十二の五

“花祝には、遣わしの務めを終えた後もずっと俺の傍にいてほしい”


 藍鉄の瞳をまっすぐ花祝に向け、陛下はそう仰った。


 遣わしの務めを終えた後も、陛下のお傍にいるということ。


 それはつまり────


(遣わしとしての任を終えたら……内侍司ないしのつかさの女官として、私に一生側仕そばづかえをしてほしい、ということかしら)


 帝の后妃として後宮に入ることなど露とも考えておらぬ花祝は、陛下のお言葉の意図をそのように汲み取った。




 端麗で、妖艶で、童のように無邪気なところもあって、そして本当はとてもお寂しい陛下。


 そんな御方に寄り添っていたい気持ちが心のどこかにあることは、花祝もすでに自覚している。


 しかし────


 色を好み、花祝を “恋ふる人” とお呼びになる陛下のことだ。

 龍侍司としての任を解かれた花祝を側仕えとして置きながら、寵をお与えになることは十分考えられる。

 しかし、それはあくまで “恋” をお楽しみになるだけにすぎない。


 戸惑いつつも、花祝は膝の上にある陛下のお顔をじっと見下ろして口を開く。


「陛下が私の幸せを考えてくださるのは、とても嬉しいことと素直に思います。ですが……陛下には、末永き御代を築き、民のための善政をいていただければ、私は桜津の民として十分幸せにございます」


 桜津国の民であれば、今上帝の善政に喜び、皇子みこの誕生を心待ちにするのは当然のこと。

 そんな一国民としての本分に踏み留まらんとする花祝の膝から、陛下はむくりと起き上がられた。


 対面に座り直される陛下の藍鉄の瞳。

 寂しさなのか苛立ちなのか、そこに滲む思いの強さに射すくめられた花祝は、思わず肩を強ばらせる。


「つまり花祝は、俺の傍にずっといてはくれぬと……?」


「遣わしとしての使命を果たすまで、私は陛下のお傍にお仕えします。でも、その先については────」


龍染司りゅうぜんのつかさを選ぶのか?」


「えっ!?」


 突然楓を引き合いに出され、花祝は思わず素っ頓狂な声を上げた。


「ななな、何故ここで楓くんが出てくるんですか……?」


「呪符の一件で内密にする必要があったとは言え、一昨日の “ためし着” でそなたは俺の預かり知らぬところであやつと会い、膝枕までしてやっていた。そなたらの十二年の任期中、あと何度二人きりの夜があるかと考えると、大切な花祝があやつにかっ攫われてしまうのではと気が気ではない」


「いえ、あの、楓くんは盗賊ではありませんし、私を誘拐するなんてことは……」


 花祝の勘違いなぞ耳に入らぬご様子で、細く長い指を顎に添え、難しいお顔をなさる陛下。


「やはり、龍染司とは一度会って話をせねばならぬようだな……」


「え、えええっ!?」


 ぼそりと呟かれたお言葉に、花祝の心臓が瞬時に凍りつく。


 龍染司りゅうぜんのつかさは、同じ遣わしでも龍侍司りゅうじのつかさとは違い、直接的に帝の守護につくことはない。

 それゆえ、常であれば、着任と退任の際の “代わりの儀” で陛下に拝謁する機会があるだけのはずだ。


 それなのに、わざわざ陛下が楓と対面して話をするというのは、どのようなお心づもりがあってのことだろうか。

 今の流れからすると、和やかな話になるとはとても思えない。


 どっと冷や汗の出てきた花祝だが、何かを深くお考えになっていたご様子の陛下が、花祝の体をふわりと抱き寄せる。


「せっかく腕に囲った花の蜜を、俺は他の誰にも味わわせとうない。いっそこの場で味わい尽くしてしまいたくもあるが、今はまだ理性を手放すわけにはいかぬ。それに、固き蕾をこじ開けるより、花のほころびを待つ方が、蜜の甘さも格別であるからな」


「誘拐の話から、いきなり花の蜜の話になるんですか……?」


「全部こちらの話だ。気にせずともよい」


 腕の中で小首を傾げる花祝の頭上から、涼やかなれど甘き声が降ってくる。

 くすりと忍び笑いを漏らされた後で、お声をわずかに低くした陛下がお言葉を続けた。


「花祝を幸せにしたい────心からそう思うている。国の長としても、一人の男としても。だが、今のままでは、国の民としての幸せを約束できても、女としての幸せをそなたに誓うことは難しい。俺としては、何とかしてその両方を叶えたいと考えているのだが」


「陛下……?」


 陛下の仰ることの意図が掴みきれず、花祝がおずおずと見上げる。


 形の良い眉を歪めておられた陛下であったが、気遣わしげな花祝の眼差しに気づくと苦悶の表情を緩めて淡く微笑まれた。


「今はまだ花祝が俺を選べなくとも仕方あるまい。ただ、左大臣の思惑に惑わされるあまり、花祝に避けられるのはあまりに寂しいのだ」


 寂しい、と、まっすぐ告げられたお気持ちに、花祝の胸が締めつけられる。


「でも……私が恐れるのは、苛立ちと焦りを大きくした左大臣殿が陛下を傷つけることです。万が一にも守護にあたるはずの私が原因でそのようなことが起きてはなりません。私は陛下の御身を第一に考えて────……っ!?」


 ただひたすらに陛下をお守り申し上げたい。

 その思いを伝えようとした花祝の口が、矢庭やにわに唇で塞がれる。


 その甘き急襲に花祝の言葉が寸断されるも、陛下はその蜜を深く味わうことなく唇を離された。


「ちょっ、陛下、ひどいじゃないですかっ! ひとが心配してる傍から、いきなりこんな────」


 目をつり上げてなじる花祝の勢いを跳ね返すように、藍鉄の力強き眼差しがまっすぐに注がれる。


「左大臣の動向など気に留めるな。俺はあやつの欲望に屈するつもりも、己の信念を曲げるつもりもない。俺は、俺にしかできぬやり方で守ってみせる。花祝も、花祝の愛するこの国も」


 凛然とそうのたまう陛下のお声は、常のごとく涼やかで。


 左大臣の思惑など、この方の御前では塵のごとくに吹き飛んでしまうように感じる。


 それでいて、「守ってみせる」の一言には、軽やかさとは対極にある決意が込められているようで────



 この御方もまた、国を思う、民を思う、その心を、守る強さに変えておられるのだ。


 楓が鬼に立ち向かおうとするように。


 花祝が陛下を守り抜こうとするように。


 己の心を貫く芯が、陛下のお言葉によってさらに強さを増したように思えて、花祝は陛下の藍鉄の瞳をしかと見つめ返した。

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