九、龍侍司、帝に侍りて彩辻宮様と対面せしこと

九の一

 襲芳殿しゅほうでんの庭先に咲く紫陽花が、雨粒を集めて雫をつくっては、しなだれて微かに揺れる。


 薄墨色に雲が広がり、しとしとと柔らかな雨が降る昼下がり。

 花祝の元を楓がわざわざ訪ねてきた。


「えっ? 明日からまた “清らなる谷” へ?」


「うん。次の龍袿を染めるために、黄龍の残零ざんれいを集めに行こうと思って。今日は出立前に花祝ちゃんに会っておきたくて挨拶に来たんだ」


「そうなんだ……。先日赴いたばかりだというのに、また行かなくてはならないのね。しかも、こんな梅雨のさなかに」


「それが龍染司の務めだからね。それに、こないだ染め上げた若紫の龍袿は “ためし着” で破れてしまったし、僕としては花祝ちゃんに龍の気がより強く宿る新しい龍袿を一刻も早く纏ってほしいんだ」


 楓の纏う穀織こめおり夏直衣なつのうしは涼しげな薄群青うすぐんじょうで、雨に染まるがごとき深緑のあこめ出衣いだしぎぬとして襟や袖から覗かせている。


 この時季ならではの美しい配色に、武家出身とは思えぬ洗練された感性であると感嘆する花祝の装束は、薄青と黄の龍袿を組み合わせて鶸萌黄ひわもえぎ小袿こうちぎを羽織った日常着。

 略装ながら、やはり時季にぴったりの “若苗” をかさねの色目として纏っている。


 梅雨空の下、薄暗い母屋もやの中でも輝くような二人の容貌に、龍侍司付きの小雪は感嘆のため息を漏らしつつ、麦湯と唐菓子を差し出した。


「残零集めの数日間、花祝ちゃんと離れてしまうのはとても心配ではあるんだけど……。今回も冨樫様が同行してくれるから、先日の物の怪のことを相談してみようと思うんだ」


「そうね。冨樫様は龍染司として十二年の任期を全うされた方ですものね。色んな経験を積んでこられたでしょうから、今後の有効な対策も教えていただけそうね」


 楓を送り出すことに不安がないと言えば嘘になる。

 しかし、凪人が外郭の壁に貼られていた呪符を剥がしたことで、恐らく犯人はこちらがその企みに気づいたことを知ったはず。

 であれば、こちらが最大限に警戒している今この時期に次の手を打ってくるとは考えにくい。


 楓としては、苦労して清らなる谷に辿り着いたならば、数日間はそこに留まり様々な色の残零を集めたいところであろう。

 しかし、今回の目的は黄龍のみ。

 己の不在が長引くことで花祝の身に危険が及ぶことを懸念し目的を絞ったのだと悟った花祝は、せめて旅立つ彼にできる限り不安を与えまいと、努めて明るい笑顔を楓に向けた。


「雨の中、しかも出立の前の慌ただしい中で、私を気遣ってくれてありがとう! 楓くんが不在の間は凶日もないし、何事もなく過ごせるはずだから、あまり心配しないでね」


「あ、うん……。今日こちらへ伺ったのは、確かに不在の間の花祝ちゃんが気がかりだからに他ならないんだけれど、実はもう一つ理由があって……」


 凛々しくも甘やかな眼差しで花祝を見つめていた楓が、急に頬を赤らめて視線を逸らす。


「もう一つの理由?」


 花祝が小首を傾げて問うたが、顔を上げた楓が視線を送ったのは、花祝の斜め後ろで同じく首を傾げていた小雪に対してであった。


「小雪さん、実は龍侍司どのに大切なお願いごとがあるのです。女房の皆様には、一旦席を外していただきたいのですが……」


「えっ!? そんな重要なお話があるの?」


 出立前の挨拶に立ち寄っただけだと思っていたのに、楓の想定外の言葉に花祝は戸惑いを隠せない。


(先日の呪符のことで、楓くんが何か情報を掴んだのかしら?)


「そういうことだから、下がっていいわ」


 主人である花祝から改めて指示を出すと、小雪は慎ましやかな表情で両手をついて頭を下げた。


「承知いたしました。では、私を含め、部屋付きの者も全て下がらせていただきます」


 普段はあれほど席を外すのを嫌がる噂好きの小雪なのに、今日はやけに聞き分けがよい。

 楓からの願い出であるし、遣わしの職務に関わる重要な話に障りになってはならぬと心得たのであろうか。


 女房達が退出する衣擦れの音が聞こえなくなったことを確かめてから、花祝は居住まいを正して楓に向き合った。


「それで……大切な願いって?」


 できるだけ声を控えて楓に問うと、楓の頬にさした赤みがますます色濃くなる。


「うん……人払いまでしてもらってすごく気が引けるんだけど……花祝ちゃんにお願いっていうのはね────」


「うん、なあに?」


「その……花祝ちゃんに、もう一度 “すきんしっぷ” を許してもらえないかと思って」


「え……えぇ!? スキンシップ!?」


 前のめりで見つめていた楓の口から想定外の言葉が飛び出して、花祝は思わず大声を上げて仰け反った。


 スキンシップと言えば────


 つい先日、楓とのスキンシップを妬いた彗舜帝が、濃厚なスキンシップを花祝に求めてきた一件があった。


 楓がそのことを知っているとは考えられないが、坂東の国言葉である “スキンシップ” を、京の武家の出である楓が知っているとは思えない。


 花祝の過剰な反応に、楓がわたわたと焦り出す。


「ごっ、ごめん! いきなりそんなこと言って! 嫌だったらきっぱり断ってくれていいから!」


「あの、嫌も何も……どうして楓くんがその言葉を……?」


「実はあの “ためし着” の夜の翌日、凪人さんに偶然会ったんだ。僕が喜びのあまり花祝ちゃんを抱きしめたのをまだ相当怒っていたから、改めて謝ったんだけど……。そうしたら、凪人さんから『勘違いすんじゃねえぞ!』って凄まれて」


「勘違い?」


「坂東には親しい間柄で交わす “すきんしっぷ” っていう習慣があるんでしょ? 花祝ちゃんはそれに慣れてるだけだ、自分が特別だと勘違いするな、って言われてさ」


「ナ、ナギ兄がそんなことを……」


 強ばっていた花祝の表情からふにゃりと気が抜ける。


 楓の願いごとは、あの呪符に関することでも、遣わしの務めに関することでもなかった。


 よもや楓がスキンシップを請うてくるとは────


 確かに、坂東の人間はスキンシップを日常的に行うので、都人みやこびとに比べて人との身体的接触の頻度が高い。

 男同士が肩を抱き合ったり、仲の良い乙女が手を繋いで歩いていたりする光景を見るのは日常茶飯事である。

 家族などのさらに親しい間柄では “ハグ” と呼ばれる習慣もあり、花祝もかつては家族や乳母、凪人達乳兄弟とハグを交わしていた。


 しかし、裳着もぎという成人の儀式を境に、父からは家族も含めた男性と今後はスキンシップをとらぬようにと諭された。

 坂東に土着しつつあるとは言え、藤原家は貴族の端くれ。

 さらには、龍鱗桜りゅうりんざくらの咲く十二年に一度の佳日に生まれた花祝は、十七の春に龍侍司として参内することが決まっていた。

 坂東藤原家の娘として、ひなくさいと罵られるような立ち居振る舞いは避けなさい、と────


 したがって、幼き頃の習慣であったことは確かだが、成人男性とのスキンシップに花祝が慣れているなんてことはないのだ。


 それなのに、凪人はなぜ楓に『花祝はスキンシップに慣れている』などと言ったのだろう。


 ……と、そこまで考えて思い当たることがひとつ。

 凪人には清龍殿で彗舜帝に抱き寄せられているところを見られ、彼の前で “嫌ではない” とまで言わされたのだ。


(そうか……。ナギ兄の中では、陛下とのもスキンシップという解釈に落ち着いたのね。道理であの時のことをしつこく追及してこないはずだわ)


 当惑が顔に表れた花祝を窺いながら、璃寛茶の瞳を子犬のように潤ませた楓が再び請うた。


「花祝ちゃんを内裏に置いたまま数日間も京を離れるなんて、僕はとても不安で……。自分勝手なのは重々承知だけれど、出立の前に花祝ちゃんの温もりをもう一度腕の中に確かめておきたいんだ。……駄目、かな?」




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