十一の四

 西のたいで一枚だけ跳ね上げられた蔀戸しとみど

 水墨画のごとく闇に染まる庭を見せているその開口部から、の刻(午前零時)を報せる太鼓が遠くに聞こえてきた。


 花祝と楓が “ためし着” を始めてから一刻ひととき(約二時間)は経ったようだ。

 徒然つれづれにしていたおしゃべりの話題も尽きかけて、花祝はもぞ、と所在なげに身動みじろぎした。


「先日の “ためし着” が嘘みたいに何も起こらないわよね……。本来はこれほど穏やかなものなんでしょうけれど」


 忍び寄る邪気を見逃してはいまいかと視線を泳がせる花祝に、開谷かいこくの太刀を前に置いて脇息にもたれかかる楓が笑みを向ける。


「こないだは呪符のせいで、開始早々から邪気が入り込んだりしたけどね。冨樫様のお屋敷にも陰陽おんようの護符は貼ってあるはずだし、丑三つ時(午前二時~二時三十分)までは恐らく何も起こらないよ」


 確かに、“まがもの” が入ってきやすいようにと蔀戸を一枚開けてはいるが、普通の民家で穏やかな夜を過ごしている分には、そうそう “禍もの” に出くわすことなどないはずだ。


 陰陽道の浸透した桜津国おうつのくにでは、貴族も庶民も自宅の出入口には陰陽の護符を貼り、凶日や夜が更けた後は戸を閉めて “禍もの” が家に入り込まないようにしている。

 病人や死者が出たり、強き負の感情を生じるような出来事が起きなければ、邪気が人に憑くことなど滅多にないのだ。

 まして物の怪に襲われるなど、よほど戸締りが不用心か、丑三つ時にうろうろと外を歩いたりせぬ限りは有り得ない。


 楓の言葉に納得する花祝だが、それだけに先日の呪符の恐ろしさを改めて実感する。


“ためし着” のために、自分達で内裏の鬼門にある薬叉殿の護符を剥がし、 “禍もの” が入り込みやすいようにしたのは確かだ。

 だが、本来なら内裏の結界に阻まれて入り込めないはずの大物を引き込むとは、やはり降禍術こうかじゅつの効力は恐ろしいものがある。

 楓が鬼を警戒するのも無理からぬことかもしれない────


 そんなことを考えつつ、ふと楓の方を見ると。


 脇息に肘をのせて頬杖をついた彼は、冨樫と飲んだ孰酒じゅくしゅがきいているのか、頬がほんのりと紅に染まっている。

 鬼を斬る覚悟を語った時に武人らしい鋭さを滲ませていた目元は、いつもの甘やかさを通り越し、とろんと蕩けるような眼差しで蔀戸の外を眺めている。


「楓くん。この分だと “禍もの” はしばらく現れなさそうだし、入ってきても龍袿で祓える程度のものだと思うわ。私が起きているから、仮眠を取ってちょうだい?」


 先日の “ためし着” で初めて染めた龍袿が破れてしまったために、楓は休む間もなく清らなる谷へ残零ざんれい集めに赴き、新しい龍袿を染め上げた。

 何事も起こる気配のない中で座ったまま、しかも酒が入っているならば、心身の疲れから睡魔に襲われるのも当然だ。


 花祝の気遣いに、楓は目をごしごしと擦り、慌てて居住まいを正す。


「ぼっ、僕なら大丈夫だよ! ちょっとお酒が回ってるみたいだけど、蔀戸から入ってくる夜風にこうして当たっていると心地好いいんだ。それより花祝ちゃんが仮眠を取るといいよ。僕がちゃんと見張っておくから」


 あくまでも花祝の安息を優先しようとする楓の気遣いが嬉しくももどかしい。

 花祝は眼差しをわざと険しくして相対する楓ににじり寄った。


「鬼の件もそうだけれど、楓くんは一人で抱え込みすぎよ! 私も龍の通力を授かる遣わしとして、楓くんに気遣われるばかりじゃ嫌。どんな形でもいいから、楓くんを助けたいの」


「花祝ちゃん……」


 花祝の熱意が伝わったのか、頬にさす朱が一層濃くなった楓の璃寛茶りかんちゃの瞳が揺れる。


「清らなる谷から戻ったその足で襲芳殿に駆けつけてくれた時から、楓くんの負担を私が少しでも軽くできればって思っていたの。遠慮せずに何でも言ってね!」


「……本当に何でも言っていいの?」


 花祝を見つめる璃寛茶の瞳がさらに揺らめく。

 不安げなのに危うげな熱を孕むその眼差しに捉えられ、花祝は声を出すことが出来ずにこくんと大きく頷いた。


「それなら、少しの間だけ仮眠を取らせてもらおうかな」


「も、もちろん! 少しだけなんて遠慮しないで。私なら一晩くらいは起きていられるから」


「いや、短時間でもしっかり休息が取れれば問題ないよ。……ただ、そのために、花祝ちゃんの膝を貸してほしいんだ」


「もちろんよ……って、ええっ!? ひ、膝っ!?」


 楓の頼みならば何でも応えるつもりで身を乗り出していた花祝であったが、想定外の要望に頷きかけた顔を上げて思わず楓を見た。


 視線が交わった途端、楓の顔がぶわわっとさらに紅くなる。


「ごっ、ごめんっ! 膝枕はすきんしっぷの度を越えてるよね!? やっぱり今日の僕は酔っ払ってるみたいだ。今の言葉は忘れ────」

「ううん……っ。大丈夫! それで楓くんの疲れが少しでも取れるなら……」


 顔の火照りを持て余しつつ何とか承諾の言葉を口にした花祝の脳裏によみがえるのは、幼き頃に母にしてもらった膝枕の記憶。

 その温もりと寝心地の良さに大きな安らぎを感じながら眠りについたことのある花祝としては、膝枕で楓に安息をもたらすことができるのならば、拒む理由などあるはずもない。


「ど、どうぞ……」


 龍袿の内に隠れた膝を斜めに崩し、頭を載せやすいように体勢を整える。


「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」


 開谷の刀を手に花祝ににじり寄った楓は、被っていた烏帽子えぼしを外してもとどり(頭上に束ねた髪)をあらわにすると、遠慮がちに花祝の腿に頭を載せて横たわった。


 楓の頭の重みと温もりが龍袿を通して伝わってくる。

 男性の顔を眼下に見つめるという初めての体験に、花祝の心臓はとくとくと忙しく鳴り続ける。が、決して嫌な動悸ではない。


「ああ……こうしてると、すごく心地好いな」


「そう? それならよかった」


「こんなご褒美がもらえるなら、この先どんな困難が待ち受けていたって頑張れそうだよ」


「ふふっ、ご褒美なんて大袈裟ね。この程度のことが楓くんへの労いになるなら、いつでも喜んで」


「……それ本当?」


 膝に載せた頭を少し動かして、花祝を見上げる楓。

 その熱っぽい眼差しに花祝の心臓が一際大きく跳ねる。

 楓は花祝の手を取ると、己の手でそれをふんわりと包み込んだ。


「今宵、冨樫様のお邸にこうしてお邪魔して、ご夫婦の仲睦まじい姿を間近に拝見してさ……。夫婦めおとって、すごく素敵な関係だなって思ったんだ」


「うん、私もそう思ったわ。冨樫様と菖蒲様、とてもお似合いで素敵なご夫婦よね」


「僕も遣わしとしての務めを果たしたら、あんな風に温かな家庭を持ちたいな」


「楓くんなら、きっと優しくて頼りがいのある旦那様になるわね」


「そうかな……。花祝ちゃんがそんな風に思ってくれるなら────」


 花祝の手を握ったまま、楓が体ごと上を向く。

 真正面で見つめ合う楓の眼差しの熱にあてられ、花祝の鼓動が加速する。




「十二年後、僕達の任が解かれたら。花祝ちゃん、僕と────」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る