第七十五話:多野中という執事。

 人魚泡海は焦っていた。


 人影を見つけるたびにルートを変え、出来る限りの戦闘行為は避けて進んでいたが、どういう訳か途中で支部長に遭遇してしまったのである。



「落ち着け…落ち着け私。まだ私が裏切っているのは気付かれていない筈…それなら…」



 物陰に隠れながら多野中と有栖は息を潜めているが、このままでは見つかってしまうだろう。一つ角を曲がれば逃げ場は無い。それならば。



「多野中さん、私があの男を引き付けてここから遠ざけるから有栖さんを連れて目的地までお願いできるかしら?」



 多野中は迷う事なく「かしこまりました」と呟く。



 泡海は息を整え、何事もなかったかのように角から支部長の前へと出て、「あら、支部長がどうしてこんなところに?」と少し驚いたような声で話しかける。



「…君か。君こそどうしてこんな所にいるんだね?任務はどうした?」



「勿論遂行中です。今上で彦星アルタがライブをやっているのをご存知ですか?」



「彦星…あの天使憑きか。そういう報告は受けていなかったが…そうか、それで支部内が騒がしかったんだな。何人か持ち場を放棄していると報告があったから見回りにきたのだが」



「確かにここの人達の中にもミーハーな人はいますからね。でもご安心ください。その天使を手に入れるための作戦です」



 支部長は顎に手をやりながら泡海の話を聞いている。



「というと?」



「私は既に彦星アルタと行動を共にするほどまで接近する事が出来ました。ここでのライブを進言したのも私です」



「…なるほど、それに乗じて天使を捕縛しようというわけだな」



「はい。しかしながら天使の力は強大で、そのままでは奪う事が出来そうにありません。なので狙うならばライブ後かと。アルタは天使の力を行使して歌を歌っていますから私といえど近くで聞いていたら心を惑わされます」



「ふむ。それでひとまず中に避難しいているわけだな。そういう意味では会場をこの上にしたのは正解だろう。いい手際じゃないか。このままうまく捕縛出来れば…あの事は誰にも漏らさないと約束しよう」



「ありがとうございます。既に表にでてしまっている人達は当分アルタに夢中になってしまっているでしょう。支部長もあまり地上には近づかないようお願いします」



「そういう事ならライブが終わるまではおとなしくしていた方がよさそうだな」



 ここまでは概ね泡海の思惑通り事が進んでいる。



 後は支部長がおとなしく一人で自室に戻ってくれれば完璧だったのだが、そういうわけにはいかなかった。



「君もまだ時間があるようだし今この時点までの報告を詳しく聞かせてもらおうか」



「でしたら支部長室まで同行いたします」



「うむ」



 だんだんと遠くなっていく二人の足音を聞きながら有栖は心細さに震えていた。



「大丈夫です。お嬢様は私がお守りしますよ」



「…本当にこんな所まで私がきてよかったのかしら…足手まといにしかならなそうですわ」



「そんな事はありません。お嬢様にはお嬢様の役割、そして必要性が必ずある筈なのです。危険は私が払えばいいだけの事。後になってお嬢様が来ていれば、などという後悔をしないためにもここに来ている事は意味のある事なのです」



 有栖にはわかっていた。これが多野中の、自分の執事としての優しさである事を。



 だが、ここまで来てしまった以上足を引っ張る以外の事もしなければ。そう言い聞かせて立ち上がる。



「分かりましたわ。ならば私達がすべき事をしましょう。それで…多野中、あの…道案内は可能ですの?私には今ここがどこだか…」



「人魚様は不用意な戦闘を避けるために迂回を繰り返していましたからね。現在地が分からなくなっても不思議はありません」



 正直言うと有栖には角を二つほど曲がった時点で現在地などとうに見失っていたのだが、それは言わなくてもいいだろう。



「助かりますわ。では先へ進みましょう」



 多野中の先導によりさらに奥へと進むが、やはり途中でやむを得ず警備のある場所を通過しなければいけなくなる。



「お嬢様は少々ここで待っていて下さい」



 そう言い残しゆっくりと、自然体で多野中は警備しているエージェント二人の前へ出る。



「警備お疲れさまに御座います」



「誰だ貴様!」



「私は多野中と申します。先日から支部長様の身の回りの世話をさせて頂いておりますしがない執事です」



「…執事ぃ…?お前聞いてるか?」



「いや、そんな話は聞いてないが」



「それはそうでしょう。しかし私が執事なのは本当で御座います。これを見て下さい」



 そう言って多野中は疑うエージェント達に懐から出した手帳を見せる。



 多野中の手元を二人が覗き込んだ瞬間、その手帳を持った手を振るう。





「お嬢様、もう大丈夫ですよ」




 多野中の声に呼ばれて有栖も角から顔を出すが、有栖には目の前の光景が信じられなかった。


 少し会話をしていただけだった筈なのに黒服の二人が地面に倒れている。



「…多野中、いったい何をしたんですの?」



「なぁに、少々顎を払って脳震盪を起こさせただけですよ」



 そう言って何事もなかったかのように笑う執事に、頼もしさと、そして得体のしれない怪しさを感じずにはいられなかった。



「あ、貴方いったいいつそんな事出来るようになりましたの…?」



「ほっほっほ。驚かれるのも無理はありません…ただ、このような荒事には執事になる前にいろいろと縁がありましてね。ご主人様に雇って頂いてからはこんな力は使う事もありませんでしたが、いやはや何が役に立つか分からないものですな」



 とりあえず有栖はこの執事の過去についてはあまり詮索しないようにしようと心に誓った。


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