十の六

 楓の戻りを歓迎するかのように、灰色の雲が途切れて襲芳殿に陽が射した。


 一刻ひととき(約二時間)ほど前に桜花京に戻った楓が、これから花祝の元を訪れるという。


 身なりを整えた花祝は、母屋もやから続く南のひさしの下で梅雨の晴れ間を味わいながら、楓の来訪を心待ちにしていた。


(使いの方が何も言ってなかったから、楓くんはきっと無事に戻ってきているはず……! そうわかっていても、やっぱりこの目で確かめるまでは落ち着かないものね)


 手にした扇を先程から意味もなく開いたり閉じたりしている自分に気づき、花祝の口から苦笑が漏れる。


 互いの無事を確かめられたら、のんびり世間話をする間もなく彩辻宮の一件を伝えねばならない。

 谷から戻ってすぐ、休む間もなく彩辻宮邸への同行をせねばならない楓を思うと、申し訳ないという思いも強くなる。


(呪符のことがあってから、楓くんはずっと気を張っているのよね……。旅の疲れもあるだろうし、何か少しでも労いになるようなことができないかしら)


 そんなことを考えていると、小雪が小麦粉を練って油で揚げた甘い唐菓子からくだものをのせた膳を運び、楓の席を調ととのえ始めた。


「もう間もなく龍染司様が来られますわね。先日のお約束どおり、旅から戻っていの一番に花祝さまに会いにいらっしゃるなんて、本当に一途で素敵なお方でいらっしゃいますわ!」


「楓くんが襲芳殿ここに来るのは、私達がお互い無事に遣わしとしての使命を果たせているか、その確認をするためよ。己の使命を全うしようとする一途な思いは、同僚として確かに尊敬するわ」


 小雪の言に煽られては、ただでさえ落ち着かない心持ちをなお一層持て余してしまう。

 その手には乗らぬと平静を装う花祝に、小雪がにんまりと緩む口元を隠さずにじり寄ってきた。


「花祝さま、今さらすっとぼけなくてもようございますわ。あれだけ熱き抱擁で互いの想いを確かめ合われたお二人ではございませんか。お望みとあらば、今度こそ私は席を外しますので、思う存分お二人で再会の喜びに浸ってくださいまし」


「そんなこと言って、小雪は絶対覗き見する気満々でしょう!? それに、あれは単なるスキンシップであって、楓くんにも私にも下心なんてなかったんだから!」


 鼻先が触れるほどに近づいた、楓の甘やかな顔容かんばせを思い出し、花祝の胸を打つ鼓動がことさらに速くなる。


 小雪に表情を読み取らせまいと、小袿こうちぎの袖で顔を隠してぷいと横を向くと、ぷくくっと含み笑いをする声が聞こえてきた。


「すみません。花祝さまは反応が素直すぎてお可愛いので、ついからかいたくなってしまうんです。それはそうと、今日は龍染司様に彩辻宮様の一件もお話しなければなりませんし、凪人さんから彩辻宮様の情報をお聞きできれば、対策を練りやすいのですけれど……」


 小雪の言葉に、花祝は先日の彗舜帝と凪人のやり取りを思い出す。


「そう言えば、楓くんが内裏に戻る頃には、ナギ兄も調査を終えるって言っていたけれど……」


「ええ。花祝さまからそう聞いておりましたから、龍染司さまのお戻りを聞いてすぐに凪人さんをお呼びしようと思ったのです。けれど、凪人さんは本日は非番とのことで、近衛府このえふの方でも連絡が取れぬようでした」


 妄想癖が少々すぎる小雪だが、さすが腹心の女房だけある。

 こちらが指示を出す前にすでに段取りをつけていた有能さに花祝は感心するが、凪人と連絡がつかなかった、ということは────


「ナギ兄は非番だからってぶらぶら出歩くタイプじゃないわ。近衛府にいないのなら、ここに来てる可能性が高いわね」


 もはや花祝のストーキングが趣味と言っても過言ではない凪人のことだ。

 加えて、先日凪人は彩辻宮邸の調査後は花祝の監視に戻ると帝に話していた。


「坂東にいた時からナギ兄の過保護は度を越していたけれど、用があればすぐに相談できるところだけは都合がいいのよね」


 花祝はそう独り言ると、廂に面した庭の奥の木立に向かって呼びかけた。


「ナギ兄っ! そこにいるんでしょう? これから楓くんと大事な話をするから、ナギ兄も加わってほしいの」


 しかし、庭は相変わらずしんとして、木立からは何の反応もない。


「凪人さん、こちらにはいらしてないんでしょうかねえ」


「ナギ兄はきっと楓くんが今日ここに来ることを知って、私を監視してるはず。名前を呼ばれてのこのこ姿を現すだなんて木隠こがくれとしてのプライドが許さないとかなんとか、そんな理由よ、きっと」


「はあ、ぷらいど? でございますか」


 聞き慣れぬ坂東の言葉に小雪がもう一度首を傾げたとき、部屋付き女房の先導で楓が母屋に入ってきた。


「花祝ちゃん、ただいま!」


「楓くん! おかえりなさい!」


 端正な顔に綻ばせた甘やかな笑みを数日ぶりに見た花祝は、思わず立ち上がると楓に駆け寄った。


「無事に戻ってこれてよかったわ! どこにも怪我はない? 道中危険な目にあわなかった?」


「ははは。花祝ちゃんをだいぶ心配させてしまったみたいだね。僕ならこの通り無事だよ。道中かなり警戒していたんだけれど、拍子抜けするくらい何事も起こらなかったよ。その様子だと、花祝ちゃんの方でも特に異変はなかったみたいだね」


「うん、危険なことは起こらなかったけれど……実は、楓くんの不在中に彩辻宮様が参内されて、陛下とご対面したの」


「彩辻宮様が?」


「そのことで、楓くんに色々相談しなきゃいけないことがあって────」


 早速本題に入りかけたところで、花祝は自分達が立ち話のままであることに気がついた。

 小雪ら女房が、楓のためにとっておきの唐菓子と麦湯を用意してくれている。

 旅の疲れも取れぬうちにこちらを訪れてくれた楓にまずは席をすすめ、それからゆっくり話をするのがいいだろう。


(けれど、宮様のお話をするなら、やっぱりナギ兄にも聞いてもらわないとよね……。さっきは呼んでも出てこなかったけれど、絶対どこかに隠れてるはず。宮様のことで相談があると言えば出てくるだろうけれど、誰が聞いているかわからないから大声で宮様の御名を口に出すわけにはいかないし……)


 どうにかして凪人に出てこさせる方法はないかと考えた結果、花祝はとある手段に出ることにした。


「楓くん、ちょっとごめんっ!」


 目の前の楓にそう断りを入れると、返事を待つことなく彼の胸に飛び込んだのだ。


「えっ!? 花祝ちゃん……っ?」

「きゃああっ♡」


 楓の戸惑う声と小雪の歓喜する声が同時に上がる。


 花祝は夏直衣なつのうしを纏う楓の背に腕を回すと、その腕にぎゅうっと力を込めて抱きしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る