第78話 Sink

 行く先々が曇天に染まっており、雲は時にうねりをあげ、あらゆる形を取る。まるで海のようだ。今がいつでどれほどの時が流れたのか、時間の感覚を失いつつあった二人の男女。常に背後から迫る『死』という咆哮と隣り合わせ。生きているという確かな実感を噛み締めて彼女達は傷だらけの身体を引き摺るように…ただひたすら北を目指す。


「はぁ……はぁ……何…ここ」


 森林地帯を抜けて更に北上しつつ標高の低い場所へと下っていき、たどり着いた先は湿原地帯だった。普段から水気の多いこの地域は雨季によって沼地のような風貌に変わり果て、泥溜まりのような場所がはるか先まで続いている。気づけば背後から咆哮はもう聞こえなくなり、代わりにありこち虫やら蛙のような鳴声が聞こえ冷ややかな湿気が増す。皮肉にも今の泥沼の状況から抜け出すのに目の前に広がっている沼地へと足を踏み入れる。そこへ踏み入れることを躊躇する余裕さえ今の彼らにはなかった。


「綺麗事じゃ済まないな…。だがこの先を越えればミスティア圏外だ。停車駅のある街にたどり着けばどうとでもなる」


 ロゼットを安心させるために言い聞かせるように説明するが、どこか自分にも言い聞かせているようにも感じる。負傷し、歩く事さえままならない状態の彼の精一杯の強がりなのも彼女は分かっていた。それでも歩く事はやめなかった。


「ホントに大丈夫なんですか?」


「俺を信用してないのか?」


 ダリオが不満の声で答えるがロゼットは首を横に振る。


「そうじゃなくて…」


 彼女がこの状況でも自分の体を案じていてくれたことに精一杯の笑顔で答える。余裕はないが彼女の厚意には応えたいという彼の気持ちの表れだったのだろう。足場の悪いこの地帯では先ほどよりも進みが遅い。走ることもままならない二人の歩みではこの地を走破するのにどれだけの時を要することか。川のような流れもなければ『アクエリアスの湖』のような美しさも滑らかさもない。先も足元も見えない状態が今の二人の状況を物語る。朦朧とし始めるダリオの意識、彼の意識を保つために何とか会話で繋ぎ止めようとロゼットは生い立ちを話し始めた。


「私…実は『ここ』じゃないすごく離れたところで住んでいたんです。エンティアよりも少し賑やかですけど」


「商人達は…大喜び…しそうな場所だな…そんなに…遠くにあるのか?」


 頷いてみせるロゼット。彼女にとって恐らく知り得るありとあらゆる乗り物に乗ったとしても帰ることはできない。そんな風に思っていたのかトーンが下がり、それを心配したダリオが今度は彼女を励ますように続けた。


「心配するな…『実界』…このエンティアには…『飛行艇』と呼ばれる技術がビレフに…ある。そいつに乗せて…もらえさえすりゃ……どこだろうと…嬢ちゃんの住んでいた場所へ…」


 飛行艇があれば空を飛んでゆけると目を閉じながら彼は子供のような無邪気な笑顔で彼女に話す。ロゼットも笑顔ではあったが飛行艇がどんなものなのか想像を膨らませるが帰れるビジョンが見えない。この先もきっと帰る事などできないと彼女なりに理解していたのかもしれない。だがそれは諦めとは違ったもの、彼女自身諦めたくなどなかった。


 もう一度だけで良いから、クラスメイトや仲良く出来なかった委員長、親友の佳澄、そして両親達、みんなに会いたい。その気持ちだけは捨て去りたくなかったからだ。


 彼女の生い立ちからいつの間にかそんな身の上話をしていることに気づき、我に返った時にダリオの意識がないことに気づく。彼女は慌てて沼地で沈んでいない陸地の丘を探して彼を連れて行く。しかしその途中で沼地から何かが接近してくる気配を感じ取る。


「な…何…?」


 それは徐々に速度を上げて確実にこちらへと近づいてきた。何の変化も見られない沼地から突如として現われた魔物。ロゼットは察知していたために見てから反応する事が出来、咄嗟にダリオと共にかわした。レモラのような姿形をしている魚類系の魔物だが少し様子がおかしい。体のあちこちからあの触手のようなものが飛び出し、魚体の肉は腐り落ちかけて骨も剥き出している様相は『生ける屍』のようであった。


 数匹ほど集まり陸地でも体をくねらせて泥水の潤滑さですいすいと器用に動いて襲い掛かる。水中ほどではないにしろ俊敏な動きに翻弄しつつも人間相手に陸上では分が悪かったようだ。ロゼットの足へと食らいつこうとするが彼女はすぐさま動きに慣れ一尾、二尾と次々と捉えては両断。あっという間に撃退するが寄せ集められるように次々とやって来る。ダリオもマスケットでロゼットの援護を行うがで朦朧とする意識の中、手の感覚も失いつつあり正確に射撃ができず何尾か撃ち漏らしてしまう。それが災いして一尾がダリオの足に食らいついた。僅かに顔をゆがませ、マスケットで頭部を叩き割るもそれでも暴れ回り遂には彼の左足を食いちぎってしまった。


 悲鳴のような叫びを上げながらロゼットはダリオに向かっていく魔物へ一直線。一気に追い付くと体を回転させ剣舞のように切り裂き撃退する。魔物の体内から何匹ものワームのような白い魔物が這い出てくるが先ほどのロゼットの剣舞で貫通して致命傷を受けたのか弱々しい呻き声を上げて動かなくなった。絶望したような表情でダリオにふらふらと駆け寄り、その場で項垂れるように彼に寄りそった。左足は食いちぎられ、襲撃の時に受けた傷はもっと酷くなっているように見える。化膿しているのか傷口は腐食しかけダリオも食いちぎられても痛みがほとんどないと口を溢す。


「……嬢ちゃんこの先まっすぐ突き進めば…この曇天も晴れる。そうすればすぐ近くにおそらく途中乗車できる駅に辿り着く…あとはそれで王都に帰れ」


 まるでこの先は自分は行けないかのように話すダリオ。ロゼットの美しい銀色の髪も血と泥混じりでボロボロにやつれているように見え、彼女の表情も相まってとても走破できるような様子には見えない。そもそもこんな小さな少女にこんな湿原地帯を歩かせること事態間違いだと分かってはいたが、あの状況では彼にも選択の余地はなかった。彼女に全てを託しダリオはここで力尽きることをすでに覚悟していたのだ。


 だが―…


「…っ…もういい…嬢ちゃんここまでにしろ…よく…ここまで…連れてき…てくれた…」


 ロゼットは何も話さなかった。黙々と、ただひたすらに歩き続ける。その目はただ前へと見据えて、いや彼女にはその先の更に向こう側を見ているかのように理想を追い求めながらも今、自分に出来る事を死に物狂いで行おうとしているに過ぎない。レイティスの時もそうであった、何か出来ると思い上がって必死に剣を振るってそれでも守られた命がどれほどだったか。けれども彼女は諦め切れなかった。ほとんど覆いかぶさるような状態になっても、自分よりも数倍近くある重量のダリオを抱えて這ってでも一緒に行こうと歩みを止めない。


 そんな満身創痍の彼女を見ていられず自ら振りほどいて、倒れこむ。彼女はそれでも彼の手をとりただの一言も発することなく連れて歩こうとする。下唇を噛みながら、歯を食いしばるように彼女はいつかのレイティスでの事、ウェアウルフによって命を落してしまった集落の子供達のことを思い出しながら彼を連れて行こうと。


 ダリオは彼女の手を取らずに優しく重ねる。我慢で堪えていた彼女が目を丸くして表情が緩む。彼女も分かっていたのだろう。


「聞いてくれ…嬢ちゃん。俺は…この歳になっても……己のためだけに生きてきた。………生きるということの本懐を果たしても…」


「ダリオさん…傷が開いちゃうから、もうしゃべらなくていいから……」


 ダリオの体がもう持たないことはロゼットでも目に見えて分かっている。おそらく毒か何かを受けたのだろう。ただの化膿とは思えないような色合いに変色し、傷口の腐食は止まらなかった。ダリオは意識も朦朧とし、まともに話せる状態でもなくなり体の感覚そのものが無くなっていた。ロゼットの声も途切れ途切れで聞こえ辛くなり、風前の灯。


 それでも彼女には―…生きて欲しいという思いを込めて。


「俺は…生という…『本質』を理解しちゃいなかった」


 生の本質と言われロゼットは俯いて黙って聞いている。彼女にもその意味は分からなかった。こんな話を聞かされダリオも長くはないことを悟っているようであった。それでも、生きている限りまだ可能性はいくらでもある。だから「まだ―…諦めないで欲しい」と彼女はダリオの手を取って懇願するように縋る。


「諦めたんじゃない…」


「………ロゼット…お前のために使わせてくれ…」


 彼の最後の願い。彼女にとって聞き入れるということは残酷な現実を受け入れるということ。そんな願い、できることなら聞き入れたくなかったけれど…それも叶わなかった。彼の意識は完全に途切れ、その場で悲痛な声を上げて泣きじゃくる少女。


 現実はそれでも押し寄せて、悲しみにくれる彼女に対しても容赦などない。彼女の声を聞きつけたのか、それともダリオの血の匂いを嗅ぎつけてきたのか、人型サイズのワームのような魔物がわらわらと泥沼から這い出てくる。周囲を見渡し、迫りくる絶望。その数はとても相手に出来るような数ではなかった。小さなロゼットが震えながらその様子を見ているだけしか出来なかったが魔物たちはロゼットなど目もくれずにダリオの亡骸へと近付いてゆく。咄嗟にロゼットは剣を抜き必死で彼の体を守ろうと剣を振るった。


「駄目…いや…やだ…! やめてぇっ!! やめてよぉっ!!」


 短い悲鳴のような叫びを上げて魔物を切り裂いてゆく。それでも魔物は目もくれずダリオの体とじわじわと頭部と思わしき先端部の口を開き吸い込んでいくように食らい付く。彼の体に群がる数の多さに圧倒されながらも必死で追い払う。じわじわと沼地へと引きずり込まれ彼の体は完全に沼へと飲み込まれる。姿は見えずとも生々しい音を立てながら貪られてゆくのが分かる。我を忘れて必死に魔物に刃を向けて追い払いながら彼を手繰り寄せようと沼地に手を突っ込んでいたその時正面から巨大な顎が現われ、思わず後ずさりしてよろける。


 大量のワームの魔物に食らい付いたその顎の正体はわにのようであった。体長は十メートル前後はあろう巨大な化け物だ。大量のワームに食らいつきロゼットの存在には気づいていない様子で目の前の捕食に怯えながらその場を走り去る。


 泣きながらただひたすら、彼の言っていた向こう側を目指して絶望の中を命の続く限り走り続けた。



 ◇



「っ…!!」


 深夜、最悪の気分で目を覚ます皇女。悪夢でうなされたのかガザレリアの蒸し暑さが原因か、大量の汗をかいてしまったために水分を取るべく水差しピッチャーに手をかける。普段は冷淡に徹している彼女でも胸騒ぎのようなものを覚えるほどに生々しい夢。そんなものにうなされるような歳でもないと嫌悪感を拭うようにグラスに注いだ水を勢いよく飲み干し、ふと騒々しさに気づく。


「…外ね…」


 締めきっていた窓のカーテンの隙間から覗くと宿場付近で物々しい雰囲気が漂う。兵士達が取り囲むように厳戒態勢を敷いている。まるで今にも突入せんかとばかりに武装した様子。流石にガザレリア側も彼女が資料を持ち出したことに気づいたかと思いすぐさま行動に移った。


 同刻、アーガストとマディソンも別室で外の様子に気づき、マディソンに『足』を用意するよう頼んだアーガストはシャーナルの元へと向かう。深夜の廊下、普段は薄暗さの中に僅かな明かりが上品さを引き立てていたが今日に限っては完全な暗闇に包まれている状況が全てを物語る。漆黒の闇の中でこそ彼の目は本領を発揮する。動くものの熱源を感知できるように目の性質を変えることが出来、訓練次第ではある程度の壁を透過してみることも可能。どうやらシャーナルの部屋へ向かう熱源がいくつか確認できたようだったので彼は先回りして奇襲を仕掛ける。


 暗闇に紛れ彼らの背後へ忍び寄り、まるで闇夜で狩を行う獣の如く狙った獲物目掛けて一挙に迫る。僅かな時間、捉えてから僅か数秒ほどの出来事。送られてきたであろう兵隊を瞬く間に葬り去り、彼は何事もなかったかのようにシャーナルの部屋へと急ぐ。風貌を見るに黒衣に身を包んだ軽装。特殊任務をこなす隠密、暗殺を専門とした密偵だったのだろう。彼らは音もなくじりじりと忍び寄り強襲を仕掛ける要人暗殺のための少数精鋭。彼らが出張ってきているということ、そして外の騒々しい様相を見るにおそらくシャーナルが狙いだったのか。


 扉の前で気配を感じたシャーナルは剣を片手に、様子を伺っていると『一度』だけ扉が叩かれる。事前に合図を説明しておいたシャーナルはアーガスト達かと確認すると彼の声で返事がきたため扉を慎重に開く。互いに目と目で合図を送り、状況認識が同じであることを確認しあうと音を立てずに迅速にこの場から立ち去る。宿泊した際に予め独自に確保しておいた脱出路を使い、物影から外の様子を覗うと一戦交えるかのような緊張感漂うガザレリア軍所属と思われる部隊。


「軍が動き出すとは…公邸で何を?」


「ちょっとね。借りてきただけよ、ま…、一生返す気はないけれど」


 シャーナルが拝借してきたというものの正体を気にしつつも彼は先行し退路を確保していく。大通りを避けて裏手に回り、高層な建築物が大いに役に立った。幸運にも彼らの脱出に一役買うことになるとは考えてもいなかったが連中も愚かではなかった。既に行く手で待ち構えてた部隊と遭遇。決して数は多くはないが騒ぎが起きればあっという間に取り抑えられる。糸口を試行錯誤巡らせていると部隊から彼らに近寄る人物の影があった。


「アーガスト殿、この先は駄目だ。下水路を使って駅へ向かえ」


 ガザレリア軍に所属する隊長の一人であったリーコンだ。彼は僅かな隊員を引き連れてシャーナル達を退路へと導くために先回りしていた。先に他の隊に取り押さえられることを危惧してかなりの危険を冒して先行してここまでやってきた経緯を一通り話してから下水路へ向かわせる。


 下水施設は広大に張り巡らされており、迷宮のような構造になっているためこの地理に見聞がなければ永久に迷ってしまいそうな仕掛けも用意されている。そのために彼らはここを利用し、彼らを逃がすために動いたのだが―…シャーナルにとってはあまり心象の良いものではなかった。


「逃亡者を逃がさないための仕掛けなのでしょうね。なぜ私達に協力を?」


「リーコン殿、貴殿が協力者だと公になればただでは済まないだろ」


 二人の問いに振り返ることなく彼は淡々と案内を続けながら答える。


「だろうな、だが今のガザレリアではまともに戦争など出来んよ。上層部には何か秘策があるような事を考えている連中もいたようだがドラストニアを相手に戦争を仕掛けてもその先にあるビレフやべスパルディアの強国。レイティス、グレトンとどうやり合うと言うのだ?」


「資源だって乏しいというのに輸入に頼りきりのこの国でどう渡り合うというのだ」


 地形的にガザレリアは熱帯雨林にある国家。防御には強くとも資源の少なさと利用できる土地の狭さから外部からの資源に頼らざるを得ない。もとよりガザレリアの国内状況、戦力、資源、市場規模それらの調査密偵に来たのではないかと彼らへ問いかけるがシャーナルは内情を答えるつもりもなく沈黙に徹し、実質事実確認のようになっていた。会話の中でアーガストは僅かな違和感を覚え、背後から迫る影を察知。


「嵌められた!?」


「察知が早すぎる…。皇女殿下急いでください! アーガスト殿!」


 アーガストは頷き答えて得物を構え迎撃、シャーナルには先行の兵を遣わせ先に行かせる。襲撃者は魔物で鼠が肥大化し、牙と爪が伸びきり凶暴性が増した個体の数頭が群れを形成し奇襲を仕掛けてきたようだ。


「何事も順調というわけにはいかぬな」


「後で言い訳をさせてくれ。上の人間の指令で作られた魔物の部隊だろう。兵器利用は表向きは禁じているのにな…」


 その言葉を聞いて察したアーガストは槍の一撃を容赦なく魔物へとぶつけていく。リーコンも実際に部隊として投入されるのを初めてみたのか僅かに動揺はするものの、あの野営地でのことを思い返すとさも不思議ではない。ガザレリアそのものが法を破るというのであれば彼も『法』を気にすることなく抜刀し剣による迎撃行動に移る。限られた時間の中二人の猛者は共同戦線を張り、暗闇の下水路の中で刃が煌めいた。




 ◇



 ―――


 ――……



 どれほど歩いたのだろう…


 どれだけ時間が流れたのかもわからない。ここがどこかさえも…。


 景色は変わらず行く先々が曇天で広がる。空も陸地も、水辺とも呼べない湿った沼地も。自分の心さえも濁り灰と泥色に染まってしまっている。


 もう走る気力も残っていない。足が棒のように動かない。途中泥の丘のような足場で腰を下ろして立ち止まり、そしてまた歩き出す。体にへばり付いた泥と服に染み込んだ泥水が重石のようにのしかかり一歩一歩踏み出すごとに体が沈んでゆく。泥沼に浸かった足も自分のものでないように重たい。


 なんでこんなに必死に私は歩き続けているのだろう。もがいて、息苦しい思いもして、怖い思いもして…何度も死に掛けて。身体中が痛くて歩く事すらままならないのにそれでも体は動いている。呼吸も苦しく、絶え絶えになりながらもまだ息をして。目だってまだ開いてる。耳も聞こえて虫や蛙の音、自分が歩いて沼に浸かる音も入ってくる。


 もう…いいじゃない―…。私…頑張ったよ…。自分に出来る事も―…出来ない事だって。背伸びして大人びたこともしようとして。


 誰かに褒めてもらいたかったわけでもないし、何かになりたかったわけでもない。ただ生きようとしただけで…他の誰かに生きていて欲しかっただけ。


 …もう目の前で誰かの命が消えてしまうのを見たくなかっただけなのに。


 今の私にはそんな思いが頭に浮かんでもかき消されるように薄れてゆく。考える力さえもなくなっていくほどに沼地にじわじわと体力を奪われていくのがわかる。徐々に沈みゆく体が命そのものが吸い取られるような感覚。立つことさえもままならなくなった私は両手をついて這うようにして、沈みかかっている細い樹木にしがみ付く。


 傷だらけの掌でしがみ付くと少しだけ痛い。でもほんの少しだけ、皮も捲れていつもだったら泣きべそ掻いて痛がるのに不思議なほど落ち着いていた。


 空を仰ぐように見上げると、いつか夢で見た夕焼け―…黄昏の光が雲の隙間から見えてくる。光が眩く強くなっていく様子を見て、それが俗に言う『お迎え』なのかなとか考えながら。


 ―…私…ここで死んじゃうのかな…―


 枯れ果てた目から涙は出なかった。悲しくて死にたくもなかったのに。背後から何かが迫ってくる恐怖の音が僅かに聞こえて自分の死がすぐそこまで迫ってきている。さっきの巨大なミミズか…はたまたさっきの大きなわにかな。心は不思議なくらい落ち着いて何も考えられない状態。人ってここまで追い詰められたらこんなふうに冷めちゃうものなのかなとか思い、それはなんだか寂しくて自分とは思えないような虚しさがあった。


 これが本当の意味での『諦める』ってことなの?


 誰に聞いても答えてくれる人なんていない。


 こんなひとりぼっちで死んじゃうの?


 死という言葉が自分の心の中で響き渡り、心は諦めかけていたのにその手はか細い枝を握り続けている。何かを繋ぎとめるようにして、泥で滑り今にも離してしまいそうなのに。なぜかこの手だけは離してはいけないと、そんな気にさせる。誰かに言われたわけでも。それでも―…


「っ…くぅっう」


 唸り声にしかならない声を絞り出し、徐々に手に力が入ってゆく。


 ふと過ぎった思い、それを言葉にしようと口を開いて光に向かって叫ぼうと思ったら自然と目が潤み、乾いていた雫が溢れるように出てくる。


 右手で掴みながら…左手をあの光へ向ける。必死に何かを繋ぎ止めようと―…。


「い…生…きたい…」


 声なんて出ないと思っていたのに自分でも驚くくらいハッキリとしていた。叫びどころか声にならないような掠れ声だったけれど今の私には獣の咆哮よりも鮮明に聞こえた。諦めていたと思っていた自分の本当の思いを自分の声、そして耳で聞いて初めて知ることができた。


『良かった…』


 心の中でそう呟きながら遠のいていく意識の中で僅かに見えてくる。黄昏と赤く眩い光から黒く大きな翼を広げて段々と近付いてきて、『それ』は私の元へ舞い降りて。


 そこからの記憶はあやふやでハッキリと思い出せなかった。背後から迫りつつあったものは雄たけびのような鳴声を上げ、どこか悔しさの入り混じったようにも聞こえてた。生暖かい鱗のような堅い感触が体に残っていて、私はまだ生きているという実感だけは私の中にあった。

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