの奴とかもきっちり処理してある肉ってことですか」

「うん。精肉に関わる人たちに感謝しろ」

「へえ……」

「もちろん、牛豚鶏は家畜用に世代を重ねてきてるから、野生に住む原種に近い奴らとは違うんだけどな」

「鹿は野性そのままだから……もしかして、鹿も家畜にしたら、味から野性味が消えてくんですかね?」

「食べさせてる餌とか、飼育法の違いもあるかな。雑菌の心配も。……今回は処理したのをパックに入れて持ってきたからだいじょうぶ」

「なんか、ありがとうございます」

 最初は弟さんや翰川先生たちに食べさせるつもりで持ってきたのだろうに、俺のような他人がご馳走にあずかるとは。

「喜んでもらえたのなら嬉しい。それに、けっこう量があるんだ。こっちの世界で勝手に仕留めたら面倒くさいから、俺の側で仕留めて来たぞ」

 法規制を『面倒くさい』と捉えるあたりに、妖精さんの気配を感じる。カトレアさんはオウキさんから多大な影響を受けたのだろう。

「処理してこっちに移動してきたんだけど……よくよく考えたら、リナの家に女の子いるだろ」

「ああ、京ちゃん? 聞いてたんだ」

「うん。頭見せたら怖がらせるかもしれないと思って、ひぞれの滞在場所を目指した。あいつなら喜ぶと思った」

 その配慮が出来るのにどうしてこんな感じなんだ。

 俺だって、鹿の頭が怖くないわけではなかったのに……

「ひぞれと俺の滞在場所、ここだよ」

 ミズリさんが苦笑している。

 この人の苦笑い、よく見るなあ。それだけ苦労しているということでもある。

「ひぞれの匂いがついてる光太の部屋に来た。間違えたんだ」

「……さっきから『匂い』って言ってますけど、そんなに人の匂いつきます?」

「カトレアちゃんの嗅覚は獣と同等かそれ以上。キミの家に家庭教師として行き来するひぞれの匂いはとっても目立つんじゃないかな」

「……だったら、見ず知らずな俺の匂いもわかったんじゃ?」

「わかったけど。どうせ、ひぞれとミズリを家に招き入れる奴なんてロクな奴じゃないんだろうな……って思って入った」

「物凄い風評被害来た」

「俺も傷つくんだけど……」

 俺とミズリさんがそれぞれ抗議すると、カトレアさんが不服そうに唇を尖らせる。

「うるせえ。ひーちゃんは俺の友達だ」

「俺の奥さんだよ」



 話題が脱線し続けるので、僭越ながら俺が話をまとめる。

「リーネアさんとは連絡が付かない、翰川先生はいない。……その他に御用は?」

 カトレアさんが嬉しそうに満面の笑みを見せる。

 笑顔のインパクト半端ない。

「あるぞ! 動物園を見たいんだ!」

 動物園。

 道外でも有名な動物園と言えば旭川にあるが、札幌にも動物園はある。

「……」

 思わずミズリさんを見ると、彼は頭痛をこらえるように自分のこめかみを指でマッサージしていた。

「……カトレアちゃん」

「何だ、ミズリ」

「動物園って鹿がいるんだよ」

 そりゃそうだ。

「食べ放題か」

 そうですよね。

「連れてきたくないなー……」

 気持ちが痛いほどわかる。

「くまさんは? くまさんいる?」

「……見たいの?」

「うん。くまさん美味しい。トラさんとライオンさんはあんまり好きじゃない。お猿さんもいまひとつ。お馬さんはまあまあ好き」

 カトレアさんの声音は淡々としていながら甘さがあって、口調と合わせると非常に幼く聞こえる。声質は、翰川先生に少し近い。

 口調と動物へのさん付けと内容のギャップが物凄いことになっているが。

 あと、トラとライオンとは捕食対象に入る動物ではないと思う。ないよね?

「いい施設があるんだな!」

 ミズリさんは完全に沈み切っていた。

 いつも穏やか朗らかで冷静なミズリさんにしては、なかなか新鮮なリアクションである。

「……この人大丈夫なんですか。ペットショップに居る動物すら食べそうなんですけど」

「さすがの彼女でも犬猫は……」

「可食部が少ないし、美味しくないからわざわざ食べない。まったく、だから素人は」

 俺はその道に関して一生素人で構わない。

「……食べたことあんのかよ……」

 ぼそりと呟くと、カトレアさんが首を傾げた。

 仕草がシュレミアさんそっくりだ。

「お前はないのか?」

「何の期待されてんの、俺?」

「牛も馬も羊もないってなると、しぶとく生き延びやすい小動物の需要が伸びる」

「極限過ぎる」

 現代社会でさすがにそれはない。

「きっとお前ならあるって思ってた」

 え、俺ってなんだと思われてるの?

「? お前人間なの?」

「⁉」

 物凄く驚いた。

「に、人間ですよ! 紛れもなく、100%人間です‼」

「うっそだあ。4%くらい混じってるだろ」

「いやいやそんな――って、4%ってむしろどうやったら混ざる⁉」

 遺伝子の神秘コワい。

「……カトレアちゃん」

「ん?」

「静かに良い子で大人しくしててくれたら、美味しいチョコアイスをあげるよ」

「! わかった、頑張るっ」

 チョコレートが好物らしい。喜ぶ姿が可愛い。

 ソファでうきうきするカトレアさん。

 アイスのカップを受け取ってご機嫌に食べ始める。

「……どうするんですか?」

「…………。とりあえず、カトレアちゃんに話が通じる人に連絡してみるよ。光太は、タイミングを見てこっそり抜け出していいから」

「すみません……」

 心苦しいが、俺も受験生。

 小樽へ旅行にも行ったし、これ以上の遠出は難しい。

 話し合おうとしたところで、窓から声と人影が飛び込んできた。

「サリーちゃああああん! やっぱり可愛いね‼」

「わ」

 その人影は窓から飛び込んで来るや否や、一足飛びにカトレアさんに抱き着き、頬ずりを始めた。

 髪色はエメラルド。瞳も緑。

 鈴を転がすようなこの声音――オウキさんの娘:ルピナスさんだ。

「お姉ちゃん、こんにちは」

「こんにちは!」

 カトレアさんにとって、ルピナスさんは義理の姉。

「み、ミズリさん。話が通じそうな人が来ましたよ!」

「ルピナスからカトレアちゃんには話が通じるけど、俺たちからルピナスへは通じないんだよ……‼」

「駄目だった!」


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